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最終話


 デルフィーネが目覚めたとき、5日前に時間が戻ったのかと思った。

 それほどにベッドの傍らにいたストレッロは痩せていて、眼窩が窪み、顔は土気色、髪に艶はなく、唇も肌もかさかさで何日も砂漠で遭難した人みたいだ。


「よく食べてくださいと、約束したではありませんか」


 言うと、ストレッロがはっとした。

 デルフィーネの目が開いたことが幻ではないと気付いたらしかった。

 勢いよく縋り付いてくる。


「デルフィーネ……。デルフィーネ。ああ、デルフィーネ! 大丈夫か? 痛みは?」

「ありません。……ここは?」

「王宮だ。帰ってきたよ。俺達の部屋だ」


 そういえば見覚えのある天井だ。

 シーツもストレッロの香りが強くする。

 するとどうだろう。あれほどに窮屈に感じていたこの高級なベッドがやけに安堵感をもたらした。


 あるいはストレッロといるこの部屋が。


 ひとつ長く息を吐いてから、記憶を辿る。

 まるで悪夢のようなあの夜の記憶を。


「ムッカとガットはどうしましたか」

「ふたり共無事だ。食事に毒を混ぜられていたらしい。ふたりとも念には念を入れて別のタイミングで、用意されていたものとは別のものを口にしたのに、バレーノのほうが1枚うわ手だったようだ。


 最後の日だからと油断したのと、ガットに関してはバレーノに友情めいたものを感じて警戒心が薄れていたらしい。猛省していた。きっとそれもバレーノの計画の範囲内だった。


 毒のせいで意識が朦朧としているところを襲われ、危うく致命傷になるところだった。咄嗟に避けたのはさすがだが、失態には変わらない」

「まさか、それでは処罰を?」

「いや。デルフィーネが嫌がると思って、処分は保留にしてある。ガットよりもムッカのほうが負傷していたが、もう復帰している。一番の重体は君だった。


 3週間も眠っていた」 


 えっ。

 3週間?

 あれから3週間も経っているの?


「待ちきれなくて、小屋の前で朝を待とうと思って早々に出発してよかった。……本当によかった。間一髪だった」


 いかにも、まさしくギリギリのところだった。

 一瞬でもストレッロが遅れていたら、デルフィーネはここには戻ってはこられなかったはずだ。


 恋をした──あの声が蘇る。

 掠れてしまって、生命力を振り絞って吐露されたあの言葉。


「……バレーノはどうしましたか」


 問うと、ストレッロの目が伏せられた。

 幾分か落ちた声音で教えてくれた。


「……死んだ。平民の墓地に密かに埋葬されたよ」

「そうですか……」


 現実味がない。

 バレーノに襲われ、バレーノが死んだ。

 あの30日間の楽しかった思い出は、彼が作り出した嘘だったのだろうか。

 そんなはずはない。


 きっとあの30日間こそ、バレーノが望んだ()()との生活だったのだ。


 あなたと生きると言えばよかったのか。

 愛さなくても、あなたと一緒に過ごすと言えばよかったのか。

 ストレッロを選んだのがはずれなのか。


 いつも自分は当たりもハズレもわからない。

 もしもストレッロを選んでいなければ、今度は、壊れたのはストレッロになるはずだった。(つがい)を失い、(つがい)が他の男と生きると選んだとするならば、彼にとって自分がどれほど大きな存在かはわからないけれど、きっと自暴自棄になってしまっていただろう。


 どちらを選んでも、きっと誰かが壊れていた。


 そして誰にもわからない。

 なにが正しく、どっちがハズレなのか。


「父は王を引退した」

「え」

「ティグレーが即位した。判断を誤った命令を出してデルフィーネを負傷させたから、俺とデルフィーネへの、せめてもの償いだろう。それか、過去の自分への戒めか。早く母と余生を穏やかに過ごしたい、というのもあるだろうが」

「え、は。なんだか情報が多くてすぐには追いつけなさそうです」


 頭痛がする。

 頭の中でたくさんの情報が渦を巻いていた。こめかみが脈打っているのがわかる。


「そうだろう。ゆっくりしてくれ。ティグレーの計らいで婚約式は見送られた」


 ということは。


「そ、それじゃあ──!」

「安心してくれ。婚約は公のものとなった。挙式と併せて婚約式をすることでデルフィーネの負担を減らそうという考えだから、デルフィーネのための計らいだ」

「そ、そうですか」


 ほっと息を吐く。

 婚約がなされなければ、バレーノが壊れてしまった意味がなくなってしまう。


「とにかく医者に診せなければならないな。呼んでくる。起き上がったら駄目だぞ。許さないからな」


 ぴしゃりと言い切られ、扉からストレッロが消える。

 ひとり、部屋に取り残されたデルフィーネはバレーノを思う。

 墓の場所を教えてもらおう。花を手向けてやらなければならない。せめて、それくらいは。


 ──恋をした


 耳にこびりついて離れない。


 そういえば椅子は返したのだろうか。

 ガットに確かめよう。



「申し訳ございませんでした!」


 完治したデルフィーネをまず出迎えたのは、ガットとムッカだった。

 その勢いに気圧されて仰け反ってしまう。


「い、いいのです。そんな、もう頭を上げてください」

「いえ! 護衛を任されたのに、任務失敗はすべて我々の責任です! デルフィーネ様に傷を負わせてしまって、危うく命まで……!」

「とにかく、もういいのです。本来の勤務から外れ、30日も付きっきりで護衛してくださったことに心から感謝しています。本当にお気になさらず。私もバレーノがあんなことをするとは思いもしませんでしたし……」


