また焼けるかな、あの味を
風に揺れて、棚の端から一枚の紙がひらりと落ちた。
「あっ」
モナカは転がるようにしゃがみ込み、それを拾い上げる。
手のひらほどの紙札には、黒墨で書かれた文字が一行だけ。
”もう一度、たこ焼きを焼きたい”
「ん〜〜? たこ焼きって、屋台とかで売ってるあれだよね?」
モナカは耳をぴこぴこと揺らしながら、縁側で茶を淹れているミタマに見せた。
「ミタマ、見て見て〜。これ、ちょっとおいしそうな願い札だよっ」
「ふふ……おいしそう、という感想は初めて聞いたかもしれないわね」
笑いながらミタマは札を受け取り、目を細める。
そして筆跡にそっと指をなぞり、小さく頷いた。
「この文字……たぶん、早川さんのものね。山のふもとに住んでいらっしゃる方。以前は神社のお祭りで、たこ焼き屋台を出してくださっていたの」
「へ〜〜! おじいちゃんが焼いてたの? モナカ、食べたことないなあっ」
「あなたが来る前の話だから。でも、ふわっとろで、外はカリッと。とても美味しかったわよ。子どもたちに大人気だった」
「うわぁ〜〜、絶対おいしいやつっ! モナカも焼いてみたいっ!」
勢いよく立ち上がったモナカの尻尾が、ぶんっと左右に揺れる。
気合いが入ったのか、もうちゃぶ台の上のせんべいにも目を向けない。
「ねぇミタマ、行ってみようよ! そのおじいちゃんのとこ! モナカ、たこ焼き焼きたい〜〜っ!」
「……いいわよ。あなたがそこまで言うなら、お供するわ」
ミタマは笑みを浮かべながら急須を片づけ、ふたりは並んで神社を出た。
風に揺れる木々の音と、鳥のさえずりを聞きながら、ゆるやかな山道を下っていく。
たこ焼きが焼きたいという、たった一枚の札。
その文字の奥にある本当の願いを、ふたりはまだ知らない。
山道を下った先、畑の裏手にある古びた平屋。
季節の草が静かに揺れるその庭先で、早川さんは縁側に座っていた。
「……もう、やめたことだよ」
モナカの勢いそのままの訪問に、早川さんはぽつりと答えた。
日焼けした顔としわの刻まれた手。背は丸く、目元は穏やかだったが、その言葉にはどこか遠さがあった。
「火を使うのも、道具を広げるのも、もう歳でな。もう無理なんだ」
「でもでも、モナカ、焼いてみたいなあ〜〜っ!」
縁側にぺたりと座り込んだモナカが、キラキラした目でのぞきこむ。
早川さんは、ちょっとだけ唇を緩めてから、静かに首を横に振った。
「……孫がな。火傷をしたことがあるんだよ」
モナカの耳がぴくりと動く。ミタマもそっと表情を引き締めた。
「ほんの少し目を離しただけだった。鉄板のそばにいたことに気づかなくて……。すぐに冷やしたから大事には至らなかったが、それでも泣いて、怖がって……」
その視線が、少し俯く。
「『もう焼かなくていい』って、あの子に言われたよ。……それからだ。道具をしまったのは」
沈黙が落ちる。
夏の名残を引いた風が、縁側を通り抜け、願い札の端を揺らした。
その音にモナカが顔を上げる。
「じゃあさ、おじいちゃんは、それっきり焼いてないの?」
「ああ。……焼きたくないわけじゃなかったが、もしまた何かあったら、と思うとな」
「でも、願ってたよ?」
そう言ってモナカは、懐からそっと例の札を取り出した。
「ね、『もう一度、たこ焼きを焼きたい』って。ちゃーんと、書いてあったもん。おじいちゃんが“本当は”どうしたいか、モナカは知ってるよっ」
早川さんは札を受け取って、しばらく見つめる。
そして、かすかに笑みを浮かべながら、立ち上がった。
「……古い道具、まだ残してあるよ。ちょっと待ってな」
