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『仏の小林』  作者: 根古野 惹句


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第2話


 仏の小林。


 そう呼ばれ始めたのがいつだったか、俺はもう覚えていない。


 誰かが酒の席で言い出したのだと思う。


「小林さんって、ほんとに仏みたいな人ですよね」


 そう言われたとき、俺はいつものように笑った。


「いやいや、そんな立派なものではないですよ」


 相手はその言葉を謙遜だと思ったらしい。ますます感心したように、いやあ、小林さんはすごいですよ、と言った。


 俺はまた笑った。


 仏。


 仏やて。


 笑わせんな。


 俺は別に、怒りを知らないわけではない。


 むしろ、その逆だ。


 朝から晩まで腹が立っている。


 目の前にいる人間の言葉遣いに腹が立つ。段取りの悪さに腹が立つ。謝り方に腹が立つ。こちらの顔を使っておきながら、その価値を理解していない鈍さに腹が立つ。


 それでも俺は笑う。


「いいですよ」


「大丈夫です」


「次から気をつけましょう」


 そう言って、相手の逃げ道を塞がない。


 なぜか。


 逃がしてやりたいからではない。


 逃げ道を塞ぐと、相手は動かなくなるからだ。


 商売において、動かない人間ほど邪魔なものはない。怒鳴って萎縮させるより、笑って次も働かせたほうがいい。叩き潰すより、使えるうちは使ったほうがいい。


 俺の周りには、そういう人間がたくさんいる。


 俺を慕っている顔をして、俺の人脈にぶら下がる者。


 俺に感謝している顔をして、こちらの看板を勝手に使う者。


 小林さんのおかげです、と言いながら、その小林さんの顔に泥を塗る者。


 全員が無能というわけではない。


 そこが厄介だった。


 本当に無能なら切ればいい。完全な寄生虫なら、踏み潰せば済む。だが、彼らは中途半端に役に立つ。小さな案件を拾う。面倒な客を受ける。こちらが直接触りたくない雑務を、それなりの顔で処理する。


 だから、切れない。


 許しているのではない。


 採算が合っているから、まだ置いているだけだ。


 ギリギリで。


 ほんまに、ギリギリで。


 その若い男も、そういう一人だった。


 独立したばかりの個人事業主。


 腰は低い。返事は早い。仕事ぶりも、まあ悪くはない。大きな案件を任せるには頼りないが、小回りは利く。育てれば使えるかもしれない。


 そう思って、俺は一件、客を紹介した。


 大切な客だった。


 俺の名前で紹介する以上、相手は最初からこちらを信頼している。若い男にとっては、身に余るほどありがたい話だったはずだ。


 その依頼を、奴はすっぽかした。


 連絡を受けたとき、俺はしばらく携帯の画面を見ていた。


 何度見ても、内容は変わらなかった。


 忘れていました。


 完全に自分のミスです。


 すみません。


 すみません、やと。


 すみませんで済むなら、警察なんか要らんのじゃ。


 電話が鳴った。


 その男からだった。


 俺は出た。


「申し訳ありません。完全に、私のミスです」


 声が震えていた。


 震えるくらいなら最初から忘れんなや、ボンクラが。


 喉元まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。


 言えば楽だった。


 怒鳴れば、どれほど楽だったか分からない。


 お前、何を考えとんねん。


 俺の顔で紹介した客やぞ。


 お前の予定表が空白やったかどうかなんて知らんわ。前の日まで覚えていた? だから何やねん。ボケが、当日に忘れたら忘れてんのといっしょやろが。


 頭の中では、いくらでも言葉が湧いた。


 使えん。


 鈍い。


 甘い。


 商売を舐めとる。


 人の信用を自分の持ち物みたいに扱うな。


 だが俺は黙った。


 電話の向こうで、男は息を詰めていた。


 言葉が、喉のところで詰まった。


 出かかったものを、もう一度、奥に押し戻す。


「人間、誰しも失敗するよ」


 自分の声は、驚くほど穏やかだった。


「僕も若い頃はよく失敗した。まあ、次の機会で挽回しよう」


 よう言うたもんや。


 若い頃の俺は、少なくとも人の紹介客をすっぽかすほどの糞間抜けではなかった。


「でも、本当にご迷惑をおかけしてしまって。怒っていただいて当然です」


 その言葉で、腹の底が熱くなった。


 怒っていただいて当然。


 なんでお前が決めとんねん。


 怒る権利まで、お前が差し出す形にするなや。


 俺が怒れば、お前は「怒られた」ことで少し楽になる。自分は罰を受けた、だからもう済んだと思える。こちらだけが、怒った後味を抱えて残る。


 ふざけんな。


 俺は奥歯を噛んだ。


「怒っても何も生まないよ」


 そう言ったあと、俺は笑うしかなかった。


 電話を切ったあと、しばらく机の前で動けなかった。


 胃のあたりが重かった。


 怒りというものは、形がないくせに質量がある。胸の奥に溜まり、腹に沈み、喉のあたりで詰まる。吐き出せば楽になるのかもしれない。けれど吐き出した瞬間、それは言葉になって相手に届く。