 けれど、ふたりは顔を上げてくれなかった。

 困ってしまって、敢えて話題を変えた。


「あの、バレーノが借りた椅子はどうなりましたか」

「責任をもって返却してまいりました」

「なにかご夫妻は言っておりましたか。バレーノの死をなんと伝えたのでしょうか。お礼とお詫びを送ったほうが……?」


 ガットとムッカは顔を上げながら、互いに見合った。ガットのほうが先に口を開いた。


「狩猟中の事故死と説明しました。もちろんデルフィーネ様も巻き込まれたとお伝えしてあります。心配しておられたので、お礼を送って差し上げるのは喜ばれるかもしれません」

「そう……。お手紙と一緒になにか送ってみます。──ところで」


 バレーノの墓の場所を訊ねた。

 隣に立つストレッロは嫌そうな顔をしたけれど、制しようとはしなかった。

 ガットが案内を買って出た。


「ご案内します。彼には……彼とは違った形で出会えていたらと思わずにはいられません」

「ありがとう」



 そうして辿り着いたのは、郊外にある小さな墓地だった。

 そんな墓地の端のほうに氏のない墓石があった。バレーノの名前のみが刻まれた寂しい墓。

 元王族とは思えない。

 公にはされていないとはいえ、国王の真の息子──王子のものとは思えない寂しい墓。花も写真も飾られていない石ひとつ。

 この下にバレーノが眠っているとは、信じられない。

 なんとも侘びしい墓。


 気を使ってくれたのか、デルフィーネはひとりで墓石の前に立った。


「なにか言ってあげたいのに、なにも思いつかないや」


 用意した大きな花束を供える。

 今度はメッセージボードや飾りも持ってこよう。あとは、きっと下手くそだろうけれど似顔絵でも描いてあげようか。

 このままでは、あまりにもやるせない。


 しばらくそのまま墓石を見つめた。

 ついぞ、弔いの言葉は見つからなかった。


「また来るよ。毎日は来られないと思うけど、来られない日はちゃんと私たちの星座を見てあなたを思い出すから」


 また墓石を見つめる。

 当然、返事はない。

 荷車を引いたのがつい昨日の出来事のように思い出せるのに。またいつかバレーノと荷車を引いて笑い合えたらよかったのに。


 いい友人になれたはずだったのに。


 彼にとっては、それだけでは駄目だった。

 彼に必要なのは友人ではなかった。

 無条件に自分を愛してくれる家族を求めていた。孤独に気付かずに諦めてひとりで暮らしていたところに希望が生まれてしまって、その希望が絶たれるとわかると、もうめちゃくちゃになってしまった。


 言ってくれればよかったのに。

 バレーノの人生を。

 バレーノの気持ちを。


 いや、誰でもよかったのかもしれない。

 恋は孤独から逃げるために必死にチャンスを掴もうとする勘違いで、デルフィーネでなくてもよかったはずだった。

 家族になって愛してくれるなら、誰でも。


「どうして壊れてしまうまで教えてくれなかったの」


 風が吹く。

 けれど、あの草原とは違って、刺すような風だった。


 ストレッロとも離れ、あの小屋でひとり暮らしをすることも考えた。

 ロバの世話をし、カボチャを植えたりして毎日を過ごして、あの老夫婦に遊び相手になってもらって、夜にはバレーノを思い悼む。

 そんな生活でもよかった。


 けれど、そうすればストレッロは暇さえあれば自分を訪ねてくるだろうし、隠れて護衛を張り付かせておくだろうし、もしかしたらストレッロも心を擦り減らしてしまうかもしれないし──もう誰も傷付けないアタリを引くには、選択肢は意外にも少なかった。


「じゃあね。パンツを洗い合った仲だしね」


 ふ、と笑うけれど、一緒になって歯をむき出して笑ってくれる相手はもういない。

 喉を揺らして、貴族らしからぬ大笑いをしてくれる人。

 もう、いない。


 虚しくなって、デルフィーネはその場をあとにした。


 墓地を出ると、待っているのはストレッロだ。


「デルフィーネは優しすぎる」

「そんなことはありません」

「デートをしよう。前回は邪魔が入ったから」

「それはいいですね」


 ストレッロは愛しそうにデルフィーネの手を握り締めてきた。

 宝物を扱うように繊細に、愛を求めるように力強く。

 バレーノの死なんてなかったみたいに。


 その愛の強さはデルフィーネの心の安寧に大きく貢献している。そして同時に強く痛んだ。

 ストレッロにとって、自分(デルフィーネ)以外は犠牲になっても構わない域にまで達しているから。


「消化にいい料理を出すと有名な店を見つけた。早く食欲が戻るように少しずつ食べて行こう。シンプルなドレスと靴の店もいくつか見つけた。それほど高級ではないから、デルフィーネも気兼ねなく選べると思う。肩を痛めているから、女性医師を何人か雇った。練習をすれば、元通り動くようになる。それから──」


 ストレッロからの深い愛が押し寄せてくる。

 愛されている。

 デルフィーネは強くその愛を感じている。

 だからデルフィーネは笑顔ですべての愛を受け止める。他は構わないという狂おしい愛を。目頭が熱くなって、苦しくなって、冷たい涙が溢れてしまいそうになってもずっと笑顔でストレッロの愛に相槌を打つ。

 彼はきっとデルフィーネを裏切らない。


 その証拠に、ストレッロは歩いている間もずっとデルフィーネの手を握り締め、デルフィーネの瞳だけを見つめ続けている。


 脇目も振らずに。



(つがい)は幸せか? 本当に?)

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