1話 招待されて森の中
──4月。入学式。今日から高校1年生。
部活は何にしようか、仲の良い友達はできるだろうか、遅刻せずに毎朝ちゃんと起きれるだろうか、勉強についていけるだろうか。
なんてありふれた(おそらく周囲の新入生と同じ)悩みを抱えながら、校門に特設された桜をあしらったピンクのアーチをくぐる。
中学まで仲の良かった友達とは違う高校になってしまったから、現状、不安の方が大きめ。
はたして、この高校でうまくやっていけるだろうか。
なんて思いはすぐに払拭されることになる。
部活は中学の時と同じ卓球部に入り、同じ新入部員の奴とよく話すようになり、いつの間にか友達に。
通いやすい高校──家の近所の高校を選んだから、遅刻することもなく。
勉強面でも、偏差値がそこまで高くない高校だから、他人に後れを取ることもなく。
なんとも素晴らしい高校生活を送れそうだ、と思った。
──高校2年生の冬までは。
◆
年末、12月29日。
家の大掃除で頑張りすぎたからか、熱を出し、体調を崩して部屋で寝ていたのだけれど。
どうにもならない腹痛で、自室のドアを開け、トイレに駆け込んだ。
鍵をかけ、ズボンを下ろそう──と腰の横に手をかけた瞬間、胸の奥がむかむかとし始め、何かが『上ってくる』のが分かった。
なるほどやはり、おかゆとはいえ食べてすぐに横になったからか、と諦め、何か──十中八九吐瀉物だろうそれを、便器の中に吐き出した。
赤。
真っ白の便器は赤一色に染まり、便器から飛び散った赤い何かが、床についてしまった。
『何か』。この時まで、一体何が起こったのかわからなかったのだ。
口の中から鼻に抜ける、鉄の匂い。
大量の、真っ赤な──血。
そんなものを吐き出しているのだから、パニックになっても仕方がないと、半年経った今になって思うのだけれど。
当時は体調が悪かったのもあり、ああ、床が汚れてしまった、程度にしか考えられなかった。
いや、分かってはいたのかも知れない。
吐き出した真っ赤なそれを流した後、床に飛び散った血をトイレットペーパーで拭きながら、え、え、と頻りに呟いていた記憶がある。
そしてそれを、親に言うべきか、と考えていたのも記憶にある。
時期が時期なだけに、個人がやっている病院──町の病院、みたいなのは軒並みしまっているだろうし、そうなると街中の大きな病院に行き、大金払って検査してもらうのかな、嫌だなぁ、と床を拭きながら考えていると、再び吐き気が。
今度こそ吐瀉物であれ、なんておかしな願いを込めて、また便器に顔を向けて、口を開けてみる。
真っ赤。
もうこれはダメだ、親に言おう。別に悪いことをしたわけではないのだから。
そう思い、立ち上がろうとしてみても、足に力が入らない。
血を吐きすぎて貧血にでもなったかな、と考えたところまでは覚えている。
そこから先は覚えていない。
視界が暗転したから。
◆
はっ、と目を覚ますと、真っ白な壁。
それを天井だと認識するのに、数秒ほど。
視界の右の隅に見えるカーテンの真っ白さと、同時に見えた点滴の管から察するに、俺は病院のベッドで寝ていたらしい。
ベッドの左側には、母さんが両手をギュッと組んでいた。
まるで、神様にでも祈っているかのように見えた。
母さんの方を向こうとして、顔を左に向けただけなのに、襲ってきた腹部の痛みに耐えられず、ぐ、なんて間抜けな声が出た。
あの時の母さんの顔は、よく覚えている。ぼろぼろと涙をこぼしながら、修太、修太、と頻りに俺の名前を発していた。
病室の外で会社に連絡していた父さんも、急いで俺の寝ているベッドの横に来た。
二人とも、なんで絶望的な顔をしているのかは、まだ分からなかった。
◆
結論から言うと、俺は原因不明の謎の病にかかっている、ということだった。
『原因不明』で『謎の病』なんて、そもそも存在するのか──なんてどうでもいい考えは、担当医師からの病状の報告で、頭の片隅に追いやられた。
内臓の動きが明らかにおかしい。
老人のそれに近い状態。
──ということだった。
いたって健康な身体で生まれて、今日この日まで生きてきたというのに。
別に病弱だったわけでもないのに。
なぜか、内臓が弱っていた、とのことだった。
その日から、検査入院が始まった。
最初は三日ほど様子を見て、症状が落ち着いてきたら退院する、という手はずだった。
年末の予定──友達数人との約束で、忘年会で焼き肉に行く予定があるのにな、なんてことを腹の痛みに耐えながら気楽に悩んでいた。
入院初日の俺の浅い考えは、三日目、大晦日に完全に覆ることになる。
内臓の一部に腫瘍が見られる。
そのため、手術で取り除く必要がある。
──とのこと。
友達には、すでに『ごめん、入院することになっちゃったから、焼き肉はパスで』とメッセージを送ってあるから、そこはもう気にしていない。
