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チャイムが鳴り終わった校舎には、昼間とは少し違う空気が流れていた。部活へ向かう生徒達の足音。廊下の向こうから聞こえてくる笑い声。窓の外では運動部の掛け声が響いていて、春の風が開いた窓から吹き込んでくる。
教室にはまだ何人か残っていたけれど、私はその賑やかさから逃げるように席を立った。
「……落ち着かない」
小さく呟く。もちろん原因は分かっている。昨日出会った、天瀬りなさん。
たった少し話しただけ。ノートを一緒に運んだだけ。それだけなのに、気づけば頭の中に彼女の姿が何度も浮かんでくる。
『……また、困ってたら手伝います』
『……ふふっ』
「うぅ……」
思い出した瞬間、顔を覆う。ダメだ。脳内再生の精度が高すぎる。声がやたら耳に残ってる。静かで柔らかくて、落ち着いていて、聞いているとなんだか安心する声。
しかも笑い方まで控えめなのがずるい。
「いやいやいや」
頭を振る。まだ二回くらいしか話していない。なのにこんなに気になるとか、流石にちょろすぎる。
そもそも私は、恋愛とかそういうものとは無縁の人種だったはずだ。
もちろん、女の子は大好きだけど。
可愛い子を見るとテンションが上がるし、美少女を見かけると心の中で拍手する。女子校なんて毎日が眼福空間だ。有栖ちゃんみたいな王道美少女も好きだし、みよちゃんみたいなふわふわ系も好き。クール系も、お姉さん系も、小動物系も良い。
百合漫画だって山ほど読む。女の子同士が仲良くしてるだけで健康に良い。
でも、それはあくまで“可愛いものが好き”という感覚だった。
推しを見る感じ。綺麗な絵を見て感動する感じ。三次元の女の子だって好きだけど、そこに恋愛感情が混ざった事はなかった。
現実の誰かを見て、こんなふうに胸が落ち着かなくなる事なんて、今まで一度もなかったのだ。
「図書室でも行こ」
このまま教室にいても落ち着かない。私は鞄を持って、静かな廊下を歩き始めた。
夕方の校舎は少し好きだ。窓から差し込むオレンジ色の光が廊下を照らしていて、昼間よりも空気が柔らかい。遠くから吹奏楽部の音が聞こえてきて、誰かの話し声が反響して消えていく。
女子校特有の空気感、というのだろうか。騒がしいのにどこか穏やかで、空気が丸い。私は昔からこの空間が好きだった。
そして何より、視界に入る全員が女の子。最高である。
「……うん、落ち着いてきた。そうだ、そうだよ。私は女の子が好き。でも、それは恋愛感情なんかじゃない」
自分に言い聞かせるように呟きながら、図書室の扉を開ける。中へ入ると、紙の匂いがふわりと鼻をくすぐった。
静かな空間。ページをめくる音だけが微かに響く。
やっぱり図書室は落ち着く。
私はそのまま恋愛小説コーナーへ向かった。いや、別に深い意味はない。本当に。ただ自然と足が向いただけで。
「……ふぅ」
本棚の前で深呼吸する。頭の中に浮かぶのは、やっぱり天瀬さんだった。
小柄な体。明るいベージュ色のおさげ。長いまつ毛。少し困ったみたいに笑う顔。静かな声。
それを思い出すたびに、胸がざわざわする。
「何なの、これ」
こんなの初めてだった。
可愛い女の子を見てテンションが上がる事は今まで何度もあった。でも、“もっと話したい”とか、“また会いたい”とか。そんなふうに誰か一人を意識する事なんてなかった。
考えれば考えるほど分からなくなって、私は適当に本棚から一冊抜き取った。
『はじめての恋』
「ぶふっ」
タイトルを見た瞬間、反射的に棚へ戻そうとする。私がどれだけこの感情に気付かないふりをしても、森羅万象が私にそれを自覚させようとしてきてる気がする……。
「白花さん」
「ぴゃっ!?」
真後ろから声がして、肩が大きく跳ねた。振り返ると、そこには夜月初奈さんが立っていた。長い水色髪に柔らかい笑み。
「また良い悲鳴ですね♪」
「夜月さん!? なんでここに!?」
「図書委員なので」
私のリアクションを楽しそうに眺める夜月さん。
彼女はくすくす笑いながら、私の持っている本へ視線を落とす。
「……“はじめての恋”」
「っっ!!」
あ。また、見られた。この人に、見られた……!!
