1-1
午前8時30分。ジャンク燃料店『バザロ商会』の店内に漂う空気は、大絶寒期によって冷やされた凍土の底と同じ、マイナス14.2℃まで冷え切っていた。
亜麻仁油の粗悪な煤が鼻腔の粘膜をチクチクと刺激し、不快な焦げ臭さを残す。
バザロは分厚い革コートの襟を立て、真鍮製のスキットルを傾けた。
表面に浮かんだ微小な結露が、コンマ数秒の間に白い針状の霜へと結晶化していく。安ウイスキーのアルコールが咽喉を焼くが、胃の奥までは温まらない。
心拍数(BPM)が82を超えた瞬間、腰椎L4/L5(第四・第五腰椎の圧迫部位)から右下肢にかけて、刺すような神経痛の電撃が走った。
寒冷による血管収縮が原因だ。バザロは表情ひとつ変えず、真鍮の計算尺の滑りを指先で確かめた。
路地裏からは、有毒な獣糞の乾燥塊を燃やす灰色の燻煙が重く滞留し、建物の隙間から忍び込んできていた。
公定燃料を買えない極貧層の悪臭だが、それすらもこの街の冷気の中では日常の景色に過ぎない。
作業場の棚の隅には、去年の冬に固まったまま放置された白濁した豚脂の固まりが置かれていた。
その側面には、いつついたものか、古いネズミの歯型がくっきりと残っている。
「頼む、バザロ殿! どうか、どうか我が男爵家の幼い令嬢をお救いいただきたい!」
使者の男は寒さと恐怖で全身を震わせ、吐く息を白い塊にしながら床にひれ伏した。
男の口から発せられる悲痛な叫びを、バザロは単なる雑音として脳内の情報フィルタから即座に排除する。
「亜麻仁油の市価が1.0Lあたり1.5カロ(精製木炭1.0kgの熱量に相当する基本通貨単位)だ。前年比240%の高騰だ。お前の男爵家には、これを払える流動資産があるのか?」
バザロの声は、凍りついた鉄のように冷ややかだった。
「も、申し訳ございません……! 我が家にはもはや一銭の余裕もなく……しかし、お嬢様は謎の熱病でうなされ、肌には血のような黒い斑点が浮かび上がり、体表からは奇怪な高熱が発せられているのです!」
使者は狼狽のあまり、懐から取り出そうとした手袋と一緒に、小さな金属片を床へ落とした。
カランと虚しい音を立てて転がったのは、男爵家の家紋が入った古銭だった。長年の摩耗によって刻印の輪郭は潰れ、ただの歪んだ銅の小片と化している。
使者の言葉に含まれた客観的数値が、バザロの脳内で高速回転を始めた。
「黒い斑点」「体表からの異様な高熱」「周期的な脈動」。
(……熱量換算にして10.4MHz(メガヘルツ:呪詛のエネルギー密度を示す波長単位)。純度の高い『血の呪い』か)
バザロは0.4秒で真鍮の計算尺を叩いた。
10.4MHzは物理熱量で10.4カロ。精製炭に換算して約12.4kg相当の超高密度エネルギー体に合致する。
歩留まり(精製時の有効エネルギー回収率)を保守的に70%と見積もっても、抽出・加工後の期待純利益は7.28カロ。
寒波が続く現在の市場においては、喉から手が出るほど欲しい極上のエネルギー原石だった。
「お前たちの貧困劇に付き合う暇はない。金を持たない客は客ではない。出て行け」
バザロは情を微塵も見せず、冷酷に使者の胸元を掴むと、雪の積もる店頭の路上へと放り出した。
使者は泣き叫びながら古銭を拾う間もなく去っていったが、バザロの視線はすでに遠くを見据えていた。
正当な依頼を受ければ、報酬の要求交渉や感謝という不快な感情の押し付け、果ては当局への納税と追跡のリスクがついて回る。
そんな無駄なコストを支払う気は毛頭ない。
(仕入れ値0カロ。夜間の無音侵入による強奪なら、利ざやは100%だ)
バザロは計算尺をポケットに収めると、左上腕の筋肉を微かに弛緩させた。
今夜の「仕入れ」の段取りは、すでに完璧に脳内で弾き出されていた。
もし面白かったと思っていただけましたら、下部の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマーク登録で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!




