20 最後の夜
それは最後の夜だった。
バレーノとふたりで平民にしては豪華な食事を作り、ムッカとガットにも分ける。円卓を囲み、もう食べられないと嘆くくらい平らげた。
「あーあ、明日帰っちゃうのかぁー。もっと泊まって行けよ」
「無茶を言わないでください」
「オレ本気で言ってるのにー。ずっとここにいろよぉ。
最後のチャンス。考え直せよぉ」
「無理ですってば」
そんな何度ものやりとりの他にも笑い疲れるくらい、大いに会話も盛り上がって笑った。
解散をして自室に戻り、荷造りを終え、明日の朝にはストレッロが迎えにくるという静かな夜。
クローゼットの目一杯を占めるドレスを眺め、これが本当に終わりだと着ている平民の服を撫でる。
自分はストレッロの妻となる。
自分の中に愛があるかは、未だにわからない。
でもストレッロを嫌ってはいない。
彼の自分への愛はきっと本物なのだろうと思うし、愛されている、彼ならば自分を傷付けないという絶対的な安心感は何物にも代えがたいものだ。
それに、あんな弱った人を放っておけない。
彼は嘘を付いていない。
マナーもルールも辛いのは最初だけ。覚えてしまえばこっちのもの──のはず。
大丈夫、最初だけ。
そう言い聞かせてから、ベッドに横たわった。
◇◆
ふと、目が覚めた。
頭上に嵌った窓を見上げても、まだ夜は明けていない。暗いままだ。
虫の知らせだろうか。
違和感がある。
なにやらドアの外が騒がしい。
今の護衛の当番はガットのはずだ。
食事を分けはしたけれどお別れ会にも参加していなかったし、寝室に入る前にガットと挨拶をしたから間違いない。
「ガット? どうかした?」
声を掛けるも、返事がない。
ぞわりと指先から鳥肌が立った。ぴりついた鳥肌が頭皮の頭頂部まで駆け巡る。
返事がないなんて有り得ない。
ふたりの内どちらかは必ずデルフィーネについているはずなのだから。ガットになにかあったとしても、ドアの前には必ずムッカが立っているはず。どちらかは、絶対に。すぐそこに。
声が聞こえないはずがない。
デルフィーネは立ち上がり、ドアに歩み寄った。
──なにかがあったのだ。
返事もできないくらい恐ろしいなにかが。
「ガット」
ドアに囁く。
静寂。小さな部屋が囚われの牢屋に思えてくる。
返事がないだけで襲ってくる閉塞感と恐怖。
「ムッカ」
どちらの護衛を呼んでも、やはり小屋は沈黙に浸かりきっている。
ドアを開けるべきか、開けないべきか悩んだ。すぐそこにガットがいるはずなのに、開けられないのは恐怖心のせいだった。
なにかが起きている。
どうしたらいい?
「──い」
声が聞こえた。
ドアのかなり下のほうからだ。
倒れている?
まさか、そんな。
膝をついて、声のした位置に再度囁いた。
「ガット? あなたなの? どうしたの?」
咳き込む音。
そして、なにかが吐き出される音も。具合が悪いのだろうか。背中を擦ってやらねば。なにか悪いものでも食べたのか。
ドアを開けようとして、だがすぐに開いた隙間を勢いよく戻された。出てくるなといわんばかりに。
手で押し戻されたのだ。
「お逃げください……ッ! 今すぐに!」
早く──! と、ガットが怒鳴った。
湿った言葉だった。なにかを吐きながらの怒声だったに違いなかった。
デルフィーネは迷わなかった。
彼がそこまで言うからには、自分にはなんらかの重大な危険が差し迫っている。今まさに危機が押し寄せているのだ。躊躇は彼らの足を引っ張ることになる。
デルフィーネは窓を開け、飛び出した。
着地に少し失敗したけれど、すぐに体勢を整えて走り出す。
どこに逃げればいい?
なにから逃げればいいの?
この見晴らしのいい芝生の、どこに?
あのご夫婦のところ?