奥から運び出されたのは、年季の入ったたこ焼き機。
鉄板には黒く光る油の跡が残っていて、いかにも長年使い込まれた品だった。
「火が通るかはわからんが、まだ使えるかもしれん」
「わぁ〜〜っ! 本物だぁ〜!」
モナカが飛び跳ねるように喜び、ミタマが受け取って状態を丁寧に確認する。
「ガス管も問題なさそうね。火加減さえ見られれば、きっと焼けるわ」
「じゃあじゃあ、ミタマは味担当ねっ! モナカがくるくる返して、おじいちゃんが先生っ!」
「……はは。そういう分担か」
早川さんの目元が、少し柔らかくなる。
その視線はどこか懐かしげで、けれど確かに、未来を見ていた。
神社の旧社務所に据えられた年季もののたこ焼き機。
モナカはおでこに手ぬぐいを巻いて、どこか気合いの入った様子で立っていた。
「よーし、モナカの“くるくる大作戦”スタートっ!」
ミタマが整えた生地を流し込んで、ぐつぐつと音を立てる鉄板。
香ばしいだしの香りがふわりと広がるなか、モナカが真剣な顔で串を握る。
「えいっ! ……あわわっ!? ぐにゃってなった〜〜!」
丸く返すつもりが、ぐしゃりと潰れてしまったたこ焼き。
ミタマが苦笑しながら、焦げついた端をそっとつまんで取り除く。
「もう少し焼けてから返すの。焦らずに、ね?」
「む〜〜……あっ、またこっちも破れたっ!」
何度か挑戦するも、形は崩れる一方。
鉄板の上に、焦げと生地の名残が散らばる。
「はぁぁ……モナカ、たこ焼きに向いてないかも……」
「そんなことないわ。失敗は成功のもとって言うでしょう?」
ミタマが柔らかく微笑むその声に、戸口の方からもう一つの声が重なった。
「……そんなんじゃ、丸くならんぞ」
振り返ると、拝殿の方からゆっくりと歩いてくる影。
杖をついた早川さんが、こちらを見ていた。
「鉄串の先をこう使うんだ。生地の端に引っかけて、ぐるりと巻くように……」
震える手を抑えながらも、動きは迷いがない。
くるっ、くるん。見事に丸く返っていくたこ焼き。
「わあっ! すごい〜〜! 本物の技っ!」
モナカが目を輝かせて拍手する。
けれど、早川さんは串をそっと置きながら言った。
「……ほんとはな、火の前に立つのが怖かったんだ」
ミタマとモナカが、そっと黙って耳を傾ける。
「孫が火傷をしたあの日、たこ焼き機を睨むように見てな……。『もう二度と、焼かなくていい』って。その言葉を聞いたとき、自分の手が怖くなった。また誰かを傷つけるんじゃないかって、そう思ってしまってな」
その目には後悔と、自責と、そして何より――恐れが宿っていた。
モナカは、ゆっくりと立ち上がる。
そして、焦げたまん丸にならなかった失敗作のひとつを手に取り、ぽん、と口に入れた。
「ん〜〜〜〜、ちょっと崩れてるけど、味は……おいしいっ!」
その様子に、ミタマがくすっと微笑む。
「ふふ。上手くいかなくても、あなたらしい味になるのね」
「でしょでしょ〜っ?けっこうイケるよ!」
モナカは笑って、おじいさんに向き直る。
「だからさ、おじいちゃん! 一緒にやろうよっ! 今度は一人じゃないもんっ!」
ミタマもそっと添えるように言った。
「いっしょなら、火も怖くないわ。」
早川さんは黙ってふたりの顔を見比べ、しばらくの沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「……三人でやるってのも、悪くないな」
それは、諦めではなく――あたたかな決意の吐息だった。
数日後の午後。
神社の境内には、簡素ながらあたたかな屋台が組まれていた。
