ふたりの迷子
その紙は、棚の端にそっと置かれていた。
他の札の影に紛れるように、少しだけ角がめくれている。
モナカが気づいたのは、朝の掃除をしていたときだった。
竹ぼうきを片手に拝殿の前を歩いていたら、ふと、風が一枚だけひらりと揺らした。
「……ん?」
しゃがんで拾い上げる。
手のひらほどの、少し黄みがかった和紙の札。
墨の跡は濃くなく、けれどどこか迷いながら書かれたような筆の揺れがある。
「……”ごめんなさい”?」
モナカが小さく読み上げる。
にじんだ文字は、まるで泣いたあとのように波打っていた。
その声に気づいて、縁側で茶を淹れていたミタマが顔を上げる。
「どうかしたの?」
「ミタマ、この札……なんか、すごく、悲しそう」
モナカは札を両手で抱えたまま近づき、ちゃぶ台の端にそっと置いた。
ミタマは座ったまま、その紙に指先をふれさせ、静かに目を細める。
「……ええ。この札は、人間のものじゃない」
「妖さんの、だよね」
「そうね。気配が淡く、でも深く沁みてる。たぶん、ずっと言えなかったことを、ようやく書いた……そんな気配」
モナカの耳がぴくりと動く。
「ねぇミタマ。この“ごめんなさい”って、誰に向けて書いたんだろ」
「きっと、大切な誰かへ。そして、まだ許されていないと感じているのね」
ミタマはそっと札を持ち上げて、自分の膝の上に置いた。
「紙に残った気配は、まだ近くにある。ここから、遠くない場所……」
そのとき、社の奥にある木立のほうから、ふわりと風が吹いた。
空気がわずかに揺れて、あたたかな気配が通り過ぎる。
モナカが立ち上がる。
「いまの……妖さん?」
ミタマはゆっくりと頷く。
「ええ。まだ神社のどこかにいるわ。会えるかもしれない」
「じゃあ、行ってみよう! “ごめんなさい”の続きを、ちゃんと聞かなくちゃ!」
モナカが尾をふわっと跳ねさせる。
その姿は、まるで風に向かって走り出す子ぎつねのようだった。
「ミタマ、お願いっ。お茶はあとにしよう!」
「……仕方ないわね」
ミタマが苦笑しながら湯のみを片づけ、ふたりは神社の裏手、木々の茂る静かなあぜ道へと足を向ける。
願い札に込められた“ごめんなさい”――
それはまだ、終わっていない言葉だった。
社の裏手、小道を少し下ったところに、ひときわ静かな空気をまとった場所がある。
竹と杉に囲まれたその一角――ふたりが足を踏み入れた瞬間、モナカの耳がぴんと立った。
「……ここだ。さっきの気配、ここからする」
ミタマも頷く。
空気がやわらかく、でもどこか緊張している。見えない誰かが、息を潜めているような。
ふたりが立ち止まると、木々の隙間から一人の女性が現れた。
透けるように白い髪と、少しだけ時代を外れたような、くすんだ青の着物。
姿は人間に見えるけれど、その気配はまぎれもなく、妖のものだった。
彼女はふたりを見て、すこし驚いたように目を見開いたあと、すぐに目を伏せた。
「……見つかってしまいましたね」
その声は、風のなかに溶けてしまいそうなほど、かすかだった。
モナカがそっと歩み寄る。
「えっと……“ごめんなさい”の札、読んだよ」
女性の妖は肩をすくめるようにして、うつむいたまま小さく息を吐いた。
「ずっと、書こうかどうか悩んでいました。……でも、もう時間がないような気がして」
「時間って?」
「……昔、出会った人間の子がいるんです。森で道に迷っていたときに、偶然出会って。私は、咄嗟に人のふりをして、助けました」
ミタマが小さく頷く。
「そのまましばらく、一緒にいたのね?」
「ええ。彼女がひとりで寂しそうだったから。……でも、私は、妖です。姿が変わらない。あの子が大きくなるほどに、私の存在は不自然になっていく。だから、去りました」
「なんにも言わずに?」
「いいえ。……『またね』とだけ言いました」
モナカが小さく、息をのんだ。
女性の妖は、ふっと笑ったような顔をして、それでも視線を上げなかった。
「でも、それは叶わなかった。“またね”なんて、嘘だったんです。だから、せめて――ごめんなさいだけでも伝えたくて」
「……“またね”を言ったあと、もう一度会おうとは思わなかったの?」
モナカの声は静かだった。