 届いた言葉は、戻らない。


 戻らないものは、商売では高くつく。


 後日、男は直接謝罪に来た。


 何度も頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


「本当に、私の責任です」


「怒っていただいて当然です」


 同じ言葉を、何度も何度も繰り返した。


 そのたびに、俺は笑った。


「もういいですよ。顔を上げてください」


 顔なんか上げんでええ。


 そのまま床板に染み込んどけ。


 俺は机の向こうで、静かに男を見ていた。


 頭を下げる角度は立派だった。謝罪の声も、まあ真剣だった。だが、俺には分かっていた。


 この男は、自分が失敗したことには傷ついている。


 だが、俺の信用がどれほど傷ついたかは、本当の意味では分かっていない。


 それが腹立たしかった。


 人は、自分の痛みには敏感だ。


 他人の傷には、すぐ美しい言葉を貼りたがる。


「怒っていただいて当然です」


 また言った。


 その瞬間、俺の右手が机の上のボールペンを握った。


 黒い軸の安物のペンだった。どこかの展示会でもらったものだ。側面には金色の文字が入っている。


 寛容の心、赦し合うことが一番の美徳。


 あほらしい。


 誰が考えたんや、こんな言葉。


 赦す側にだけ負担を押しつける、実に都合のいい綺麗事だ。


 俺はペンを握ったまま、男の首元を見た。


 白いシャツの襟。


 薄い皮膚。


 そこにこの細い先端を突き立てる光景が、一瞬、頭の中に浮かんだ。


 ほんの一瞬。


 けれど、その一瞬はひどく鮮明だった。


 俺は半分、椅子から腰を浮かせていた。


 右手にはペンがあった。


 男はまだ頭を下げていた。


 このまま。


 このまま一歩、身を乗り出せば。


 そのとき、男が不意に顔を上げた。


 泣きそうな顔だった。


 情けない顔だった。


 みっともなくて、弱くて、こちらの怒りを真正面から受けたら簡単に折れそうな顔だった。


 俺は止まった。


 ペンを握る指が痛かった。


 ほんの少し、息を吸った。


 目の前の男が、若い頃の自分に似ているとは思わなかった。


 そんな綺麗な話ではない。


 ただ、今ここでこいつを壊せば、後始末が面倒だと思った。


 警察。


 病院。


 噂。


 取引先。


 家族。


 ニュース。


 小林さんが、謝罪に来た若い取引先をペンで刺したらしい。


 その一文だけで、俺の何十年かは終わる。


 割に合わない。


 この男に、そこまでの価値はない。


 俺は手を前に出した。


「これ、あげるよ」


 男は目を瞬かせた。


「え」


「俺も、忘れそうになるときがあるからね」


 俺は笑った。


 男は、両手でそのペンを受け取った。


 ありがたそうに。


 救われたような顔で。


 俺は、穏やかに笑っていた。


 それからしばらくして、俺は倒れた。


 胃潰瘍だった。


 医者は、働きすぎだと言った。食生活を改めろ、酒を控えろ、ストレスを溜めるな、と、実に簡単そうに言った。


 ストレスを溜めるなやと?


