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『仏の小林』  作者: 根古野 惹句


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第1話 


 商売を始めてから、小林さんほど怒らない人を、私は見たことがない。


 小林さんは、業界ではそこそこ名の知れた人だった。いくつもの商売を手広くやっていて、会合に顔を出せば、必ず誰かが挨拶に寄ってくる。関西の出身だと聞いたことがあるが、話し方にそれらしい訛りはほとんどなく、いつも落ち着いた声で、ゆっくりと言葉を選ぶ人だった。


 独立したての私のような小さな個人事業主にも、小林さんは変わらず接してくれた。


「最近どう。ちゃんと食べれてます?」


 そう言って笑う顔は、いつも柔らかかった。


 小林さんが怒っているところを見た人はいない。


 納期を間違えた者にも、請求書を出し忘れた者にも、商談の段取りを台無しにした者にも、小林さんは「いいよいいよ」と笑った。


 本当はいいはずがない。


 迷惑は迷惑だし、損は損だ。けれど小林さんは、相手の失敗を責めるより先に、相手が立ち直る道を探してくれる人だった。


「次から気をつけたらいいよ」


 そう言って、失敗した人間の逃げ道をふさがない。


 だから仲間内では、いつからか小林さんのことを「仏の小林」と呼ぶようになった。


 私も、その仏に救われたことがある。


 ある日、小林さんから、大切なお客様を紹介してもらった。


 私のような駆け出しには、身に余るほどありがたい話だった。小林さんの名前で紹介してもらえるというだけで、相手の信頼が最初から少しこちらに傾いている。それがどれほど大きなことか、独立したばかりの私にも分かっていた。


 にもかかわらず、私はその依頼をすっかり忘れた。


 予定表にも書いた。メールも確認した。前の日までは覚えていた。それなのに当日、別件に追われているうちに時間が過ぎ、気づいたときには約束の時刻をとうに越えていた。


 血の気が引いた。


 私はすぐに小林さんに電話をした。謝罪の言葉は、喉の奥で絡まって、うまく出てこなかった。


「申し訳ありません。完全に、私のミスです」


 電話の向こうで、小林さんは少し黙った。


 その沈黙が怖かった。


 怒鳴られて当然だった。取引を切られても仕方がなかった。紹介してもらった相手に迷惑をかけただけではない。小林さんの顔にも泥を塗ったのだ。


 けれど小林さんは、いつもの声で言った。


「人間、誰しも失敗するよ」


 私は言葉を失った。


「僕も若い頃はよく失敗した。まあ、次の機会で挽回しよう」


「でも、本当にご迷惑をおかけしてしまって。怒っていただいて当然です」


「怒っても何も生まないよ」


 小林さんはそう言って、電話の向こうで笑った。


 後日、直接謝りに行ったときも、小林さんは同じ顔をしていた。私は何度も頭を下げた。小林さんはその肩を軽く叩き、机の引き出しから一本のペンを取り出した。


「これ、あげるよ」


 安いボールペンだった。黒い軸の、展示会でもらうようなペンだ。側面には金色の小さな文字で、こう印字されていた。


 寛容の心、赦し合うことが一番の美徳。


「俺も、忘れそうになるときがあるからね」


 小林さんはそう言って笑った。


 その言葉に、私はまた救われた。


 許してもらえたからではない。


 小林さんは、私の失敗をなかったことにしたわけではなかった。私がしたことの重さを分かった上で、それでも次に進む場所を残してくれたのだ。


 それからしばらくして、小林さんが倒れた。


 ひどい胃潰瘍だったという。救急車で運ばれ、そのまま緊急入院になったと聞いた。


 私はいても立ってもいられず、見舞いに行った。


 病院へ向かう途中、何か差し入れを持っていこうと思った。花ではかえって邪魔になるかもしれない。果物は大げさすぎるかもしれない。何がいいだろうと考えた末に、私はたこ焼きを買った。