「ち、違うんですこれは!! たまたま目に入っただけで!!」
「白花さんも、ついに現実で百合を!?」
「だから違いますって!」
「ちなみに、お相手はどんな方ですか?」
「いる前提で話さないでください!!」
「図書室ではお静かにお願いしま〜す♪」
「絶対今の私より夜月さんの方がうるさいですからね!?」
ひそひそ声で抗議すると、夜月さんは楽しそうに肩を揺らした。
本当に人をからかうのが好きだな、この人。でも何故か最近、不思議と嫌じゃなくなっている自分に驚く。ぐいぐい距離を詰めてくるこのコミュニケーションが癖になってきてしまったのだろうか。
多分、夜月さん自身に悪意がないからだろう。純粋に面白がっているだけというか、小動物を眺めるような目で見られている気がする。
夜月さんはそのまま自然な動作で私の隣へ並んだ。
近い、相変わらず距離が近い。
肩が触れそうな距離に少し落ち着かなくなっていると、夜月さんがふと口を開く。
「……でも意外です」
「何がですか?」
「白花さん、いつも“可愛い女の子大好き!”って感じですけど」
「否定はしません」
「でも、“誰か一人を特別扱いするタイプ”ではなさそうだったので♪」
「…………」
一瞬、言葉に詰まる。“特別”。その単語が妙に胸へ引っかかった。
『……白花さん』
脳裏に浮かぶのは、静かな声。長いまつ毛。夕日に照らされた柔らかい髪。
その瞬間、また胸の奥が熱くなった。
「……白花さん?」
「へぁっ!?」
「ふふっ、今すごく分かりやすかったですよ?」
「き、気のせいです!!」
慌てて顔を隠す。絶対今変な顔してた。なんなんだ本当に。昨日から心臓が忙しすぎる。
「白花さんって、可愛いものを見るとすぐ顔に出ますよね〜」
「そんな事ないです!」
「あります♡」
「ないです!」
「ありますよ〜♪きっと、白花さんが思っている以上に私、あなたの事見てますから」
くすくす笑われて、ぐうの音も出ない。
夜月さんは本棚へ軽く背を預けながら、じっとこちらを見ていた。
「でも、“誰か”にここまで反応してる白花さん、初めて見たかもしれません」
「っ……」
図星だった。悔しい。というかこの人、本当に人を見る目が鋭い。
私、自分で自覚する前に全部バレるんじゃない?
そんな事を考えていると、
「……あら」
ふと、夜月さんが図書室の入口へ視線を向けた。
「?」
つられてそちらを見る。
そして私は、一瞬で固まった。
入口近くの本棚。そこにいたのは、明るいベージュ色のおさげの女の子。静かに本を探している小さな背中。
「――っ」
天瀬さん。
認識した瞬間、どくん、と心臓が跳ねた。
なんで。
なんでいるだけでこんなに意識しちゃうの。
しかも図書室って。
静かな空気も、本を選ぶ姿も、全部似合いすぎてる。
ページをめくる細い指先とか。伏せられた長いまつ毛とか。横顔とか。全部綺麗で、見てるだけで変に落ち着かなくなる。
そんな私の横顔を、夜月さんはじっと見つめていた。
「…………」
その視線に気づいて振り返る。
「……夜月さん?」
「いえ♪」
にこり、と笑う。いつも通りの柔らかい笑顔。でも。その笑みは、ほんの少しだけ薄かった。
「白花さんって、本当に分かりやすいですね」
「え?」
「好きなものを見つけた時、すごく嬉しそうな顔するんです♪」
「〜〜〜っ!」
からかわれてる。絶対からかわれてる。
でも否定しようとした瞬間、また視界の端に天瀬さんが映る。すると、また胸がどきどきする。
なんなんだろう、この感じ。“可愛い”だけじゃ説明できない。もっと近づきたいとか。もっと知りたいとか。そんな気持ちが、自分の中に少しずつ生まれている。
その事実に、私はまだちゃんと気づけていなかった。
一方で。
「…………。……?」
そんな私を見つめる夜月さんの胸にも、小さな“もやもや”が生まれていた。
白花吟葉が誰かを目で追っている。自分の知らない顔で笑っている。その事が、なぜか少しだけ面白くない。
でも、その感情の名前を。
