第一章:万感の思いを秘めて演壇に立つ
本伝では語られなかったプリムのその後を書いていきます。
かつて幾度となく壊滅的な被害を受けたアンゾールマ国。
しかし、首都ルートシアは目覚ましい復興を遂げていた。凄惨な事件の爪痕を残していた瓦礫はすべて綺麗に撤去され、新しく敷かれた美しい街路を人々が行き交う。そこにはかつての恐怖の色はなく、誰もが何事もなかったかのように平穏な暮らしを営んでいた。
今日のルートシアは、いつも以上の熱気に包まれている。
緩やかな土手に設えられた広大な観客席には、隙間もないほどに多くの人々が集まり、押し合いながらその時を待っていた。
その大歓声が地鳴りのように響く会場のすぐ隣。特設された控室の静寂のなかで、彼女は静かに出番を待っていた――。
「――あれ……? 私、今眠っていたの?」
かすれ気味の声が、静まり返った控室に小さく響いた。 まだ少女の面影も残るエルフ――、プリムがまぶたを持ち上げると、視界を覆っていた深い闇がゆっくりと退いていく。いつの間にか意識が飛んでいたらしい。思考がまだ霧のなかにあったが、体にのしかかる容赦のない重みが、自分の限界を告げていた。
「お疲れのようですね。無理もないですよ。ここ二、三日の分刻みのスケジュールをこなされて、ロクに眠れていないのですから」
傍らから、聞き慣れた穏やかな声が返ってきた。アグリだ。 彼女はプリムが目を覚ますのを邪魔しないよう、すぐ近くでそっと見守っていたのだ。掛けられた言葉には、深い気遣いと労りが滲んでいた。
「ごめんなさい、アグリ。大事なときに情けないわね」 「いいえ。あなたがどれだけの荷を背負ってここまで走ってきたか、私が一番よく知っています。……鏡をご覧になりますか?」
アグリに促され、プリムは室内の姿見に目を向けた。 そこに映っていたのは、かつて裏社会を恐怖で支配したギャング『プリム』のボス、『レイ』の姿ではなかった。白く乾いた仮面も、返り血を吸った暗色の外套もない。今の彼女が身にまとっているのは、凛とした気品を漂わせる、仕立ての良い端正な衣装だ。
アンゾールマが未曾有の災厄に見舞われ、旧市街が壊滅してから、長い月日が流れていた。
あの大破壊の爪痕から、泥をすすり、血を流しながらも街を文字通り「生かし続けた」のは彼女だった。私利私欲に走る特権階級どもを退け、真に民に寄り添い、復興の先頭に立ち続けた。その献身的な姿は、いつしかアンゾールマの民から「真の聖女」として絶大な支持を集めるようになっていた。
そして今日、彼女はかつての影の支配者が座っていた場所――国家の頂点である「評議長」の国民選挙へと打って出る。
「でも、もうすぐなのよね。もうすぐ、本当にこの国を変えられる」
プリムは自らの両手を見つめ、静かに呟いた。 その手の平には、かつて孤児達を救うために、麻薬栽培にまで手を染めた結果、孤児たちをすり潰してしまうジレンマという消えない罪の記憶が刻まれている。だからこそ、彼女の歩みは誰よりも険しく、そして妥協のないものだった。
彼女は既存の政党や、既得権益に群がる有力者たちの甘い誘いには一切乗らなかった。大金が動かせる支持母体など作れば、またあの腐敗が繰り返されるだけだと知っていたからだ。
彼女が選んだのは、地道に、泥臭く、自らの足で民のなかへ飛び込み、自らの政治理念を浸透させていく茨の道だった。
アンゾールマの歪んだ構造を、内側から、根底からひっくり返す。 そのための戦いが、ようやくここまで辿り着いたのだ。
「まもなく開会の時間です、プリム様。外では、あなたの言葉を待つ大勢の国民が地鳴りのような歓声をあげていますよ」
アグリがドアの向こうを指し示す。確かに、壁を隔てた向こう側から、自分を呼ぶ民衆の熱気が伝わってきた。
プリムは深く息を吸い込み、ゆっくりと立ち上がる。眠気はもう、完全に吹き飛んでいた。
