第27話:『執着』
劇場が崩落する轟音は、地下通路の分厚い石壁に遮られ、低く重い地鳴りへと変わっていった。
シビュラに引かれるまま、アイリスは救い出した少年を抱え、闇の迷宮を駆ける。背後で響き続ける振動は、アイリスの鋭敏な耳には、単なる建物の壊れる音とは思えなかった。
それは、黄金という名の虚飾で塗り固められたフェルゼンの矜持が剥がれ落ち、その下にある醜悪な真実が露呈していく断末魔のようだった。
どれほどの時間を歩いただろうか。湿った土の匂いが、次第に乾燥した埃と古紙の匂いへと変わっていく。
「……着いたわ。ここなら、あの鼻持ちならないギルドの犬どもも、すぐには嗅ぎつけられないはずよ」
シビュラが古びた鉄の扉を開ける。そこは、華やかなフェルゼンの上層とは対極にある、通称「胃袋」と呼ばれる下層階の一角だった。廃屋を改装したというそのアトリエには、贅沢な装飾品は何一つない。あるのは、乱雑に積まれた古い文献と、鑑定を待つ正体不明の骨董品、そして微かなインクの残り香だけだ。
「館はもう安全じゃないわね。もっとも、私としてはあそこに置いてきたお宝たちが、いくつか無事であってくれればそれでいいんだけどさ」
シビュラは皮肉げに肩をすくめると、投げ出すように椅子に身を預けた。アイリスは少年の体をゆっくりと床に横たえ、自らの膝を折ってその拍動に意識を集中させた。
劇場での喧騒を切り裂いた「始祖の剣」の静寂。あの絶対的な無音の中に晒されれば、いかなる狂気も一時的に凪へと還るはずだった。そうであるとアイリス自身も信じてはいた。だが、少年の喉から聞こえてくるのは、依然として変わらぬ、そして絶望的なまでに歪な旋律だった。
トクン、ギィ、トクン……。
それは心臓の鼓動に、何らかの駆動音が混ざり合ったような、生物とは思えぬ不自然な律動。人間としての感情が生み出すゆらぎは完全に消え、ただ「鍵」として機能し続けるためだけに強制された、機械じかけの命の音。
アイリスは微かに声を震わせ、背負っていた「始祖の剣」の鞘を少年の喉元へとそっと添えた。 かつてエンド・ロアで、死を乞う苦しみを見届けた時のように。この剣が持つ「終わりの理」で、少年の内側に巣食う澱んだ振動を吸い取ることができればと、祈るような思いで意識を研ぎ澄ませた。始祖の剣は、概念を断つ刃だ。魂を縛る未練や、再生し続ける肉体の呪縛を解き、あるべき安息へと導くための光。
だが――。
鞘を通じて伝わってきたのは、冷たい無反応だった。剣は、少年の喉に刻まれた不協和音を、何一つ吸い取ろうとはしなかった。
「……なぜ? なぜ何も起きてくれないのですか……」
アイリスの指先が、銀の鞘の上で白くなるほど強張る。 理由を察したのは、隣でその様子を冷徹に見つめていたシビュラだった。
「無駄よ、アイリス。あなたのその不思議な剣は、『救済』とやらにはなるのかもしれないけれど、この街の『物理的な呪い』には届かないわ」
シビュラは立ち上がり、少年の喉元を検分するように見下ろした。
「この子の喉に刻まれているのは、死への恐怖といった精神的な未練じゃない。ギルドの技術者たちが狂気的なまでの『生への執着』を具現化した、物理的な改造そのものなのよ。薬物で脳を焼き、術式で声帯を機械に変え、死ぬことさえ許されぬよう肉体を作り変えられた……。それは概念としての死の不在じゃない。ただの、壊れることを禁じられた道具なの」
アイリスは、思わず衝撃に目を見開いた。
だが、真っ白に澄み切った瞳孔には何も映らない。
始祖の剣がもたらす「終わり」は、魂が望む安息である。
しかし、この少年に施されたのは、魂の有無など無関係に「生きる機能」を強制する非道。救済という名の消滅さえも、この街の技術が作り上げた「生の檻」を突破することはできなかった。
「……私の剣でも、この子の苦しみを終わらせることは、できないというのですか?」
「恐らくね。この子を救いたければ、殺すか、あるいはこの街のシステムそのものを書き換えるしかない。今のあなたの力は、フェルゼンが数百年かけて積み上げた『生という名の汚濁』の前では、あまりにも清廉すぎて、届きもしないのよ」
シビュラの言葉は、真冬の雨のように冷たく、アイリスの心に突き刺さった。
救い出したはずだった。だが、自分はただ、檻から別の檻へと少年を移しただけに過ぎなかったのではないか。
少年の喉からは、弱々しく、けれど拒絶しようのないほど明確に、生きたいという本能だけが発する不協和音が響き続けている。
「私としてはいっそのこと楽にしてあげることが、「この子」にとっては救いだと思うけど」
「そんなこと……そんなこと、出来ません……」
アイリスの声は、暗いアトリエの隅で震えていた。彼女がエヴァリアを離れたのは、誰かを殺すためではない。
理から外れ、終わりを失った者に「正しき安息」という選択肢を提示するためだったはずだ。だが、シビュラが突きつけたのは、死という選択さえもがこの少年にとっては「機能の停止」という無機質な結末に過ぎないという、冷酷な現実だった。
エンド・ロアでは死を望む人たちを見た。彼らはそれを最後の救済と信じていた。難しいが、本人が願うのであればその気持ちを汲むことに努める必要はあるだろう。しかし、この子は違う。まだ「死にたい」とも聞こえない「生きたい」という鼓動を感じてならない。
「優しさだけでは、何も救えないわよ、アイリス」