どうやって行ったか。道順は覚えていない。でも荷車のあとを辿れば──途端、足が急激な痛みに襲われて縺れた。
その場で転倒する。
また立ち上がろうとして、やはり激痛によって敵わなかった。
見れば、左足のふくらはぎに矢が刺さっていた。
「よぉし当たりィ!」
そう言って、拍手しながら嬉々として小屋から歩み寄ってくるのは弓を持つバレーノだった。バレーノは弓を捨てて、ブーツに忍ばせていたナイフに持ち替える。
一切歩みを止めない、迷いのない襲撃だった。
「どうして……!」
とにかく、逃げなければ。
逃げなければ──!
なぜバレーノが……!
右足と両腕でなんとか起き上がり、走り出す。しかし片足を怪我したデルフィーネと、体力のある成人男性ではあっという間に勝敗の結果は訪れた。
後ろ髪を引っ張られ、その場に押し倒される。
仰向けに倒れ、背中をしたたかに打った。うっと肺が衝撃を受けて息が詰まる。
寸分とあけずに、無理矢理に足の矢を引き抜かれた。
悲鳴。
猛烈な痛みに喉から自然と悲鳴が出た。
その口を、馬乗りになってきたバレーノに手で塞がれる。
「うっせえんだよ。たかが足に1つ穴が開いただけじゃねえか」
手を振り払おうとするのに、びくともしない。
バレーノは狂気に満ちていた。
虹彩が小さく縮み、眼光は鋭い。
そしてなんのことはないとばかりに、ロープを投げ渡してくるように、自然にナイフをデルフィーネの右肩に突き刺した。
バレーノの掌にデルフィーネの悲鳴がくぐもる。
苦痛に顔を歪めると、そうはさせまいとバレーノに顔を揺さぶられた。
「オレを見ろ。オレを見てろ! いいな? 絶対に目を逸らすな! オレだけを見てろ! わかったか!?」
鬼気迫るバレーノの顔。
デルフィーネは素直に、わかった、わかった、と二度頷いた。
バレーノは浅い呼吸を繰り返していた。
興奮しているのだった。
バレーノは呟くようにデルフィーネに問うた。
「なんでオレを選ばない……? なんであいつなんだ?」
ストレッロのことだとわかった。
バレーノはまだ恨み言を並べた。
「いつもそうだ。母親が誰かなんて関係ねえじゃねえか。オレだって王子のはずなのに! なんで誰も見向きもしねえ? おかしいだろ?」
今度は浅く脇腹を刺してくる。芋の蒸し具合を探るみたいにさっくりと。
痛みが強すぎて、噴出できない悲鳴の代わりに喉が鳴った。
すると、バレーノが急に笑い始めた。
「この前、あいつが来ただろ?」
首を振った。ごまかすつもりだった。
だがナイフを持ったままの手で左頬を叩かれた。
それも一度ではなく何度も何度も。
デルフィーネから戦意を奪うために、何度も。
「わかってんだよ、こっちは。今さら嘘ついてんじゃねえ!」
全身が痺れるようだった。
目尻から涙が溢れる。
なんて弱いのだろう。
逃げることさえできないなんて。
デルフィーネは小さく肯定するしかなかった。
頷くしかできなかった。
頷くと、バレーノはまたさらに笑ってみせた。
「見たか? あのやつれ具合! 笑い堪えるのに必死だったぜ! 女ひとり取られて、あれだぞ!? たかが30日だぞ!? ざまぁみろってんだよ!」
どこまでもこだましていく笑い声。
ストレッロへの、いや、王族へのけたたましい憎悪が今まさに吐き出されていた。
体を仰け反らせて腹から笑う彼は、もうデルフィーネの知るバレーノではなかった。
「全員、後悔すればいい。オレを虐げたことを全部──!」
そこでバレーノの左肩に矢が貫通した。
矢尻が見える。背後からの反撃だった。
バレーノが振り返ると、ムッカが玄関から弓を構えていた。次の矢を番えようとして、落としている。どこか怪我をしているらしかった。
「しぶてぇな」
舌打ちをしたバレーノがナイフを投げた。矢に伸ばしたムッカの手に見事に命中する。ムッカの呻き声が聞こえた。
間髪入れずにバレーノは先とは逆のブーツからナイフを取り出した。
自分の肩に矢が貫通しているというのに、なにも気に留めていなかった。痛みなんかないみたいに。
腕一本、今さら失ったところでどうでもいいみたいに。
それが恐ろしかった。
デルフィーネはバレーノの手が口から離れたのを見計らって、即座に吠えた。
「わかってた、私が番だなんて嘘だって!」
言うと、バレーノの顔が不愉快そうに、不思議そうに歪んだ。
「……はぁ?」
バレーノの手が首に伸びてくる。
まだ息はできる程度に絞められた。
理由を説明してやった。
「ロバに乗るとき、バレーノは私が他の人と乗ってもオレは構わないと言った……ストレッロなら絶対にそんなこと言わない! だから、バレーノが嘘をついてるってわかってた!」
首を絞める力が強まる。
今度は呼吸が難しいくらいだった。
は、と顔を仰ぐ。
「なら、なんで逃げなかった……?
