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到着

 駅舎を出た瞬間、レナはまず空を見上げた。

 そして、それから三秒ほど、口を開けたまま動けなくなった。

 空が、線で区切られていた。

 細いもの、太いもの、束になったもの、たわんで垂れ下がったもの。鈍い金属光沢の電線が幾重にも交差して、雲を編むように頭上を覆っている。雀が止まり、何かわからない小動物が一匹、線の上をするすると走り抜けていった。


「電線だ……」


 呟きが漏れた。生まれて初めて野生のクジラを見た子供のような、間の抜けた声だった。


『OM架空電線、JIS581番、屋外用メタルスライムシース・キングスライム被覆電線、38スケア』


 足元から、丁寧な少年の声がした。レナの腰のあたりまでしかない、白い装甲の小型ゴーレム――フェネクが、視覚センサーを上向けて電線を解析している。


「JISの三桁台……建国時代からあるやつね」

『よくご存じですね、レナ』

「そのくらい材料規格表に書いてあるわよ」


 レナは肩のカバンを掛け直した。王都の駅前なら、こんなものは見えない。

 あの街では、二十年前からすべての送電線が地下化され、さらに昨年、転移塔ウォーデンクリフ・タワーによる転移送電網への完全切り替えが完了した。

 レナが物心ついたころには、空には鳥と雲しかない。それが当たり前だった。


 ここは違う。空に線が走っている。

 まるで異世界のような不思議な感覚がしたが、最初の感想は「ふうん」だった。


 ***


 駅前のコンビニに入って、レナはまっすぐ冷蔵棚に向かった。

 黒い小瓶が三種類、味ごとに並んでいる。

 モンスターブロジア。栄養ドリンク。

 社畜のレナは、これがないと生きていけない。本当に生きていけない。

 三本まとめてレジに置くと、初老の店主がじろりとレナを見た。


「あんた、王都の人かい」

「……どうしてわかるんですか」

「靴が綺麗すぎる。あと、ブロジアを三本まとめて買うのは王都の若いのだけだ」


 店主はにやりと笑って、紙袋に入れてくれた。レナは曖昧に会釈をして、店を出た。


 コンビニの前にベンチがあった。フェネクを足元に座らせ、自分も腰を下ろし、PCを開く。

 コンセントを探した。

 ない。

 もう一度、念のため、ベンチの周りをぐるりと見回した。やはりない。柱にも、店の壁にも、自販機の脇にも、充電ポートというものが一つもない。


「……くそう、充電ポートもないのか」


 王都の駅前なら、ベンチごとに必ず一つはある。冷暖房完備の充電ブースまである。

 レナはため息をついて、カバンから白いケーブルを取り出した。柔らかく、ふにゃりと指に絡みつく、熱変性スライム被覆。カテロク白ケーブル。

 ケーブルの片方をPCに、もう片方をフェネクの背中のUSBポートに挿す。フェネクの装甲がほんのり青く灯った。


『私の蓄電池容量、八割を切っています、レナ。長時間の使用は控えてください』

「ごめん、十分でいいから」


 モンスターブロジア苺味を一気に半分まで飲み干して、レナはPCに向き直った。受信ボックスを開いて、頭を抱えた。


 上司からメールが来ていた。


 しかも出張中の部下に、当然のように新しい案件を振ってきている。


 件名を見ただけで眉間に皺が寄る。「至急:B事業部案件の見積もり確認の件」。至急なら、まず渡す相手を考えろ。レナは深く息を吸って、返信フォームを開いた。


『お疲れ様です。現在私は出張中につき、現地業務を優先しております。見積もりのご相談に関しましては、まず弊社3階、事業部に入りまして、西側の部長の机の後ろの本棚にございます『AGMカタログ1905年度版』が最新版となっておりますので、そちらをご参照いただけますようお願い申し上げます。

 なお、出張中の担当者に対して新規案件をご依頼いただくエキセントリックな部長の運用方針については、弊社女性職員一同の新しい陰口のネタになりうる可能性を秘めた特例であり、今後の展開も含めてぜひご相談の機会をたまわりたく存じます』


