82.もうこれで、何度目の朝
朝、目覚めたラシェルは寝ぼけ眼に見慣れない天井を仰ぎながら、ここが自分のベッドでないことに気付く。
けれどどこか既視感も覚え、目だけで周りを見渡してディルクの部屋だと認識した。
また私、寝落ちちゃったのねと、起き抜けのやるせなさに手の甲を額へ押し当てる。
そして、チラと隣に目を遣って、前回との違いにも気が付いた。
キングサイズのディルクのベッドに、彼と二人で横になっていた。
少しずつ、記憶が戻ってくる。
昨日はディルクのクラスが昼に健診だったため、勉強会が夜に回されたんだった。そこでまた、夜が弱い自分は眠りこけてしまって……。
以前にも、ディルクの部屋でつい眠ってしまい、彼のベッドで朝を迎えたことがあった。あの時はまだ太っていたから、一人でベッドを占領してしまったんだっけと笑みが零れる。
「ん……ぅん……」
隣でディルクが身じろぎした。ベッドが軋んで、僅かに揺れる。
改めて彼の体温をすぐ傍で感じられる距離にいることを実感し、それが何とも生々しくて、これがダイエットの功名かと、ぐっと右手で小さくガッツポーズした。
徐にラシェルも、寝返りを打つふりをしてディルクと向き合う。
パジャマから覗く鎖骨が色っぽくて、ドキリとした。
枕元に添えられた、女性とは違う少しごつごつした男性らしい手。けれど細くて長い、綺麗な指をしていた。短く切られた形のいい爪も好き。この手で触れられたらと想像しただけで、胸の奥に温かい泉が湧きあがるような情感に酩酊を覚える。
『スキ』
唇だけで、溢れる気持ちを象った。
目を瞑っていると年齢よりずっと幼く見える寝顔も、細く紡がれる寝息も、その薄い唇も、全部ぜんぶ好き、と胸の中で繰り返す。
もう、どうしようもなくディルクのことが好きになっていた。
後戻りなんて出来ない。
シナリオを無視したリサの早い編入学に心乱されたけれど、そもそも以前、ディルクと交わした婚約で彼を束縛しないと宣言したのは自分自身だ。それはつまり、これからの未来、リサだけでなく他に恋敵が現れても、ラシェルはディルクに対して何も言えないということ。
人道に基づく発言だったとはいえ、かつての自分を心底恨めしく思った。
前回は、何も致してないのに朝帰りなんて、他の人に知れたら恥ずかしいと隠れて自室へ逃げ帰ったのに、今は寧ろ、そんな噂が広まって定着すればいいとさえ考えている。
将来ディルクに誰か好きな人が出来たとして、その人と彼が結ばれる時が来てしまったら――――……。
その時は、相手の女性がこの噂を耳にして、苦しめばいいと思った。
火のないところに煙は立たないと、嫉妬に駆られたらいい。
劇的な自分の変わりように、ラシェルは戸惑いを覚えるも、これが本心だと開き直る。
恋を知って、自分は意地悪な女になった。
心の奥底に灯った黒い炎を感じて、ラシェルは思わずそれを隠すように、胸に両手を添える。
何ならいっそ、今から服を脱いで、ディルクのシャツも剥いてしまって、目覚めた彼を涙目で責め立てたら既成事実として一回ヤッたことにならないだろうかとの企みまで閃いた。
そうでもしないと、本当に自分とディルクは紙の上だけの関係になってしまう。
そんな焦燥感に煽られ、血迷った妄想が膨らんだ。
何か、少しでいい。嘘でもいい。爪痕を残したいと思った。
意を決したところでディルクに背を向けると、ラシェルは自分のナイトウェアに手を掛ける。ボタンを二つ外したところで「何やってる」と頭上から声を掛けられた。
見上げると、寝起きに不機嫌を足して二乗したような顔とぶつかる。
はっと我に返り、妄想が過ぎたと反省した。
「お、おはよう、ディルク。えっと……暑いなーと、思って……」
とぼけたふりして顔だけディルクの方へ向け、律義に朝の挨拶をするラシェルに対し、やや訝しげな目を向けるものの一応おはようと彼も返す。
「俺は、ちょっと肌寒い……」
言いながらラシェルの背後で身じろぎして、ディルクは二人で共有しているブランケットに身体を潜り込ませた。
ラシェルが暑いと言ったのは苦し紛れの口から出任せで、実際は彼の言う通り少々肌寒い。ラシェルも、掛けてもらっている薄手のブランケットがなければ風邪をひいていたかも、と思う。
季節は小暑を迎えたというのに、今年は夏の訪れが遅れているのか朝夕に冷え込む日が多かった。
「ひゃ……っ」
不意に、背後から腕を回されてディルクに抱きしめられた。
「なっ……ディルク、また寝ぼけてるの?」
「ん……こうしてると温かい……」
近頃はめっきり鳴りを潜めていたけれど、彼の専売特許、寝起きの悪さが久しぶりに出たかと思いつつ、けれど突然のことにラシェルは慌てた。恥ずかしさのあまり、彼の腕から逃れようともがくも逆に強く囚われ、猫が甘えるようにスリスリと背中へ頭を擦り付けられる。
ヤバい。何だこの可愛い生き物。反則だよ、反則。
「ぶ、ブランケット、もう一枚持ってこようか……?」
「ぅうん……いい」猫撫で声で縋り付かれ、首筋に、微かに彼の吐息がかかる。「じき起きるから。代わりにもうちょっと、こうさせて……」
さらに腕の力を強くされ、ぎゅっと包み込まれるように抱かれた。
ふっ、ふぉおぉぉぉぉぉおっ…………!