ああ、そうだ、あんたを騙したよ。どんなに田舎であってもここにも噂はくる。けど、あいつがどんな奴を番と言ってるのかまではわからなかった。街であんたを見かけたのはラッキーだった。
わかりやすすぎんだろ。護衛3人つけた平民だぞ? オレは賭けに勝った! 別にあいつに嫌がらせできればそれでよかった。あんたが気付いた時点でバレちまっても別にどうでもいい。
なんで30日間を耐えた?
いつだって逃げられたはずだろ!」
「それは──」
「同情か? そんなもんいらねえんだよ!」
「違う! 楽しかったから!」
ぴくりとバレーノの指が震えた。
もしかしたら、そのときに嘘だと追及していれば今のこの状況は生まれなかったのかもしれない。
一緒に過ごす時間が短ければ短いほど、この結果を回避できたのかもしれなかった。
またハズレだった。
でも──。
「バレーノと過ごすのは、間違いなく楽しかった……!」
本心だった。
家族とも離れ、恋人にも裏切られ、友人とも離れたデルフィーネにはストレッロ以外に心を許せる人もおらず、これまでの親しんだ生活の中で気軽に会話ができたバレーノは間違いなく貴重な人だった。
間違いなく、バレーノと過ごした日々は楽しかった。
言ってから、しばらくしてバレーノが覆い被さってきた。
バレーノが泣いているのだった。
デルフィーネの胸の上で、ぐすぐすと泣いている。
「なんでだよぉ……。なら、なんでオレを選んでくれねえんだよぉ……。
見ろよ、オレはひとりぼっちだ……。
あいつには、仕事があるじゃねえか。部下も仲間も。
父親も母親も。
あいつはなんでも手に入れてるのに、なんでオレはずっとひとりぼっちなんだよお。
……もう戻れないよぉ……ッ。
デルフィーネがいない間ずっとひとりでなんともなかったのに、デルフィーネと過ごしてたら……。
もうひとりに戻れないよぉ。一緒にいろよぉ……!
なんで誰もオレを愛してくれないんだよぉ」
可哀想な人。
父親が不貞を働いたせいで、本当なら享受できた享受すべき全てのものを失って、そのせいでなにもかもが恨めしく感じられて、歪んでしまった人。
失ったものが多すぎて、大きすぎる。
デルフィーネは刺されていない肩でバレーノの頭を撫でてやった。バレーノが胸に頬ずりしてきた。
可哀想な人。
「友達になら、なれると思ったの」
沈黙。
胸の上でバレーノが首を振った。
「……嫌だ。それじゃ満足できない……!」
「こんなことしたら、友達にもなれないよ」
「友達なんていらない!