妖は、少しだけ考えるような間を置いて、ぽつりと言った。
「……思っていました。ずっと。でも、私が会いに行けば、また嘘を重ねてしまうような気がして。あの子の記憶を壊してしまうような気がして……怖かったんです」
ミタマがそっと膝をつき、同じ目線に座る。
「あなたが別れを選んだのは、あの子のためだったのよね?」
「……そう、思っていました。でも、今でも……本当にそれが正しかったのか、わからなくて」
「だから、自分を“嘘つき”だと思ってしまったのね」
妖は頷いた。その肩は、小さく震えていた。
モナカがそっと、彼女の前にしゃがみこむ。
「ねぇ、その子は、いまどうしてるの?」
「……きっと、もう歳を重ねているはずです。昔と同じじゃないかもしれない。でも、私はまだ……あのときのままで」
「じゃあ、また会えばいいんじゃない?」
「……え?」
「“またね”って、ただの約束じゃなくて、“また会いたい”って気持ちでしょ? だったら、今からでもいいんだよ」
妖は小さく唇をかんだ。
ミタマが、優しくその言葉をつなげる。
「まだ遅くないわ。あなたが、もう一度会いたいと願うなら」
沈黙が流れる。
そしてその中で、ふと妖が小さく首を横に振る。
「……会いたい。でも、今さら私の顔を見たら、あの子はどう思うか……」
モナカが、ぱっと笑って言った。
「モナカたちが、あなたの願いを届けるからっ!」
妖が顔を上げた。瞳に、ほんのかすかな光が宿る。
「届けて……くれるんですか」
「うんっ!」
そのとき、風がふっと通り抜け、拝殿のほうから紙の音がかすかに聞こえた。
ミタマがそっと立ち上がる。
「じゃあ、あなたの“またね”に、もうひとつの答えを探しに行きましょう」
社務所に戻ったモナカとミタマは、拝殿の前でふたたび棚を見上げていた。
並ぶ札の数は少なくない。けれど、そのほとんどは人のものだ。
あの妖が託した「ごめんなさい」の札だけが、どこか異質な存在のように静かに置かれていた。
「ねぇミタマ……モナカたち、ほんとうに届けられるかな」
ちゃぶ台の上に戻された札を見つめながら、モナカがぽつりとこぼす。
「もし、その子がもう忘れてたら……“またね”なんて、もうどうでもよくなってたら……」
モナカの言葉に、ミタマはふっと視線を棚に向けたまま応えた。
「……忘れることも、あるわ。でも、“またね”って言葉は、不思議なのよね」
「不思議?」
「ええ。たとえ言葉を忘れていても、心のどこかに残るもの。まるで、息を吸うように、思い出す瞬間が来る」
ミタマは棚の一角にふと目をとめた。
「……あら?」
奥のほう。紙の隙間に、何かが挟まっている。
「ミタマ?」
「ちょっと待って」
ミタマが棚に手を入れ、数枚の札を丁寧に避ける。
するとそこから、ひときわ古びた札が一枚、出てきた。
「これ……」
墨の香りはすでにうすれ、紙も角がまるくなっていた。
でもそこに書かれた文字は、まだしっかりと読めた。
”また会えたら嬉しいな”
つたない筆跡。線がところどころゆらぎ、墨の濃さにもムラがある。
明らかに子どもの字だ。
「これ……もしかして」
「ええ。たぶん、“あの子”が書いたものね」
ミタマが静かに札を見つめる。
「妖の正体に気づくことはなかったかもしれない。でも、離れたあともずっと、会いたいと思ってた。その証拠だわ」
「……モナカ、ちょっと泣きそう」
モナカは両手を胸に当てて、そっと笑った。
「なんだぁ、“またね”って、ほんとに魔法みたいだ」
「ええ。たとえ時間が経っても、気持ちが戻ってくる。……その想いがあったから、いまこの札が出てきたのよ」
ミタマが棚にもう一度、丁寧に札を戻す。
「ごめんなさい」の札の隣に、「また会えたら嬉しいな」の札が並ぶように。
風がひとすじ、境内を駆け抜けた。
ふたつの札が、かすかに重なり合うように揺れた。
「ねぇミタマ、このふたつ、会話してるみたい」
「きっとそうね。片方が、ようやく届いたのよ。“またね”への返事が」
モナカの表情が、ゆっくりと和らいでいく。
「だったら、モナカたちが橋渡しにならなきゃ! 妖さんの願い、ちゃんと届けようよ!」
「……もちろん。そのために、私たちはここにいるもの」
モナカの尾が弾むように揺れる。