夜月さんは、まだ知らなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
本棚の前で静かに背表紙を眺めている。細い指先が一冊ずつ本をなぞっていく仕草はゆっくりで、急いでいる感じがまるでない。
その姿を見ているだけで、なぜだか胸が落ち着かなくなる。
「…………」
やばい。
たぶん今、めちゃくちゃ見てる。でも視線が逸らせない。だって似合いすぎるのだ。
図書室の静かな空気も、本棚の隙間から差し込む夕日も、全部天瀬さんに馴染んでいる。
なんというか、絵になる。少女漫画のワンシーンみたい。
「白花さん」
「ひゃいっ」
耳元近くで囁かれて、肩が飛び跳ねた。振り向くと、夜月さんがすぐ隣でにこにこしている。
近い。
近い近い近い。
「そんな」
「み、見つめてません!」
「見つめてました♡」
「うぅ……」
夜月さんは楽しそうに笑いながら、じっと私の顔を覗き込んでくる。
反論できない。
だって本当に見てたから。
静かな雰囲気とか、小さな仕草とか、控えめな表情とか。全部がやたら目についてしまう。
昨日からずっとそうだ。
気づけば天瀬さんの事を考えている。
声を思い出して、顔を思い出して、笑った瞬間を思い出して。
そのたびに胸の奥が変に熱くなる。
こんなの初めてだった。
「……白花さん」
「へ?」
「行かないんですか?」
「……どこにです?」
「あの方のところ♪」
「っっ!?」
思わず変な声が漏れそうになって、慌てて口を押さえる。
無理無理無理。心の準備が。というか何話しかければいいの。
“こんにちは”?
いや昨日も会ったし。
でも無視みたいになるのも変だし。
頭の中でぐるぐる悩んでいると、不意に天瀬さんが顔を上げた。
そして。
ばっちり目が合った。
「――っ」
心臓が跳ねる。自分でも分かる、目が合っただけで鼓動が速くなった。
天瀬さんは少しだけ目を丸くしたあと、小さく会釈をした。
「……こんにちは」
静かな声。
それだけなのに、一瞬で顔が熱くなる。
「こ、こんにちは……!」
声裏返った。
最悪だ。
絶対変な人だと思われた。
けれど天瀬さんは特に気にした様子もなく、ぱたん、と本を閉じてこちらへ歩いてくる。
近づいてくるたび、心臓がうるさい。
なんでこんな緊張してるんだろう。
可愛い女の子なんて今までだってたくさん見てきたのに。
でも天瀬さんは、なんか違う。
「……昨日ぶり、ですね」
「そ、そうですね!」
「……図書室、よく来るんですか?」
「はい!本を読んでると落ち着くんです」
慌てて返事をすると、天瀬さんは小さく頷いた。
「……私も、好きです」
「す、好きっ!?いや、私は好きとかそんなんじゃなくて……」
「——?本、好きじゃないんですか」
「あ、本……。本は好きです!ごめんなさい、気にしないでください」
我ながら間抜けだ。天瀬さんと話す緊張で変な事を口走ってしまった。
「ふふ」
天瀬さんの口が綻び、小さな笑い声が漏れる。
「……あれ」
ふと、天瀬さんの視線が隣へ向く。
そこで初めて、夜月さんと目が合った。
「……?」
不思議そうに瞬きをする天瀬さん。
夜月さんはいつも通り、ふわりと笑った。
「はじめまして、夜月初奈です♪」
「……天瀬りな、です」
ぺこり、と小さく頭を下げる。
初対面特有の、少しだけぎこちない空気。
けれど夜月さんは気にした様子もなく、にこにこと笑っていた。
「白花さんのお友達ですか?」
「っ」
その言葉に、吟葉の肩がぴくりと揺れる。――友達。その単語を意識した瞬間、変に緊張した。
まだちゃんと仲良くなった訳じゃない。昨日少し話しただけだし。でも、違うって思われるのも嫌で。
そんな複雑な感情で固まっていると、
「……はい」
天瀬さんが、小さく頷いた。
「――っ」
一瞬、息が止まりそうになる。
「……多分」
「多分!?」
思わず声が出た。
すると天瀬さんは少し困ったみたいに視線を逸らす。
「……まだ、あまり話してないので」
「あ、そ、そうですよね……!」
恥ずかしい。
一人で勝手に動揺してる。