オレが欲しかったのは──!」
家族だ。
そう言った彼の背を切りつけたのはムッカだった。
ようやく追いついたその身体で、大きく振り被ってバレーノの背中を斬った。
だが、互いの体勢も悪かったのか、デルフィーネにバレーノが近すぎたか、踏み込みが浅かった。浅すぎた。
さほどの傷を負わなかったバレーノは、すぐに振り向いてムッカに飛び掛って対抗した。手負いのムッカが苦戦している。
立ち上がらなくてはならなかった。
デルフィーネはなんとか体を捻って起き上がろうとした。
このまま逃げるのは無理だ。確実に追いつかれる。
ガットがまだ生きているのに賭けて、部屋に立てこもったほうがいい。
だが考える頭脳の速さとは裏腹にデルフィーネの動きはあまりにも愚鈍で、またバレーノが馬乗りになってきた。
左手で首を絞められる。
右手に携えたナイフで、また脇腹を2度、3度と刺された。さっくり、さっくり。
痛みに呻く。
もう抵抗さえできなかった。
ただ、力なくバレーノを見つめるだけ。
泣いているバレーノを見つめるだけ。
彼はきっと、こんな夜を望んだのではなかった。
彼だってきっと、この30日間を存分に楽しんでいた。
笑っていたじゃないか。
だが、もうバレーノの目は決意に満ちている。
「手に入らないなら、ぶっ壊してやる。
──大丈夫。オレもすぐ行くよ」
そうして一際大きくナイフを振り被ってみせた。
束の間、見つめ合う時間ができた。
バレーノの瞳が揺れ、口元が歪む。
無音の世界でふたりは見つめ合っていた。
風も流れるのをやめ、星もきらめくのをやめ、互いの呼吸も聞こえないくらい静かな狭い世界で、時間が止まったみたいに。
そこまでだった。
短い風の音がしたと思うと、彼の胸にとうとう矢が突き刺さった。
ムッカではなかった。
背後からではない。
走る音が聞こえてくる。
芝生を踏みしめる足音。まだ遠い。
「デルフィーネ!」
この、声は──。
芝生に響く、遠くから聞こえてくるこの声──。
傍らにバレーノが倒れ込んでくる。
彼はデルフィーネと並ぶように仰向けに倒れて、でも顔はデルフィーネに向けられていた。
バレーノの喉が妙な音を立てて吐血した。
彼の涙は血と混ざって赤く濁り、息も絶え絶えである。
戦慄く唇が動いた。
「多分、あんたに恋をした」
バレーノの声はもう掠れてしまって、死が近いと知る。
これが彼の本心なのではないか。
恨み言も真実。
けれど、もしかしたら彼が今切実に求めていたのは──。
「見て──笑ってくれ」
言いながら手を伸ばそうとしてきた。
違う。
空を指差そうとしたのかもしれなかった。
でもそれは敵わずに、ぽとりと音を立てて彼の手が落ちていく。
受け止めようとしたのに、指一本動かない。
冷たい芝生に落ちたバレーノの手を誰も握り締めてはくれない。
なんて、可哀想な人──……。
「デルフィーネ! ああ……そんな、なんてことだ……!
デルフィーネ、動かないでくれ、すぐに止血する!」
視界いっぱいにストレッロが現れた。
顔面蒼白の彼は、それでも5日前よりも健康的に見えた。
よかった──。
ちゃんと食べてくれたのね。
ぼんやりとストレッロの目を追う。夜空にはない赤の球。
体をいじくり回されている。
なにも感じないのに、目の前のストレッロは素早く動き続けていた。
「死ぬな、頼む」
ストレッロが離れていく。
なにかをどこかへ取りに行ったようだった。
空が見えた。
間もなく朝を迎える群青が薄まった青に、オレ座とデルフィーネ座とムッカ座とガット座と、それから──。
デルフィーネは自然と泣いていた。
きっといい友人になれたのに、歪んだ世界のせいで──。
横を見ると、先と寸分と違わず同じ姿勢で眠るバレーノ。
ごめんなさい。
あなたの傷に気付くのが遅すぎた。
デルフィーネの意識はそこで途絶えていた。




