第320章:魔王の御前、哀れなピエロの挨拶
貝森拓人からの暗号通信を受け取った瞬間、早瀬碧の瞳に宿ったのは、この世のすべての光を消し去るような漆黒の怒りだった。
おじさまが即座に私設の特殊調査班を動かし、かすみの療養邸宅のすぐ近くにある、不審な「自称・隣人」の滞在先を特定するのに、一時間もかからなかった。
逃げも隠れもしない。早瀬碧と、そのおじさまという、日本の政財界を裏から牛耳る二人の絶対的な権力者が、男が潜む海辺の小さな別荘へと直接その足で乗り込んだのだ。
「――ッ!?」
別荘の扉を開けた瞬間、そこに立つ二人の圧倒的な威圧感を前に、南条隼人の身体は硬直した。
なぜ、ここに早瀬碧とおじさまがいる。居場所がバレたのか。
一瞬、極限の恐怖が隼人の脳裏を過ったが、彼はすぐに自分の顔(施された巧妙な変装)と、手元の偽造身分証を思い出し、必死に引きつる顔を笑顔へと仕立て直した。
(落ち着け……俺は南条隼人じゃない。今の俺は『南修斗』だ。いくら早瀬でも、この変装を見破れるはずがない……!)
隼人は「南修斗」としての爽やかで丁寧な隣人の仮面を必死に張り付け、二人の最高権力者に向けて、深く頭を下げて挨拶を始めた。
「……おや、お客様ですか? 初めまして。私、こういう者です。最近、こちらの海辺の別荘に引っ越してきたばかりの、南修斗と申します」
隼人はまるで、自分がこの土地を心から愛する善良な人間であるかのように、滑らかな声で言葉を続ける。
「いやぁ、本当にこのあたりは景色が良いですね。あまりにも素晴らしいロケーションなので、自分だけで楽しむのはもったいないと思いましてね。実は、この建物を他の人にも貸し出そうかと、ちょっとしたリゾート計画を立てているところなんです」
碧とおじさまは、微動だにせず、ただ冷徹な氷のような視線で、目の前で必死に捲し立てる男を見つめていた。その沈黙に冷や汗を流しながらも、隼人は言葉を止められない。
「そちらの大きなお屋敷(かすみの療養邸宅)の方々にも、もしかしたら人の出入りなどでご迷惑をかけてしまうかもしれないと思いまして……。ご近所付き合いのよしみとして、事前にご挨拶に伺おうと考えていたところだったんです。わざわざお越しいただいてすみません」
完璧な言い訳。完璧な善人としての挨拶。
南条隼人は、心の中で「よし、上手くいった。これで怪しまれることはない」と勝利を確信し、薄汚い笑みを噛み殺していた。
しかし――。
男の長々とした嘘の挨拶をすべて聞き終えた後。
早瀬碧は、変装した隼人の顔をまっすぐに見据えたまま、その端正な唇の端を、ゾッとするほど冷たく、憐れむように歪めてみせた。
「……そうか。丁寧なご挨拶、痛み入るよ。『南修斗』さん」
碧の低く響く声の奥に、すでに逃げ場のない死刑宣告が隠されていることに、哀れなピエロはまだ、何一つとして気づいていなかった。
「本作の執筆にあたり、誤字脱字の確認や文章整理のためAIを利用しています(規約に基づき修正案の提案は受けない設定で使用)。物語の構成や本文作成は全て自分で行っています。」