そんな事をしていたら、天瀬さんが時計を見て、こちらを向いた。
「あの、私そろそろ帰りますね。……また、今度」
「は〜い、また〜」
天瀬さんは、本を返し終えるとすぐに図書室から出ていってしまった。言葉に詰まった私は、何も言えずにただ見送っただけ。なるたけ、表に出さないように死ぬほど後悔する。
「……白花さん、明日、お暇ですか?」
「——?暇ですけど……」
「その……私とお出かけしてくださいませんか?」
「…………へ?」
一瞬、意味が理解できなかった。
図書室の静かな空気。遠くで誰かが本を閉じる音。窓から差し込む夕焼けの光。
その全部が、なぜか急に遠く感じる。
「え、あの……お出かけ、って」
「デートでも構いませんよ♡」
「————!?」
思わず変な声が漏れそうになって、私は慌てて口を押さえた。
夜月さんはそんな私を見て、くすくすと楽しそうに笑っている。
「冗談です♡」
「やめてください、そういうの!慣れてないんですからっ!!」
「ふふっ♪」
この人、本当に心臓に悪い。
けれど夜月さんは、少しだけ視線を柔らかくして続けた。
「……白花さん、今すごく忙しそうなので」
「え?」
「頭の中が」
「っ……!」
夜月さんの言う通り、天瀬さんと話してから、ずっと胸の奥がそわそわしている。嬉しいような、落ち着かないような、変な感覚。
そのせいで、今もまともに思考が回っていない。
夜月さんは本棚から身体を離すと、私の前へ回り込むように立った。
「なので、気分転換です♪」
「気分転換……」
「美味しいもの食べたり、お買い物したり♪白花さん、そういうの好きでしょう?」
「……好きですけど」
「では決まりですね」
にこり、と笑う。
その笑顔はいつも通り柔らかいのに、どこか有無を言わせない勢いがあった。
「でも、急にお出かけなんて……」
「嫌ですか?」
「うっ」
少しだけ首を傾げる夜月さん。
その仕草が妙にずるい。
「……嫌じゃ、ないです」
「良かったです」
ぱぁ、と花が咲くみたいに笑う。
その笑顔を見た瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
私は単純なので、美少女に笑顔を向けられるとすぐ嬉しくなる。
「じゃあ明日、駅前で待ち合わせしましょうか♪」
「え、もう決定なんですか?」
「もちろんです」
「強引……」
「白花さん、放っておくと一生ぐるぐる悩んでそうなので♪」
「うぐっ」
否定できない。
実際、今も頭の中では天瀬さんの事がぐるぐる回っている。
“また今度”。
帰り際に言われたその言葉だけで、変に嬉しくなってしまっている自分がいる。
……重症かもしれない。
そんな事を考えていると、
「…………」
ふと、夜月さんの視線がこちらへ向けられている事に気づいた。
「……? どうしました?」
「いえ」
また、柔らかい笑顔。
けれど今度は、その奥に少しだけ考え込むような色が見えた。
「白花さんって、本当に楽しそうに笑うんだなぁって♪」
「え?」
「天瀬さんと話してる時、とっても嬉しそうでした」
「〜〜〜っ!」
やめてほしい。今日だけで何回照れさせるつもりなんだこの人。私は顔を隠すように俯いた。
「……でも、今は私とのお出かけの話なので、私のこと見てほしいです」
「……ごめんなさい、そうですね」
「ありがとうございます♪」
夜月さんは、そんな私を見ながらふふっと笑った。そのまま彼女は軽く伸びをすると、
「では明日、楽しみにしてますね♪」
そう言って、先に図書室を出ていった。
ぱたん、と扉が閉まる。
静かになった図書室で、私は一人取り残された。
「……なんか今日、感情ジェットコースターすぎない?」
天瀬さんと会って。夜月さんにからかわれて。
お出かけの約束までして。
胸の奥がずっと忙しい。でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ――。
「……楽しみ、かも」
ぽつりと零した言葉は、誰にも聞かれないまま静かな図書室へ溶けていった。




