#書聖
オレは、自宅で夕飯を摂り、部屋でスマホを弄っていた。ふと、書道部で香月先輩とのやり取りを思い出し、疑問が浮かんだ。こういう時はチャッピーだ。
『temp.txtっていう名前だとどういう意味?
タイヒヨウって言ってた気がする』
『なんやドブカス、その記憶は だいたい合っとるで。
temp.txt の temp は普通は temporary=一時的 の意味や。
──………… 』
……しまった。あなたは禪院直哉です、と指示していたのを忘れていた。
とりあえず、誤った上書き保存を防ぐための仮ファイル、ということは分かった。つまり、内容もタイトルも分からないファイルを探そうとしているのか。どうしようか。
✏︎
調査が難航している間に月曜日が来た。大体の人は月曜日を嫌悪しているようだけど、オレは違う。書道部へ参加できるからだ。高専の共用部室にある空気は特別だ。入部してそう経っていないが心地いい。それをより味わえるよう、中2以来に書道教室へ通い始めた。
授業が終わり、待ちに待った共用部室へ向かう。同じ学年にも部員はいるけど、今日は来ないらしい。尤も、今日は香月先輩に用があるから寧ろ都合がいい。
オレが共用部室のドアを開けると、香月先輩だけがいた。
先輩は、今日も知的な格好をしている。オフホワイトのブラウスをトップスに選び、橙色のペンダントをしている。黒のタイトスカートを穿き、それが全体の色味やシルエットを締めるのに効果的な役割を果たしている。メガネはシルバーフレームでタイトなものを着けていて、これもまた全体と調和が取れている。綺麗だ。
「こんにちは、香月先輩」
オレは奥にあるソファに向かって玄関から呼びかけた。彼女はスマホから目を離さず、小さな声で「うん」とだけ言った。結構会話してる筈なのに、これはいつも変わらない。オレは席に着き、話を切り出した。
「先週のファイル、あれって結局何だったんですか?見つかりました?」
「んー、あー、それなら見つけた」
無事削除できたなら良かった。本当は役に立ちたかったけど。
オレが書道用具を取り出すと、香月先輩が近寄ってきた。部活中にソファから立ったところを初めて見た。
「なあ遠野、県展の準備はしているか?」
中学の県展みたいなものだろうか。それなら、やはり審査されるのだろう。恥ずかしいものは書けない。それに上手くかけたら好印象なはずだ。
「存在を知りませんでしたけど……、何か書くものは決まってるんですか?」
「取り敢えず臨書だろうな」
「書体の話ですか?」
そんな書体は知らないけど、取り敢えず訊いてみた。すると、先輩はトコトコと歩いて書道部ロッカーへ行き、本を手にして戻ってきた。25歳とは思えないくらい可愛らしい歩き方だ。
香月先輩は本の表示を見せながら「これだ」と言った。王羲之と書かれている。
「臨書は昔の書を書くんだ。やったことが無いなら、先ずは王羲之だろう。何せ書道でいちばん偉い、書聖と呼ばれる人だ。細かくは忘れたが、中国の4世紀ごろの人だったと思う」
「さすがおばあちゃんだ」
オレを無視して彼女はページを捲って続ける。
「そして、この蘭亭序は行書でも最高峰と言われている。入門にはもってこいだ」
漢字のみが縦書きでズラっと並んでいる。
「文字数があるからな、この中から好きなところを書けばいい」
香月先輩はいつもより格段に饒舌だ。パワプロしかしていない人とは思えない。
「条幅的な感じのに書くんですか?」
香月先輩は、再びトコトコとロッカーへ行くと、掛け軸を取り出した。そしてそれを広げ、全体を見せてくれた。
「これのように書く。半切というサイズだ」
思っていたより大きい。先輩は手をめいいっぱい高く伸ばしているが、掛け軸は床に付いている。横幅については先輩の身体より広い。
凄いのはサイズだけではない。3行に渡って書かれた文字には、ギュッとした力強い止めはねから、かなりの筆圧を感じる。そして、滲みと渇れのコントラストが、それをより際立てている。水墨画の松のようだ。それでいてサルスベリのようにしなやかで伸びやかさを持ち、くるくるっと自由奔放に書かれている。力強さと自由奔放さが両立しているのがとても美しい。こんなもの、到底書けない。何か有名な書のコピーに違いない。