陽の光が差し込み、棚の上で揺れる札が、そっとキラリと光を返した。
夕暮れの境内には、赤みを帯びた光が静かに差し込んでいた。
長く伸びた影の中、ひとりの老婦人が、神社の縁側にそっと腰を下ろしている。
手には杖。
その姿はどこか懐かしさを帯び、けれど穏やかだった。
モナカとミタマは、境内の端でその姿を見つけ、そっと視線を交わす。
そして。
鳥居の陰から、ひとりの女性が現れた。
透けるような白い髪。青みを帯びた着物。
その顔は、夕陽に照らされて、ほんのり赤らんで見える。
彼女の足は、震えていた。
一歩、また一歩と進むたびに、胸の奥が軋むように痛んだ。
老婦人は、ふと顔を上げる。
そこに、見慣れないようで、でもどこか懐かしい影が立っていた。
「……あら」
柔らかな声が漏れる。
妖は、その場で立ち止まった。
「…………っ」
口を開こうとして、言葉が出ない。
それでも、どうしても言わなくてはならない一言だけは、喉の奥にずっと残っていた。
「……ご、ごめんなさい……」
ようやく絞り出した声は、風に溶けてしまいそうなほど小さかった。
老婦人は目を細めて、そっと立ち上がる。
そして、迷うことなく、その腕を妖にまわして、抱きしめた。
妖の肩が震えた。
それは少しずつ、止まらない涙へと変わっていく。
ただ、泣いた。
音を立てて、子どものように、嗚咽がこぼれる。
老婦人はその背中をゆっくり撫でながら、ふふっと微笑んだ。
「……あの時ね、道に迷って大泣きしてた私を、貴女は抱きしめてくれたんですよ」
妖は、その言葉に顔を上げる。
でも、目は涙でにじんで何も見えなかった。
「貴女にも考えがあって、悩んで……迷って、今があるんだと思います」
その声はあたたかく、柔らかく、そして静かだった。
「迷うことは、悪いことじゃないって教えてくれたのは――他でもない、貴女なんですから」
涙があふれ、妖はただ、顔を覆って泣いた。
老婦人の手が、そっと妖を撫でる。
「……こうして、また、会えたんですから」
その言葉に、妖はついに崩れるように膝をつき、老婦人の胸に顔を埋めた。
「ごめんなさい……っ、ずっと……ずっと言えなくて……っ」
「うん、うん……大丈夫。もう、大丈夫ですよ。」
その瞬間、神社の木々の間を、ひとすじの風が吹き抜けた。
空はすこしだけ金色を帯び、ふたりの影が寄り添うように長く伸びた。
遠くから見守っていたモナカが、そっと涙をぬぐった。
「ミタマ……よかったぁ……」
“またね”の言葉が、嘘じゃなかった。
きっと、それだけで、今夜はじゅうぶんに奇跡だ。
日が暮れかけ、空がほんのり朱に染まるころ。
老婦人と妖は、言葉少なに並んで、縁側に腰かけていた。
何を語るでもなく、ただ静かに時間を分け合っていた。
やがて、妖はすっと立ち上がる。
「そろそろ、行きますね」
老婦人は頷いて、名残惜しそうに、けれどやさしい目で彼女を見つめる。
「またね、とは言いません。……また、来たくなったらでいいんですよ」
その言葉に、妖はふっと笑った。
その笑顔にはもう、あの“ごめんなさい”の影はなかった。
ミタマとモナカは、少し離れた木陰からそのやりとりを見届けていた。
ふたりが見えなくなったあと、モナカがぽつりとつぶやいた。
「“またね”って、やっぱり魔法のことばだね……」
ミタマは静かに頷き、棚に目を向けた。
そこには、あの日の「ごめんなさい」の札と、
ミタマが先ほど見つけて丁寧に整えた「また会えたら嬉しいな」の札が、並んで置かれていた。
風がそっと吹く。
棚の上で、二枚の札がかすかに揺れ、角がふっと重なり合った。
「ねぇミタマ、あれって……もう、“叶った”ってことになるのかな」
「ええ、そうね。きっと、ふたりの中ではもう……」
ミタマの声が、やさしく風に溶ける。
「“またね”の先にある、“いま”に届いたんだと思うわ」
モナカはしばらく札を見つめたあと、そっと笑った。
風がふたりの髪をなで、木々の隙間から星が顔を出す。
もう泣くことはないけれど、胸の奥はあたたかな涙で満たされていた。
「またね」
それは約束でもなく、願いでもなく。
たった一言で、ふたつの想いを結ぶ、小さな奇跡の合図だった。