シビュラは冷淡に告げると、懐から先ほど劇場で回収した、血の付着した魔石チップを取り出した。彼女の細い指先が、チップの表面を愛おしむように撫でる。
「……シビュラさん。あなたは、なぜこの『図書館』に執着するのですか?」
アイリスは、少年の小さな手を握りしめたまま問いかけた。
その真っ白な瞳には何も映らないが、彼女の意識はシビュラの不可解な熱量に向けられていた。
「以前、私を連れて行ってくださった場所も、地下の書庫でした。あの時、あなたはあの場所も「図書館」だと仰っていた。あそこに並んだ記録には興味を示さず、ただ私という『品物』を面白がっていただけだったはずです。それなのに、なぜ今は……」
アイリスの脳裏には、天秤が開き訪れたあのカビ臭い地下書庫の記憶があった。あの場所でシビュラは、ギルドが管理する歴史を「退屈な抜け殻」と切り捨てていたのだ。シビュラは愉快そうに、喉の奥で低く笑った。
「アイリス、あんなカビ臭い『《《表の書庫》》』と一緒にしないで。あそこはギルドが『見せても良い』と判断した、検閲済みの知識の墓場よ。貴方みたいな余所者に見られたらまずいと本気で思えば。あんな番人も用意せずに埋め尽くせば良いし。街を封鎖して大競売も中止にしちゃうはずでしょう?偽物の歴史、偽物の安寧……あんなものを鑑定したところで、私の天秤は微動だにしないわ。」
シビュラは立ち上がり、少年の喉元に機械を向けながら言葉を継いだ。
その瞳には、救済を願う聖女の輝きではなく、禁断の秘宝を目前にした蒐集家の狂気が宿っている。きっと私の魂は秘匿という誘惑に釣られて、その魂さえも金の様に「価値」の1つに吸い上げられたのではないだろうか、とさえ思えて仕方ない。
「けれど、アイリス……あなたという『鑑定不能の異物』が、私の常識を壊してくれた。あなたの剣が振るわれた瞬間、世界から音が消え、フェルゼンの誇る『黄金の理』が無力化した……。あの光景を見て、鑑定士として黙っていられると思う? この目に狂いはなかったの。私が求めているのは、ギルドが数百年にわたって隠蔽し、塗り潰してきた『本物の歴史』。このチップと、この子の喉に刻まれた不協和音の先にある、《《禁忌の図書館》》よ」
シビュラはアイリスに歩み寄り、その頬を冷たい指先でなぞった。
「これは正義なんて安いものじゃないわ。ギルドの闇を暴いて世直しをしようなんて、そんな殊勝な気はさらさらない。……これは、私だけの最高の鑑定なのよ。誰もが価値を決められなかった『世界の終わらせ方』に、私が、私自身の基準で最高値を付けてやる。それが、ギルドという巨大な嘘に対する、鑑定士としての最大の反逆だと思わない?」
アイリスは、シビュラの指から伝わる強欲なまでの熱量に圧倒された。
二人の目的は、重なっているようでいて、決定的に異なっていた。
アイリスは少年の「魂」を救いたいと願い、シビュラは少年の持つ「真実」を暴き、その価値を独占したいと願う。アイリスは彼女がどこまでも打算的で、どこか勘付きつつも利用されたことへの怒りは不思議と湧いてこなかった。
もし彼女が普通の人間なら、その表情口元1つ1つに感情を揺さぶられただろう。
エヴァリアで生まれ育った彼女は心の奥の色の脈を感じ取ることに長けている。
アイリスは、故に「シビュラが一貫して《《嘘はついていない》》」ということだけは確かに理解ができたのだ。
「……行きましょう、シビュラさん。私は、あなたの『鑑定』には興味はありません。けれど、この子の声がこれ以上『道具』として消費されることは……私が、私の剣が許しません」
「ふふ、いいわ。契約続行ね」
シビュラがアトリエの奥から引きずり出してきた機械が、低い唸りを上げ、少年の喉に近い空気を拾い始める。アトリエ内に、少年の歪な律動が大きく増幅されて響き渡った。
トクン、ギィ、トクン……。
その音を聴きながら、アイリスは少年の胸元に耳を寄せた。シビュラが「物理的な改造」と言い切った鋼の檻の隙間から、アイリスの研ぎ澄まされた聴覚だけが、ある「微かな音」を捉えていた。それは、誰にも届かないほど細い、けれどこの世の何よりも必死な、心臓の震え。
(……聴こえる。この子は、まだ消えていない)
始祖の剣は、この物理的な呪縛を断ち切ることはできなかった。だが、アイリスは悟る。自分の役目は、ただ剣を振るうことだけではないはずだ。この少年の「本当の音」が、誰にも、そして彼自身にさえ聴こえなくなってしまったとしても、自分だけはそれを聴き続けなければならない。
少年の細い指が、アイリスの服の裾をぎゅっと掴んだ。
「……解析が済んだわよ」
シビュラが吐き出したデータシートを満足げに眺める。
「図書館の座標、そして門を開くための『歌』の波形……すべて揃った。場所はここからさらに北、フェルゼンの繁栄を物理的に支える巨大な地下貯蔵庫の最奥よ。かつてこの街が、溢れ出した『不都合な死』をゴミのように埋め立てて作った、忘却の墓標……」
アイリスは少年を抱きかかえ、ゆっくりと立ち上がった。 彼女の心には、先ほどまでの迷いとは違う、静かな決意が灯っていた。この街のシステムがどれほど強固で、残酷であっても、彼女は止まるわけにはいかない。
「行きましょう。この子の声が、これ以上『鍵』として消費される前に」
完全な闇の中、アイリスの銀髪だけが、地下へと続く扉の向こう側をかすかに照らしているようだった。