 できるなら、とっくにやっとるわ。


 病院のベッドは退屈だった。


 退屈な時間ほど、腹の立つことを思い出す。


 あの客。


 あの請求ミス。


 あの段取り違い。


 あの薄っぺらい謝罪。


 俺が笑って許した場面ばかりが、胃の奥から浮かび上がってくる。


 きっと、この胃は怒りで穴が空いたのだ。


 医者はそんなことを言わなかったが、俺はそう思っていた。


 怒りを飲み込み続けると、胃はそれを食べ物だと勘違いするのかもしれない。消化しようとして、消化できず、自分の内側を溶かしていく。


 だからといって、奴らを全員切るわけにはいかなかった。


 腹立たしい連中だ。


 だが、使える。


 使える以上、捨てるにはまだ早い。


 だから俺は、病室でも笑った。


 見舞いに来る者は皆、似たようなことを言う。


「小林さん、無理しすぎですよ」


「たまには休んでください」


「小林さんが倒れたら、みんな困りますよ」


 みんな困りますよ。


 そうやろな。


 俺が倒れたら、お前らの蛇口が閉まるからな。


「お気遣いありがとう。もう大丈夫です」


 俺はそう言って笑った。


 仏のように。


 あの若い男も、見舞いに来た。


 病室に入ってきた瞬間、俺は嫌な予感がした。


 手に紙袋を提げていた。


 見舞いの品だった。


 やめろ。


 その時点で、胃が少し痛んだ。


「小林さん、これ、よかったら」


 男は紙袋を差し出した。


 俺は中を見た。


 たこ焼きだった。


 まだ温かいらしい。紙箱の隙間から、ソースと油の匂いが立ち上っていた。


 胃潰瘍で入院している人間に、たこ焼き。


 ソース。


 油。


 マヨネーズ。


 青のり。


 こいつ、俺を殺しに来たんか。


「大阪のご出身だと伺っていたので。お好きかなと思って」


 俺は男を見た。


 悪気はなかった。


 それが一番腹立たしかった。


 悪意があれば怒れる。敵意があれば切れる。だが、善意の形をした無神経は扱いに困る。こちらが怒れば、相手は傷つく。そして周りは言うのだ。


 せっかく見舞いに来てくれたのに。


 せっかく好意で持ってきてくれたのに。


 せっかく。


 せっかく、やと。


 その「せっかく」で、どれだけ人の胃に穴を空けるつもりやねん。


 俺は笑った。


「ああ、たこ焼きか」


 声は穏やかだった。


 自分でも感心するほど、いつもの声だった。


 男は言い終わってから、自分の失敗に気づいたらしい。


「あっ、すみません。これ、駄目ですよね。胃を悪くされているのに、私、何を」


 その慌て方にも腹が立った。


 今か。


 今、気づいたんか。


 病院に来る前に分かれ。店の前で分かれ。せめて買った直後に分かれ。病室で紙袋を開いてから気づくなや。


 俺は紙袋を引っ込めようとする男の手を、軽く制した。


「いやいや、ありがとう。嬉しいよ」


 嬉しいわけあるかい。


「でも」


「僕は今ちょっと食べられないけど、見舞いに来てくれる人が何人かいるからね。みんなでつまむのにちょうどいいよ」


 自分の口から出る言葉を、俺はどこか他人事のように聞いていた。


「こういうの、病室にあると場が和むから。ありがたいよ」


 相手を責めない。


 見舞いの品を否定しない。


 不適切な差し入れに、別の価値を与える。


 その場にいる全員が傷つかない落とし所を、数秒で作る。


 我ながら見事だった。


 そのぶん、胃が痛かった。


 男は胸を詰まらせたような顔をした。


 また救われた、という顔だった。


 救った覚えはない。


 俺はただ、ここで怒鳴った場合の損失を計算しただけだ。


 男は椅子に座った。


「小林さんは、優しすぎるんです」


 俺は黙っていた。


 優しすぎる。


 優しすぎる、か。


「みんな、小林さんに甘えてます。私もそうです。怒らないからって、迷惑をかけていいわけじゃないのに」


 そうやな。


「ストレスを溜めすぎると、体に毒です。たまには怒ったほうがいいです。自分のためにも」


 そうやな。


 ほんまに、そうやな。


 お前が言うなや。


 喉元まで出かかった言葉を、俺はゆっくり飲み込んだ。


 飲み込んだ瞬間、胃の奥がきりりと痛んだ。


 俺は窓のほうを見た。


 向かいの建物の白い壁しか見えなかった。面白みのない壁だった。何も返してこない壁だった。今の俺には、ちょうどよかった。


「怒らないのは、みんなのためだけじゃないよ」


 俺は言った。


 男が顔を上げる気配がした。


「自分のためでもある」


 これは本当。


 嘘ではない。


 怒れば、俺は壊れる。


 看板も、何十年かけて作った偶像も。


 怒っていないふり。


 それだけのことだ。


「怒ったら、その場は勝った気になるんです。相手も黙るし、筋も通る。でも、怒った言葉って、あとから自分の中に残るんですよ」


 俺はゆっくり話した。


 いつものように。


 言葉を選んで。


 穏やかに。


「相手に投げたつもりの火が、自分の胸の中でずっと燻る。僕はそれが嫌なんです」


 男は黙っていた。


 感動しているのだろうか。


 やめろ。


 人の胃痛を勝手に教訓にするな。


「怒らなくても、腹は痛くなる」


 俺は少し笑った。


「怒ったら、もっと痛い」


 男は泣きそうな顔でうなずいた。


 その顔を見て、俺は思った。


 この男はきっと、今日のことを良い話として持ち帰る。


 小林さんはやっぱりすごい。


 小林さんは器が大きい。


 小林さんは怒りの怖さを知っているから怒らない。


 そうやって、俺をまた仏にする。


 勝手に線香をあげるな。


 俺はまだ生きとる。


 男はしばらくして、何度も頭を下げながら帰っていった。


 病室のドアが閉まった。


 静かになった。


 たこ焼きの匂いだけが残った。


 俺は天井を見た。


 胃が痛かった。


 怒りのせいか。


 ソースの匂いのせいか。


 あの男の顔のせいか。


 もう、よく分からなかった。


 ただ、一つだけ分かっていた。


 あいつの言う通りだ。


 ストレスは、体に毒だ。


 俺は目を閉じた。


 そうやな。


 俺は、これまでの怒りをなんにも許してへん。


 一切合切、腹の中に溜めておく。


 もし俺に守るものがなくなったら、仏なんかやめたるわ。



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