親子
竣工から、何日か経った、夕方。
間欠泉のタワーの、最上段。鉄骨の梯子を、登り切ったところに、小さな展望台のような踊り場がある。
ヘルマンが、設計の途中で「上で、配線の点検をする場所がいる」と一言、足した場所。
レナは、その手すりに両手をかけて、身を乗り出している。
岩盤に空いた、楕円形の大穴——その向こうに、電気の灯っていく地上が見える。
電線天蓋。
電柱と電線と、また電柱とまた電線が、絡み合って空を覆っている。
いつもの、電線ジャングル迷宮都市。
何も、変わっていない。
ギルマスの作った高圧線が、地下を通っている。地上の電線天蓋は、ほとんどそのまま残っていた。
誰が作ったか分からない、名もなき電線が、家々に電気を送っていた。
線守たちが、今日も見回っている。職人街の工房の煙突から、湯気が立ち上っている。
レナは、しばらく黙って、その風景を見ていた。
(……変わって、ない)
(……すべて、変わった、はずなのに)
(……何も、変わってない)
ヘルマンが、隣に登ってくる。ふー、と、軽く息を吐く。階段が長い。
「……お前、こんなとこ登るな」
「親方が、登る場所作ったんですよ」
「……俺は点検のために、作った」
「点検、しに来たんですか」
「……」
ヘルマンは、答えない。
手すりの別のところに、肘をつく。眼下の風景を、しばらく見る。
二人で、しばらく無言で見下ろす。
電線天蓋の、隙間から見える職人街。
一軒の家の屋根の上で、線守が歩いている。いつもの線守。雪の上に、足跡が点々とついている。一歩ずつ、丁寧に、屋根の縁を、辿っている。被覆のわずかなささくれを見つけては、テープを巻いている。
別の屋根の上で、何かが、動く。
ダイナモンキー。
一頭の、若いダイナモンキーが、屋根の上に据え付けられた、ぼろぼろの何かの上で、ぴょんぴょん、と跳ねている。
新しい家電だった。
ダイナモンキーが、修理したもの。
廃棄された、旧型の井戸ポンプ。
樋は、どこかの工房から出た銅管の切れ端を、いくつか繋いだもの。
給電線は、屋根の側面を伝って、近くの電柱まで上がっていた。
柱の途中で、低圧線に絡んでいる。タワーから保護区方面に、新しく引いた低圧の枝線。今朝、稼働を始めた、その線。
ぽつ、ぽつ、と、樋から、水が、出ている。
別のダイナモンキーが、隣の屋根から駆けつけてくる。三頭、四頭。
みんなでポンプを囲んで、はしゃいでいる。
一頭が、樋に手を突っ込んで、水をすくおうとして、こぼす。
きー、という、歓喜の声。きー、きー、と、尻尾のLEDが、明滅する。
別の一頭は、筐体のボルトを点検している。腰のあたりの毛の中から、何かを引き出す。
スパナ。
柄の腹に、油性ペンの字が、消えかけて残っている。誰かの工具を、黙って盗んできた奴だ。
スパナの口を、ボルトの頭に当てる。きゅっ、きゅっ、と回す。
きゅっ。
緩んでいたボルトが、噛み直す。
満足したように、尻尾のLEDを、ぽわっ、と強く灯らせる。それから、スパナを毛の中に戻す。
ダイナモンキーたちは、ポンプの上で、また、跳ね始める。一頭、二頭、三頭。ぴょん、ぴょん、ぴょん。わー、わー、わー。
レナは、自分の足元の、足場の鉄骨をちらりと見下ろす。
手すりを握り直す。跳ねたくなる衝動が、指の中に残る。
ヘルマンは、隣で何も言わない。手すりの別のところに、肘をついたまま。
レナは、ヘルマンの横顔を、ちらりと見る。
ヘルマンの、口の端が、満足げに上がっている——気がする。
***
地上の、ダンジョン入り口の広場が、楕円形の天井の空越しに、見える。
レナは、目を凝らす。
広場に、人が五人集まっている。
冒険者たち。
革鎧、ローブ、長杖、矢筒、剣。
リーダーらしい若い剣士が、何か長台詞を述べている。
声はここまでは届かない。けれど、身振りでわかる。
腕を大きく振る。仲間たちを見渡す。