竹の骨組みに赤い布を張り、白墨で「たこ焼き」と描かれたのれんが、風に揺れている。
モナカはその前に立ち、両手で団扇を振りながら大きな声を上げた。
「いらっしゃいませ〜っ! たこ焼き屋さん、復活でーすっ!」
境内にいた親子連れや散歩中の年配の方が、少しずつ足を止めて集まってくる。
鉄板の火は、ミタマが調整していた。
油を引いて、生地を流し、たこを落とし、紅しょうがと青のりも忘れずに――
「うんっ、いい匂い! ミタマ、今日の生地、絶対大当たりだよっ!」
「ふふ、ありがと。だしは昨日から仕込んでおいたの」
その隣では、早川さんがじっと焼き加減を見守っていた。
「モナカ、返すタイミングは今だ。少し早いと、崩れるぞ」
「はいっ、先生っ!」
モナカがくるっと返す。ひとつ、ふたつ、三つ目でちょっと崩れる。
でも、笑ってやり直せる。すぐにまた、丸くなる。
「ほら、できたっ! ふわっふわ〜!」
焼きたてのたこ焼きが舟皿に盛られ、ミタマが青のりとソースをふわりとかける。
子どもたちがわっと駆け寄って、熱そうにふーふーしながら頬張った。
「おいし〜〜い!」
「また食べたいっ!」
そんな声に、早川さんがそっと目を細める。
――その笑顔は、あの頃と、何ひとつ変わっていなかった。
「先生も食べてみてよっ! 今日の“チームモナカ”のたこ焼き!」
「……そうだな」
ひとつ手に取り、口に運ぶ。
香ばしさとだしの優しさ、少しだけ焦げ目の香り。
「……昔とは違うな。でも、うまい」
モナカとミタマが、その言葉に顔を見合わせて笑う。
屋台の後ろでは、小さな風車がカラカラと回っていた。
誰かが残していった願い札が、風に揺れて、やわらかくめくれる。
その風景の中に、誰かの願いが、もうすでに叶っていることを、きっと誰もが感じていた。
日が傾き、屋台の灯りが静かに消えるころ。
神社の境内は、いつもの静けさを取り戻しつつあった。
たこ焼きの香りがほんのりと残る風が吹き抜けていくなか、モナカとミタマは縁側に並んで座っていた。
ちゃぶ台の上には、焼きたてのたこ焼きが三つ、湯気を立てている。
「ふわっふわ〜〜、今日のたこ焼き、最高だったね!」
「ふふ。あなたの“くるくる”も、ずいぶん様になってたわ」
「でしょっ! モナカ、たこ焼き職人になれちゃうかも〜!」
モナカがぱくっと一つをほおばる。
口いっぱいに広がるだしと、ミタマ特製のソースの甘み。
「ん〜〜〜っ! やっぱり、みんなで焼くと格別っ!」
「そうね。今日の味は、三人じゃなきゃ出せなかったわ」
ミタマもひとつ、そっと口に運ぶ。
そして、静かに目を閉じる。
拝殿の脇では、たこ焼き屋台が静かにたたまれ、風にそよいだのれんがふわりと揺れる。
その足元――願い札の棚から、一枚の札がふわっと舞い上がり、石畳の上にやさしく落ちた。
ミタマがそっと拾い上げる。
”もう一度、たこ焼きを焼きたい”
かすれた文字のあとに、ふわりと墨のにじみが残っていた。
「もう、叶ったよねっ」
モナカが微笑んで言う。
ミタマも頷きながら、札を見上げた空へとかざす。
「ええ。きっと、あの方の中でも……ちゃんと、もう一度焼けたのね」
空には、茜が残っていた。
ほんのりと滲んだ夕焼けに、鳥たちの影がすうっと横切っていく。
「ねぇミタマ、次は綿あめにしよっか! もこもこふわふわ、絶対楽しいっ!」
「綿あめね……ふふ。じゃあ次も“くるくる”担当かしら」
「任せて〜〜〜! モナカ、甘いのは得意っ!」
二人の声が、境内にふんわりと響いた。
夕暮れの風が、願い札をひとつ、静かに揺らしていく。