 小林さんは関西の出身だ。


 昔、会話の中で「たこ焼きはたまに無性に食べたくなる」と言っていたことを思い出した。病院食ばかりでは味気ないだろうし、少しでも喜んでもらえればと思った。


 今考えれば、浅はかだった。


 胃を悪くして入院している人に、ソースのかかったたこ焼き。


 病室に入る前の私は、そのことに気づいていなかった。


 小林さんはベッドの上で、いつものように笑っていた。顔色は悪く、頬も少しこけていた。それでも私を見るなり、「わざわざ悪いね」と気さくに手を上げた。


「これ、よかったら」


 私は紙袋を差し出した。


 小林さんは中を見て、少し目を細めた。


「ああ、たこ焼きか」


「大阪のご出身だと伺っていたので。お好きかなと思って」


 言い終わった瞬間、私は自分の失敗に気づいた。


 胃潰瘍。


 入院。


 食事制限。


 たこ焼き。


 頭の中で、その四つの言葉が一列に並んだ。


「あっ、すみません。これ、駄目ですよね。胃を悪くされているのに、私、何を」


 私は慌てて紙袋を引っ込めようとした。


 けれど小林さんは、柔らかく笑った。


「いやいや、ありがとう。嬉しいよ」


「でも」


「僕は今ちょっと食べられないけど、見舞いに来てくれる人が何人かいるからね。みんなでつまむのにちょうどいいよ」


 小林さんは、何でもないことのように言った。


「こういうの、病室にあると場が和むから。ありがたいよ」


 私は胸が詰まった。


 まただ、と思った。


 私はまた、失敗した。


 そしてまた、小林さんは私を責めなかった。


 責めないどころか、その失敗の置き場所を見つけてくれた。私が恥ずかしさで固まらないように、持ってきたものに意味を与えてくれた。


「小林さんは、優しすぎるんです」


 私はベッド脇の椅子に座って、そう言った。


「みんな、小林さんに甘えてます。私もそうです。怒らないからって、迷惑をかけていいわけじゃないのに」


 小林さんは黙って聞いていた。


「ストレスを溜めすぎると、体に毒です。たまには怒ったほうがいいです。自分のためにも」


 小林さんは窓のほうを見た。


 病室の窓からは、向かいの建物の白い壁しか見えなかった。晴れているのか曇っているのかも分からない、静かな景色だった。


 しばらくして、小林さんは言った。


「怒らないのは、みんなのためだけじゃないよ」


 私は顔を上げた。


「自分のためでもある」


 小林さんは、点滴のついた手を少し持ち上げた。


「怒ったら、その場は勝った気になるんです。相手も黙るし、筋も通る。でも、怒った言葉って、あとから自分の中に残るんですよ」


 その声は、いつもと同じように穏やかだった。


「相手に投げたつもりの火が、自分の胸の中でずっと燻る。僕はそれが嫌なんです」


 私は何も言えなかった。


「怒らなくても、腹は痛くなる」


 小林さんは少し笑った。


「怒ったら、もっと痛い」


 その冗談めいた言い方に、私は笑うことができなかった。


 小林さんの優しさは、ただ気が弱いからでも、波風を立てたくないからでもないのだと思った。


 この人は、怒りを知らないのではない。


 怒りがどれほど人を傷つけるかを知っているから、怒らないのだ。


 見舞いの帰り、病院の廊下で、私は鞄からあのペンを取り出した。


 寛容の心、赦し合うことが一番の美徳。


 以前は、きれいごとだと思っていた。


 けれど、小林さんの笑顔を思い出すと、その言葉は少し違って見えた。


 怒らない人は、何も感じていない人ではない。


 相手の失敗を見逃している人でもない。


 その人が、もう一度立てるように、自分の中で火の始末をしてくれている人なのだ。


 私はペンを胸ポケットに差した。


 小林さんのようには、とてもなれないと思った。


 けれど、せめてあの人に甘えるだけの人間ではいたくないと思った。

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