一番気になったのは、担当の医師と看護師さん、それと父さんたちの会話。
がんがどうだとか、そんな感じのこと。
がん、ガン、──癌。
なんで俺がこんな目に、と母さんが横にいるのに、涙を流してしまった。
そんなこんなで、入院はしばらく続くことになり。
◆◆◆
今日に至る。
「────!」
「────!!」
「────!!」
さっきまでのは走馬灯か、なんて考えながら、閉じていた目を開ける。
「修太!」
最初は、母さんの声。
入院初日みたいにぼろぼろと涙をこぼしながら、俺の左手を握る力を強めた。
「修太さん、起きましたか!?」
看護師さんが、担当医師に俺が起きたことを伝える。
担当医師は、ベッドの右隣で必死に複数の何らかの機械をいじっている。
──あ、あの機械って、よくドラマに出てくる、人が死ぬと『ピーーー』って鳴るやつだよな、と思ったところで、ようやく事態を把握する。
ああ、俺死ぬんだな、と。
それならば、走馬灯を見ていたことにも理由がつく。
「修太、気をしっかり持って!」
「大丈夫だぞ修太、父さんと母さんがいるからな!」
母さんと、父さんの声が聞こえた。
ぼんやりと薄くなっていく視界の隅に、父さんと母さんの顔が見えた。
だから、伝えよう、と思った。
伝えなきゃ、と思った。
痛みはもうない。
苦しみも、もう。
「いままで、ありがと」
感謝の気持ちを、伝えることができた。
それと。
「だいすきだよ」
最後の最後に、照れながら、そんなことを口にした。
◆◆◆
◆◆◆
真っ白。
な、世界。
ここはどこだ、なんて気持ちはない。
少なくとも、病室ではない。
おそらく、死後の世界。
どこまでも続く真っ白な世界。
空も地面も──というか『上』も『下』も真っ白だから、本当に自分の足で立っているのか、分からなくなる。
でも、ふわふわと空を浮かんでいる感じはないしなぁ、なんてことを思った。
「さて、と」
死後の世界だからだろうか。
腹の中の痛みがまったくなくなったから、だろうか。
「天国か、地獄か」
とんでもなく大事な二択を、ぼんやりと頭に浮かべていた。
いや、俺が決めることじゃないんだろうけど。
そもそも天国や地獄って実在するのかな、とも思うけれど。
死後の世界があるのだから、きっとあるだろう、と考えていると、目の前が輝きだした。
「な、なに……?」
輝きの中に、誰か──人の影。
一体何が、と考える暇もなく、その光の中から人が──女性が歩いて出てきた。
金髪で、結んでいないロングヘアー。瞳も髪と同じ色。
服装は──この空間と同じ色の、真っ白なワンピースをまとい、靴は履いていない。
やや警戒している俺の感情が分かったのか、温和な笑みを浮かべて、女性が口を開いた。
「初めまして、戒式修太」
「……!」
俺の名前を知ってるってことは──閻魔様、とかだろうか。
え、じゃあこれから閻魔様の裁判的なあれがあるのかな。地獄行きだったら嫌だなぁ、なんて考えていると、ふふっ、とその女性が笑った。
「そう警戒しないでください。閻魔様、みたいな存在ではありませんから。私は──女神、と名乗っています」
「そ、そうっスか」
名乗っている、と言うあたり、本当の女神ではないのだろうな、と思ったけれど。
そこについて質問するのは意味がなさそうなので、別のことを訊く。
「分かりました。女神様、って呼びますけど……ここって死後の世界、で合ってます?」
質問におかしなところはなかったはず。
純粋な疑問を訊いただけ。
だけれども、女神様はなぜか『おぉ』と感嘆の声を上げた。
「飲み込みが早くて助かります。ただ、ここから天国や地獄には行けません」
「……どういうことっスか?」
そういった世界はない、という話だろうか。
じゃあ、この真っ白な世界で、一体何をすれば。
「異世界転生をしていただきます」
「は?」
素っ頓狂な声が出た。
だって『異世界転生』ってのが、本当にあるとは思っていなかったから。
「異世界転生について、お教えする必要はありますか?」
「いや、ないっスけど……え、異世界って本当にあるんですか?」
「まあ、はい」
──何か濁されたような感じが。
まあいいか、と2個目の質問をしようとしたのだが、女神さまが先に口を開いた。
「私の世界に招待しますね、迅速者」
「じんそ……え、なんて? ……って、うわ!」
再び、目の前が光り輝き始めた。
さっきと違うのは、その中に映っていたのが、薄暗い緑色の何か、というか『どこか』、ということ。
「私の世界を救ってください、迅速者」
「え、あ──」
訊く暇も、答える暇もないまま。
眩しくて目を瞑ったまま、俺は、光の中に吸い込まれた。
◆◆◆
瞼の外の眩しさが消えて、鳥のさえずりが聞こえる。
ゆっくりと目を開けると、そこは。
「ここ、どこ……?」
背の高い木々に囲まれた、深く暗い森の中らしき場所だった。