控室を後にし、薄暗い通路を抜けて屋外に設えられたステージへと一歩を踏み出す。
遮るもののない眩しい太陽の光がプリムを照らし、彼女の姿が視界に開けた瞬間、広大な土手を埋め尽くしていた観客から、割れんばかりの大歓声が湧き上がった。地を揺らすほどの熱狂。それは彼女が積み上げてきた、民衆からの信頼の証そのものだった。
そのプリムの傍らには、カインやテイゲンが鋭い視線を周囲に走らせ、無言で彼女の身を守るように付き従っていた。かつて共に修羅場を潜り抜けてきた信頼できる仲間たちが、今もこうして彼女の盾として、政治の表舞台でも支え続けている。
歓声の嵐のなか、プリムは真っ直ぐに歩を進め、ステージ中央の演壇の前に立った。
ふと、正面に広がる青々とした土手の観客席を見回す。
その景色を目にした瞬間、プリムの胸の奥に、懐かしい記憶の断片が鮮やかによみがえった。
――ここは、あの頃のままの土手だ。
かつて、アルトと一緒に、蜂蜜をたっぷり絡めた甘い揚げ菓子を分け合って食べた場所。食べ終えた後、どちらからともなく持ってきた空になった油紙の袋をお尻に敷いて、まるで子供のように勢いよく滑り降りて、二人して草だらけになって笑い転げた、あの瑞々しい緑の土手。
歳月が流れ、街の景色は変わり、彼女は聖女と呼ばれるようになった。それでも、あの泥臭くも温かかった大切な思い出は、今も色褪せることなく彼女の中に生きている。
プリムは切なさを伴うその記憶を、愛おしむようにそっと心の奥底にしまい込んだ。彼と分かち合ったあの時間は、今も彼女が前を向いて戦うための、静かな原動力だった。
覚悟を決め、プリムは演説を始めるために、観客たちの前へ向けてそっと両手を差し出した。
「――っ」
そのわずかな仕草一つで、地鳴りのようだった大歓声が嘘のように引き、水を打ったような静寂が辺りを包み込む。数万の視線が、プリムへと注がれていた。
プリムは大きく胸に息を吸い込む。
そして、眼前に広がる観客一人一人の瞳に、自分の言葉を直接届けるように、静かに、だが力強く語りかけ始めた。
剣を振るう戦いはとっくに終わった。ここからは、この国の未来を懸けた、彼女自身の言葉と信念による戦いが始まる。
静寂のなか、プリムは集まった数万の群衆を見つめ、凛とした声を響かせた。拡声の魔導具が彼女の声を拾い、ルートシアの青空へとまっすぐに溶けていく。
「私は今日まで、自分の過去も、過ちも、理想も、そのすべてを皆さんに包み隠さずお話ししてきました。そして、私が人生のすべてを懸けてこの国のためにこの身を捧げる覚悟があることを、お伝えしてきました」
一言一言を区切るように、確かな熱量を持って語りかける。土手を埋め尽くす民衆は、固唾をのんで彼女の言葉を耳で、心で受け止めていた。
「――しかし、それだけでは、この国を良くする政治は決してできません」
予想外の言葉に、観客席の空気がわずかに揺れた。「聖女」と呼ばれた彼女なら、「私にすべてを任せてくれ」と言うはずだと、誰もが思っていたからだ。プリムは静かに首を振る。
「民主主義とは、人任せにできないものなのです。私たちはかつて、特定の誰かにすべてを委ね、目を背けた結果、どのような地獄を見たかを身を以て知っているはずです。誰かに政治を丸投げすれば、そこに歪な権力が集中し、必ずそこから腐敗が始まります。これは、人間が政治を行う以上、絶対に避けられない歴史の真理なのです」
彼女の背後に立つカインとテイゲンが、静かにその背中を見つめていた。かつてアンゾールマを牛耳ったアエゾスという絶対的な闇。そして、自らも暴力と麻薬で街を支配しようとした過去。その恐ろしさを誰よりも知っているプリムだからこそ、その言葉には、胸を締め付けるような重みがあった。
また、それだけではない。政治家としての『生存本能』が、人間の弱さと腐敗に繋がることもその後の政治家達がその身で教えてくれていた。