 ここまで打って、指が止まった。

 止まったまま、十秒ほど経過した。

 そして両手の人差し指がバックスペースキーに重なって、カタカタカタカタカタカタと連打された。カタカタカタカタカタカタ。文章が消滅した。

 もう一度、深呼吸。


『順調です、ボス。ただいま現地に着きました』


 送信。

 PCを閉じて、レナは天を仰いだ。仰いだ先には、相変わらず電線がある。


 ***


 ヘルマン・ヴァイス工房までは、徒歩で四十分ほどらしい。バス停もあったが、次の便まで二時間かかるようなので、歩いていった方が結果的に早く帰れそうだった。

 レナはフェネクを連れて歩き出した。

 コンビニから一区画進むごとに、空の様子が変わっていった。

 駅前の電線は、まだ整然としていた。三本ずつ束になり、規則正しく柱と柱を渡っていた。

 けれど二区画目に入ると、束が増えはじめた。

 五本、八本、十二本。

 古い線と新しい線が並走し、時々ジャンクションボックスから四方に枝分かれしている。


 三区画目で、レナは初めて立ち止まった。

 頭上に、空が、ほとんどなかった。


 電線は天蓋になっていた。何百本――いや、たぶん何千本もの線が、複雑に絡み合って頭上を覆っている。古びた灰色の被覆、新しい白の被覆、用途不明の極太ケーブル、毛細血管のように這う細い信号線。それらが層を成し、互いに編み込まれ、もはや一枚の織物のように見える。


 陽の光は、わずかに線の隙間から零れるだけだった。地上は薄暗く、湿った金属の匂いと、嗅いだことのない酸味のある臭気――あれがスライム臭か、と頭の隅で考えた――が漂っていた。


『レナ』

「……うん」

『大丈夫ですか』

「大丈夫」


 大丈夫、と言いながら、レナは自分の声がいつもより小さいことに気づいていた。

 最初は珍しいと思った。

 次に、面白いと思った。

 そして今、レナは少しだけ、怖いと思っていた。


 何かが頭上から見下ろしている、という嫌な感じがあった。電線そのものが、生き物のような何かで、まるで長い時間をかけて、少しずつ街を包み込もうとしているかのような気がする。


 レナは普段、こういう非科学的な感覚を信じない。古びた洋館はただの建物だし、廃病院もただの建物でしかない。電線は電線だ。

 

 それでも、空が見えないという事実は、想像していたよりもずっと、人を不安にさせるものだった。


 どこかでカチン、と小さな音がした。

 リレーの接点が切れる音だった。

 続いて、別の方角からカチン、カチン、と。

 揚水ポンプだろうか、エレベーターだろうか、それとも別の何かが生きている。

 あちこちの建物の中で、何かが今、動いている。


「本当に四十分で着くの? フェネク、あなたのナビにこの街の地図、ちゃんと入ってるよね?」

『迷宮都市の最新版を出発前にダウンロードしました。ただ』

「ただ?」

『地図の更新日が、二十年前です』


 レナは、無言でフェネクの頭を見下ろした。


「……二十年前」

『はい、レナ。二十年前のモンスタースタンピードの災害復興を機に、王国全土で被害の実態調査と測量が行われました。その時のデータがそのまま使われているのだと思われます』

「つまり、新しいお店とか、新しい電柱とかは、載っていないの? なんで? ここに住んでる人たち、そういうのが欲しいと思わないの?」

『理由は不明ですが、迷宮都市の土地の管理権限は、実質冒険者ギルドが握っているため、彼らに地図をもらわないといけません』


 レナはもう一度、空を見上げた。

 電線。電線。電線。

 どこへ続いているのかも、誰が引いたのかも、いつ引かれたのかもわからない、無数の線。

 ふと、店主の言葉が蘇った。靴が綺麗すぎる、と。

 ここから先、自分の靴は、たぶん綺麗ではいられない。


「……行きましょう、フェネク」

『はい、レナ』


 一歩踏み出した。靴底が、何かべたつくものを踏んだ。見ないことにした。

 電線に覆われた空の下を、二人は歩いていった。

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