「あー、その紙と同じ大きさのものを提出するんですね」
「紙もだが、額装──これは掛け軸だな。この状態で提出する」
「うわあ、自分の作品がこうなるなら、下手なもの書けませんね」
ガラン。
そのとき、女性がゆっくりと入ってきた。歳は香月先輩と同じくらいだろうか。ジャンパースカートを着ていて、ふわっとした雰囲気だ。季節ではないけど、春、といった印象を受ける。
「こんにちは、香月さん。それとあなたは遠野さん?」
「あ、はい」
女性はオレの方を見て「私は書道部顧問の岡野莉伊葉です。気軽に莉伊葉先生と呼んでください」と言った。
「あ、はい、よろしくお願いします」
「にしても、香月さんは何故自分の書を見せびらかしてるのでしょう?」
「ええ、僕が県展に出したものなので、遠野の見本になるかと思いまして」
香月先輩はいつもと違う話し方に聞こえる。
というか。
「これ、香月先輩のものなんですか!?」
「ああ、そ──」と香月先輩が話そうとしたのに被せて、莉伊葉先生が「そうなんですよ。しかもこれ、1年生の時の作品なんです。当然大賞を取って、翌年の全国への切符を手にしています」と話してきた。
香月先輩と莉伊葉先生はどう見ても同年代だ。その時顧問だったはずがないのに、あたかも見てきたかのように言っている。
さらに莉伊葉先生が続ける。
「しかもこれ、数回練習しただけで応募してるんでしょう?妖怪ですね」
「わあ、香月先輩って天才なんですね」
「あ」
莉伊葉先生の口から、その一音が溢れた。
「気にすることないですよ、莉伊葉先生」
先輩が何事もない様に言う。
「すみません、何かまずかったですか?」
香月先輩は「問題ないよ」と首を横にふった後、「僕が天才なのは間違いないから」と弱々しい声で言った。
沈黙が流れる。理由は分からないが、香月先輩と莉伊葉先生が話せない以上オレも何も言えない。
そんな中、莉伊葉先生がようやく口を開いた。
「あの、香月さんは手本を書けそうですか?」
「え?あ、いや、書道用具持ってきてないし……」
「あの、書道部ですよね……?
まあ、なら、書道部のものを借りたらいけますか?」
「あ、ええ、まあ、そうですね……」
香月先輩は、共用部室に置いてあった半切、それ用の下敷きを広げた。オレの書道用具もセットし、後は書くだけとなった。四つん這いのような姿勢になると、少しだけスカートが張られヒップラインが見える。見ていいものか戸惑ってしまうが、そんなことを考えている場合ではないみたいだ。香月先輩は、筆を手に取ってもそこから動かなかった。
「あー、手が震えるなあ、カフェイン摂り過ぎちゃったからかなあ、モンエナ2缶空けたし、コーヒーもいっぱい飲んだし。今日はちょっとやめておこうかなあ」
莉伊葉先生を見ると、唇を噛んでいる。その後「あーもう」と声を出し、んんっと咳払いした。
「香月さん、私が書きますね。代わってもらえますか?」
「はい、すみません……」
「じゃ、折角だから1年生全員分書きましょうか。2年生の沢渡さんには、手助けは不要でしょうし」
『永和九年歳在癸丑暮春之初會于會稽山
陰之蘭亭修禊事也群賢畢 朔 臨』
莉伊葉先生が書いてくれた。オレのは蘭亭序の最初だという。そして1年生4人分、別々の手本を受け取ってオレが翌日配布することになった。
「練習で使う紙は1枚20円なので大事に使ってください。本番は50円です」
練習用でも50枚書いただけで1000円……、書くのにかなり緊張しそうだ。
書道用具とともに、莉伊葉先生に書いてもらったお手本をリュックに入れる。
「頑張って練習してくださいね。同地区の他校との交流会──錬成会が控えてますから。みんなで練習するので、下手だと恥ずかしい思いをしますよ」
「え!聞いてないんですけど」
「今言いましたから。日取りは先日決まったばかりなんです。他の1年のみなさんへは、手本を渡す時一緒に言ってくれますか?」
「はい」
「ライバルと競い高め合う。青春ですねえ、いやあ羨ましい限りです。ね、香月さん」
何が香月先輩の癇に障ったのか分からないけど、彼女は無言で荷物を纏め、そそくさと出て行った。




