第二十九話~決戦へ~
「してやられましたね」
物見櫓の上に立つ家康は、眼下の戦況を見下ろして唇をかんだ。彼女の視線の先では杭瀬川を挟んだ東西両軍の小競り合いが行われており、すでにほぼ戦況は決してしまっていた。東軍の中村隊・有馬隊が西軍の宇喜多の小隊と石田三成配下の島隊などに追い散らされており、すでに家康は本多・井伊の軍目付に中村・有馬の救援に出陣を命じるとともに、陣地内への撤退を命じていた。
「申し上げます!中村隊御家老・野一色頼母様、討ち死ににございます!」
「・・・決戦を前にあたら兵を死なせる必要がどこにありますか!」
西軍の陽動作戦にまんまと引っかかり、兵を突出させてしまった野一色に苛立ちの感情をぶつけるが、もうどうにもならない。
「恐らくは島左近あたりの立案でしょうね。私の着陣を見て、下がった自軍の高揚を狙ったのでしょう」
家康の読み通り、家康着陣から一夜明けて岡山の東軍本陣に翻る金扇の大馬印を仰ぎ見た大垣城の西軍は騒然となった。兵士たちはいよいよ家康が大軍を率いて乗り込んできたことに動揺してしまっていた。
西軍首脳部も同様であった。家康と戦うつもりではあったとはいえ、相手は秀吉すら負かせた百戦錬磨の女傑である。その恐ろしさは重々承知している。
下がってしまった士気を回復させるため、三成の腹心である島左近は小隊での陽動による奇襲作戦を提案。見事に策を成功させて勝利し、西軍の士気を高める事に成功したのである。
両軍が杭瀬川で激突したその夜。雨が降りしきる中、黒田長政が家康の本営を訪れた。
「大津城が明日にも落ちますぞ」
彼女によれば、西軍総大将の毛利輝元が大津城攻囲の陣に加わり、すでに彼の指示のもと開城交渉が行われているという。すでに大津城は本丸を残してすべて西軍の手に落ちており、もはや開城しなければ玉砕するほかなかった。
「中納言様の御到着も怪しく、毛利殿が到着すれば圧倒的に不利になりますぞ」
秀忠軍はこちらに近づいているようではあったが、上田城攻め頃から連絡がパタリと途絶えてしまっており、その動向は不明であった。
(三万八千の軍勢が壊滅するとは思えませんが・・・)
今は秀忠軍の事は考えない方がいいだろう。輝元が出馬したころから、家康には練っていた策があった。
「黒田殿」
「はっ」
「今宵、全軍を動かします」
すでに鷹村正純に命じてある工作を行わせていた。すなわち、『大垣城水攻め作戦』である。付近の住民を雇い、かつて秀吉が得意とした水攻めを大垣城に対して行う方針を立てた。大垣城周囲に布陣する小早川・毛利らの西軍を叩き、大垣城を孤立させるために彼らが布陣する関ヶ原方面に潜行する―――というのが建前。
実際はそのような噂を流させて、その工作を阻止せんとする西軍をおびき出し、関ヶ原にて野戦を仕掛けて一気に勝敗を決するというのが本当のねらいであった。
家康の目論見通り、大垣城の三成にも家康が動くという情報が入った。三成は大垣城を出陣し、関ヶ原西部の松尾山に布陣する小早川秀秋、関ヶ原東部の南宮山に布陣する毛利秀元ら西軍と連携して東軍を包囲殲滅する方針を立てた。
「行くのだな」
この戦いには三成も吉継も参陣する。大垣城の守備は、三成の妹婿である福原長堯と秋月・高橋・熊谷ら九州の諸大名が守ることになった。
「家康の罠であろう。だが、わしは行く。豊臣家をお守りする為なら、いくらでも体を張ろうぞ」
―――この男の愚直なまでの豊臣家への忠義はなんなのだろうか。たかだか十九万石の茶坊主上がりの男を突き動かすものは何か。天下に名を轟かせ、誰もが恐れる女傑との対決に駆り立てるものは何か。
焚き付けたのは吉継自身だ。家康を倒さなければ豊臣家は終わる。天下を徳川に奪われてもいいのかと。だが、同時に最期も伝えた。小早川秀秋に裏切られて敗北し、天下は家康に渡ると。
「お主にはお主の思惑があってわしを利用しているのであろう。ゆえに、わしも自らの思惑の為にお主を利用する」
「治部・・・」
「豊臣家の御為、茶坊主上がりの男が天下第一の武将に挑むのだ。これほど男として、戦国の世に生まれた者として誉はあるまい」
呆然とする吉継を置いて、三成は馬上の人となった。
吉継には言わなかったが、三成には別の思惑もあった。
(いずれにせよ、いつかは豊臣と徳川は再び戦わねばならなかった。そして、その全責任を負うのがわしだというだけの事)
(諸大名は徳川ではなく豊臣のもとに集うという事を、家康に見せつけられたはずだ)
東西両軍ともに、『豊臣家の為』という大義名分を掲げている。西軍は秀吉の命を奉じ、そして東軍はその命令は偽りであると主張し。
決して徳川の為に東軍に集っているのではない。家康もそれが分かっているはずだ。それだけでも、こうして大戦を起こした意義がある。
(そしてこの戦いで家康を討ち、後世の憂いを断つ)
三成も死ぬつもりはない。佐和山では、妻と子供たちが彼の帰りを待っているのだ。
『いざ、関ヶ原へ』