「これまでの政治家たちは、国民を政治から遠ざけ、分断させるために、耳当たりの良い言い訳や、わざと複雑で分かりづらい仕組みを作ってきました。私は、それらをすべて壊し、根底から作り直します。そして、この国が他国に依存せず、真に自立していくために、私たちが今何をすべきなのか、その具体的な道をすべて皆さんの前に提示していきます」
そこで一度言葉を切り、プリムは力強く右手を胸に当てた。
「その二点は、私に任せてください。私が命に代えてもやり遂げます。――でも、その代わりに、皆さんにお願いしたいことがあるのです」
数万の視線が、プリムの瞳に吸い寄せられる。彼女は観客一人一人の目を見つめるように、切なる願いを口にした。
「どうか、政治を人任せにしないでください。私は、この分厚く腐りきったアンゾールマの政治に、私のすべてを懸けて風穴を空けます。……でも、その空いた風穴の向こうに、どんな未来を描き、何を築いていくかを決めるのは、私ではない。ここにいる、国民の皆さんお一人お一人なのです」
その言葉が、ルートシアの風に乗ってすべての人の耳に届いた瞬間、一瞬の、深い沈黙が訪れた。
民衆が突きつけられた衝撃に息を呑むなか、プリムはさらに言葉を重ねた。その瞳には、容赦のない現実を暴く冷徹さと、民を信じる強い光が宿っている。
「私のこの話が衝撃的だと思う方ほど、現在の政治体制に翻弄され、洗脳されているのです。目を覚ましてください!権力者のもとから政治を国民の手に取り戻すのです!」
その鋭い一喝は、ぬるま湯のような平穏に浸かりかけていた聴衆の鼓膜を激しく叩いた。
ただ優しく手を差し伸べるだけの「聖女」ではない。かつて裏社会を生き抜き、剥き出しの悪意と戦い続けてきた『レイ』としての苛烈な意志が、その声にはっきりと滲んでいた。
ハッとしたように顔を上げる者、自分の胸に手を当てる者、隣の者と顔を見合わせる者。民衆の間に、さざ波のような戦慄と覚醒が広がっていく。
「政治を国民の手に取り戻した暁には、私は政治から身を退きます。そして一人の国民として、後に続く政治家を見守り、時には厳しく監視していきます。これこそが、あるべき民主主義なのです。この国を変える覚悟を、私とともに皆さんも持ってください。」
さらなる衝撃が、ルートシアの青空の下に叩きつけられた。
誰もが耳を疑い、そして彼女の表情を凝視した。最高権力である「評議長」の座を今まさに掴み取ろうとしているその本人が、権力を得る前から、それを手放す瞬間の話をしているのだ。
私利私欲のために権力にしがみつき、利権を貪り尽くした過去の支配者たちとは、あまりにも対極。己の野心のためではなく、本当にこの国の仕組みそのものを変えるために立っているのだという、狂おしいほどの純粋さがそこにはあった。
本伝「ンードラロギア」をお読みいただいている方、初めてこの作品からお読みいただいた方、本エピソードをお読みいただきましてありがとうございます。
過酷な裏社会を生き抜いたプリムが、ついに国家の表舞台――政治の戦場へと打って出るスピンオフ『プリム立志編』の第1章をお届けしました。
かつて女衒に売られ、泥水をすすり、手の平に消えない罪の記憶を刻んできた彼女。そして、今なお消えないあの緑の土手の思い出を秘めたまま、彼女は数万の民衆の前へ立ちました。
誰よりも自分の夢を諦められなかった彼女だからこそ、誰もが諦める「政治の闇」に、誰よりも強く風穴を空けられるのだと信じています。
本作は時系列的にも本伝のアフターストーリーであり、ネタバレを避けつつ作成する必要があり、作者のパッションの赴くままに書く【超不定期更新】となります。
「更新されたらラッキー!」くらいの温かい目で見守っていただけると幸いです。
世界一諦めの悪い聖女プリムの新しい戦い、ぜひ気長にお付き合いください!
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