存在しない少年を選ぶ
夏の気配が、学寮に忍び寄っていた。桜は完全に散り、青葉がその色を濃くしていく。透歌は、旧書庫の前に立っていた。胸の奥が不吉にざわつく。
(ここは……)
前世の記憶では、ここで大きな事件など起きないはずだった。
少なくとも――『楼來宵』という名前は、ゲームの中に存在しなかったのだから。それなのに、宵が禁書区域に侵入したという報せが透歌に届いた。
(おかしいわ。元の脚本には、そんな分岐はない)
重い扉を開けると、書架の間にいつも通りの姿勢で宵が立っていた。だが、その足元には王家封印付きの文書が落ちている。
「楼來。説明しろ」
朝霧千隼が厳しい声で問い詰める。その背後では白鷺萌乃が
「禁書……?」
と小さく息を呑み、可哀想な少女の顔を作っていた。
「禁書区域への無断侵入は重大な規律違反だ。最悪、学寮からの追放もあり得る」
千隼の声が響く。透歌の指先が冷たくなる。
(追放――)
十年後の断罪の場に、宵はいない。そもそも彼はゲームに存在しなかった。つまり、この世界で彼がここで排除されても、脚本は『修正されるだけ』なのだ。
(世界に、消されるのね)
宵は答えない。その視線は、どうなっても構わないと諦めているかのように静かだった。
(あなたは……自分を重要だと思っていないのね)
透歌は一歩、前へ出た。
「その文書の閲覧を命じたのは、わたくしです」
静寂。千隼が驚愕に目を見開く。
「透歌?」
「王政研究の一環として、確認を命じました」
嘘ではない。だが真実でもない。宵の瞳が、初めて大きく揺れた。萌乃がすかさず言葉を挟む。
「でも……禁書ですよ……?」
「ええ」
透歌は萌乃を冷たく見据える。
「王家の未来予測記録。十年後の裁定一覧ですわ」
空気が凍る。千隼が低く問う。
「なぜ、それを」
「公爵家として、将来の国家情勢を知る義務がございます。責任はすべて、主であるわたくしに」
理屈は通る。しかし無断である以上、王家への不敬になり得る軽率な行為だ。千隼の顔が険しくなる。
「……本件は王家預かりとする。正式な裁定は追って下す」
公爵家の力があれば軽い処分で済む可能性はある。だが、透歌の名に『禁書閲覧未遂』の記録が残る。
それは、十年後の断罪記録に加点される、新たな罪のフラグだった。
夜の中庭。風が青葉を激しく揺らし、月明かりが石畳に白い斑模様を描いていた。宵がぽつりと言った。
「なぜ、庇われたのですか」
声音はいつも通り冷静。だが、その奥にある響きはわずかに硬く強張っていた。透歌は静かに月を見上げる。
「あなたは、元の物語にいなかった」
沈黙。夜の静寂が二人の間を埋める。
「前世の記憶に、楼來宵という名前はないのよ」
宵はそれを否定しなかった。ただじっと、透歌の言葉の先を待っている。
「十年後の断罪記録にも、あなたの名前はどこにもない」
透歌は一歩、彼に向かって近づいた。
「つまり、あなたはここで世界から排除されても、『物語は何事もなかったかのように成立する』存在なのよ」
宵の紫がかった瞳が、ほんのわずかに、しかし決定的に揺れ動いた。
「それを、すべて理解した上で……私を庇われたのですか」
「ええ、そうよ」
透歌は振り返り、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「だって、あなたが消えてしまったら……わたくしのこれからの人生、きっと退屈でしょう?」
わざと冗談めかしている。だが、そんな仮面の下にある本音は別だった。
「十年後、わたくしは断罪される」
透歌は静かに、自らの未来を告げた。
「それは、前世の記憶から知っているわ」「……逃げないのですか」
透歌は小さく首を振る。
「悪役令嬢として生きるなら、いつかあの断罪台に立つ覚悟が必要ですもの」
それが、この世界の前提。断罪という結末があるからこそ、今の物語は成立している。
「でもね」
透歌は真っ直ぐに宵を見つめた。
「あなたは、その物語の中に最初からいなかった」
その言葉は、何よりも重い質量を持っていた。
「だから、わたくしはあなたを守るの。王太子である千隼も、聖女である萌乃も、今のわたくしにとっては優先すべき対象ではないわ」
静かに、しかし断固とした意志を込めて。
「わたくしが守るのは、あなたよ」
長い、果てしのないような沈黙が流れた。やがて、宵が自嘲気味に呟く。
「……私は、この世界にとって不要な存在です」
「違うわ」
透歌は即座に否定した。
「不要な存在なら、わたくしの前にこうして現れるはずがないもの」
風が強く吹き抜け、頭上の青葉がざわざわと音を立てる。宵は静かに目を伏せた。
「……あなたが断罪される未来は、まだ、完全には確定していない」
透歌は目を細める。
「未来を見たの?」
「断片を、少しだけ」
彼は元のゲームにはいなかったイレギュラー。だからこそ、この世界の強固な『歪み』を、誰よりも正確に観測できるのだ。
「十年という歳月は長い」
宵が顔を上げ、透歌を見つめる。
「その間に、いくらでも書き換えられる」
透歌は小さく、愛おしそうに笑った。
「ええ。だからこそ、わたくしは今の状況を受け入れるの」
断罪は十年後。今この瞬間ではない。最悪の覚悟は常に抱いている。だが、決して諦めてなどいない。
「わたくしがこの手で、あなたをこの世界に繋ぎ止めて固定してあげるわ」
月明かりの下。二人の距離は、出会ってから今までで一番近かった。
「十年後の断罪台に、あなたの姿はない」
透歌は言葉を続ける。
「でも、その時にわたくしがすべてを覆して笑っているなら――」
一瞬の沈黙。
「わたくしの隣に立っているのは、きっとあなたでしょう?」
宵の呼吸が、わずかに止まった。世界の因果をただ記録するだけの観測者ではない。元の物語に居場所のなかった、ただの孤独な少年。今、彼は初めて。
この世界で生きるその『存在』を、誰かに必要とされ、選ばれたのだ。そして、十年後の断罪は――。未だ完成しない、不確かな白紙のまま、二人の前に横たわっていた。