き、きゅんきゅんするっ。……きゅん死する!
ドキドキを通り越してバクバクと鳴り出した自分の鼓動が、彼に聞こえてなければいいと、ラシェルはぎゅっと目を瞑る。
あーもぅ、これなら毎晩勉強会して毎日朝帰りしたい、などとバカなことまで考える始末。
ディルクとの添い寝が叶ったことに、ダイエットして良かったとラシェルは再び沸き起こる歓喜を噛みしめていたら抱きしめる彼の手が緩められ、そのまま脇腹を撫でられた。
「ひゃ……くすぐった……あ、あはっ」
まだ寝ぼけているのか。
それとも頭が冴えてきて、寝起きの悪さを見られた照れ隠しにラシェルを揶揄いにきたのか。
「あ、待てっ」
ごろんと寝返りを打って身を翻すラシェルに、ディルクが半身を起こす。
後者だったようで、悪戯っぽい笑みを浮かべたディルクと目が合った。
「やーだ!」
枕を彼の頭めがけて投げる。
やったな、と顔の前でそれをキャッチした彼が反撃とばかりに襲い掛かってきた。
広いベッドの上で、まるで小さな子どもがするような攻防戦が繰り広げられる。はしゃいで二人、転げまわって逃げ回る。
「捕まえたッ」
やはりと言うか当然と言うか、程なくという間もなく、ディルクに手を捕らえられて勢いそのままにマウントを取られる。
寝起きで上手く体を動かせないのと揺れるベッドになかなか自由が利かず、朝一にしてはお互い結構な運動になった。
はぁ、はぁと二人、息を切らせて見つめ合う。
「はぁ、はぁ……」
「ハァ、ハァ……」
臨戦態勢といった雰囲気で最初は睨み合っていたものの、上がる息に、段々と妙な気分になってきた。
胸の鼓動が自然と高まる。
プロレスのつもりでじゃれ合っていたが、ふと我に返れば、ベッドに仰向けで寝転ぶラシェルの上に、覆い被さるような形でディルクがのし掛かっている体勢だ。
「はぁ、はぁ……」
目が、離せない。
「ハァ、ハァ……」
見つめ合う視線が絡み合い、ねっとりと捏ね上げられるように縺れ合って、混ざり合って、蕩けていくようだった。
胸打つ拍動が、荒い呼吸が、次第に重なっていく。
「はぁ、はぁ……」
薄っすらと汗が滲む肌、湿気た吐息。
「ハァ、ハァ……」
熱を帯びた息遣いに肩を上下させるディルクが、やけに色っぽくラシェルの瞳に映った。
何かが起きるかもしれない。
そんなことを予感させる緩慢な動きで、ディルクがラシェルへと手を伸ばしかけた刹那、
「ラシェル様、そろそろ朝の支度の時間です」
ニーナの声がノックと共に、扉の向こう側から響いた。
ハッとして二人、思わず距離をとる。
「どうかなさいました?」
怪訝な声色で扉越しに尋ねてくるニーナに、「何でもないわ」と無理矢理ラシェルは冷静さを取り戻しつつ答える。
「悪い、ふざけすぎた」
手、痛くなかったかと聞くディルクに、ううんと首を横に振って、「私も。やりすぎちゃった」と苦笑して返す。
起き上がり、慌ててベッドから降りようとしたら足が縺れ、ディルクに助け上げられた……ところで、ナイトウェアのボタンを外していたことに気づき、咄嗟に胸元を隠す。二つしか開けていなかったが、あわやポロリかというほどガッツリ谷間が覗いていた。ボタンを留めるのをすっかり忘れていたとはいえ、痴女のような格好でいた自分が猛烈に恥ずかしく、思わず穴があったら入りたい気持ちになる。
いや実際、寝込みを襲われたように見せかけようとはしてたけど。
そりゃあ、あわよくば既成事実作りたかったけども。
前世、そして今世を通じて非モテ女子という人生しか経験してない自分には、これが限界ということかと肩を落とす。
羞恥と落胆とでいっぱいいっぱいになった頭を取り敢えず冷ますため、ラシェルは足早にディルクの部屋を後にしてニーナの元へと駆けた。