別の冒険者が、片手を上げて応える。長杖の冒険者が頷く。矢筒の冒険者が、苦笑いをする。
五人で輪になる。
それから、五人とも片手を出して、真ん中で合わせる。
「おう!」
——その声だけが、わずかにここまで届く。
輪がほどける。五人の冒険者たちが、ダンジョンの入口の方へ、歩き出していく。
レナは、しばらく、それを、見ている。
ヘルマンが、ふと、視線を横へ流す。
それから、ヘルマンの左手が、軽く上がる。
指さすともなく、肩の高さに、それは止まる。
レナは、その指の方向を、目で辿る。
遠景。
電線天蓋の、奥の奥。
職人街のさらに、向こう。
森の縁の、ぎりぎり、まだ電線が残っているその境目。
電線の上に、ダイナモンキーが二頭いる。
大きい方と、小さい方。
母と子。
母の尻尾の先のLEDが、ぽわっ、と、青く灯っている。子の尻尾は、まだ短く、光らない。
母のお腹に、しがみつくように寄り添って、電線の上を、ゆっくりと進んでいく。
レナの息が止まる。
電線の途中で、母の足が止まった。
顔を、ゆっくりとこちらに向ける。
子も母の腕の中で、首を上げて、同じ方向を見る。
二頭の視線が、タワーの最上段に来る。
しばらく、こちらを見ている。
子が、母の腕の中で、わずかに身を乗り出す。母の手が、子の背中を軽く押し戻す。
母は、こちらを警戒している様子はない。電線を、走り去ることもしない。ただ、二頭で、こちらを見ている。
母の、尻尾のLEDが、ぽわっ、と、もう一度、強く、明滅する。
***
レナは、ふっと、肩の力を、抜く。
それから——
ヘルマンの、肩に、頭を、預ける。
ことん。
ヘルマンの、革のジャケットの肩が、固い。けれど、温かい。雪混じりの空気のなかで、その温かさだけが、はっきりしている。
ヘルマンは、何も、言わない。
身じろぎも、しない。
ただ、遠景の、ダイナモンキーの親子を、見ている。
レナの腰の、コートの裾の下。
そこに、いつのまにか、何かが、ある。
ゆらり、と、動く。
長くて、毛深い、ケーブルのような、尻尾。
朝、突然生えて、突然抜け落ちたもの。
それが、今またある。
レナの尻尾は、雪混じりの風に、ゆらり、と揺れていた。先端の毛の中に、青い光が、ぽつっと、灯る。
——ぽわっ。
母モンキーの尻尾のLEDと、同じ色。同じゆっくりとした明滅。
ヘルマンは、それを見ている。
けれど、何も言わない。
バルトが、下段から、低く、ぼぅ、と唸る。胸の青い光が、いつもよりほんのわずかに、強くなる。バルトも見ている。
ダイナモンキーの親子が、もう一組の親子を見ている。
お互いに見ている。
それだけの時間だった。
それから、母は、また電線の上を歩き出す。子は、母のお腹にしがみつき直す。
母の尻尾のLEDが、ぽわ、ぽわ、と、ゆっくり、明滅している。まるで子守唄を歌っているように。
レナの目の縁が、熱くなる。
けれど、今度は涙はこぼさない。
ただ、見ている。
ヘルマンは、何も言わない。手すりに、肘を、ついたまま、遠景の親子を、見ている。
ヘルマンの目も、優しい。
レナは、それを、横目で、見る。
レナの尻尾の先のLEDが、もう一度、ぽわっ、と、青く、明滅する。それから、ゆっくり、ゆっくり、と、明滅を、続ける。母モンキーの尻尾と、同じ、リズムで。
ヘルマンの肩は、固いまま、温かいまま。
レナは、目を軽く閉じる。
電線天蓋の低い唸りが、ずっと遠くで続いていた。
1907年、ダイナモンキー自然保護区を作ったレナ・カーシュタインは、その後、AGマギクラフトを退社。ヘルマン・ヴァイス工房を継ぎ、人生の大半を迷宮都市で過ごした。
迷宮都市の地下電線はその後、コアの影響で暗渠がダンジョン化し、送電が一時停止するなどの災害に見舞われたが、この時作られた電線網が代替として使われ、事なきを得たのだった。




