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終点

 強制イベントは、前触れなく来る。その日は、酷く晴れていた。突き抜けるような初夏の青空。


 みずみずしい緑に囲まれた中庭には、真っ白な長卓が美しく並べられている。王族が主催する、新入生たちの親睦茶会。


(ここは……本来なら、ヒロインの好感度急上昇イベントの場面ね)


 白鷺萌乃が中心の席に座り、朝霧千隼がごく自然にその隣へと滑り込む。偶然の会話から、偶然の笑顔が生まれる王道のイベント。


 婚約者候補であるはずの透歌は、そこから少し離れた外縁の席へと露骨に配置されていた。それが、この世界のデフォルトの構図。


 透歌は何もしていない。本当に、何も。ただ静かに座っているだけだった。だが、周囲の空気は勝手に彼女を孤立させていく。


「透歌様、先日の禁書の一件……」

「やはり、少々危険な思想をお持ちなのでは……」

「王家への不敬に問われてもおかしくないとか……」


 背後から、じわりじわりと評価を下げる囁きが生まれる。前回の事件で付加された罪のフラグが、世界に自動処理されて悪評へと育っていた。萌乃が、これ以上ないほど心配そうな顔で透歌を見つめる。


「透歌様……大丈夫ですか?そんなに思い詰めないでくださいね……?」


 どこまでも無垢な声。それと同時に、千隼が表情を硬くして告げた。


「無理はするな、透歌。……反省しているなら、今は静かにしているといい」


 婚約者としての距離が、目に見えて微妙に開いていく。透歌は一切の介入も修正もしなかった。ただ静かに紅茶を口に運び、世界の動きを冷徹に観測し続ける。


 すると、その瞬間だった。突如として、中庭に不自然なほど強い突風が吹き抜けた。テーブルクロスが激しく揺れ、並べられたティーカップが大きく傾く。


 ガシャーン、と鋭い音を立てて、萌乃のカップが石畳に落ちて砕け散った。短い悲鳴。そして――。砕けた陶器の破片が、萌乃の白く細い指先に触れた。ぷつりと、赤い鮮血の線が走る。


「……あ」


 萌乃の小さな声。血の量はほんの少量に過ぎない。だが、中庭の空気が一瞬にして凍りついた。前回の温室でのナイフ事件によって、萌乃の負傷に対して過敏になっていた千隼が、弾かれたように立ち上がる。


「誰だ!誰がやった!」


 その場にいた全員の視線が、一斉に、吸い寄せられるように透歌へと向いた。席の距離。位置。角度。物理的に、透歌が萌乃に最も近い場所に座っていたからだ。


(なるほど。前回の失敗を踏まえて、世界は随分と学習したみたいね)


 透歌は冷静に理解した。これはシステムが強引にねじ込んできた悪役令嬢による陰湿な嫌がらせイベントだ。条件は完全に揃えられている。


 彼女が何もしなくても、何もしていなくても、物語の補正が発動すれば「透歌がやった」ことにされてしまう。萌乃が涙目で、震えた声を出した。


「ち、違います……!透歌様は、そんな……」


 口を開いての否定。だが、その声はあまりにも弱々しい。周囲の貴族たちの目は、すでに確信に近い疑念に染まっていた。


「小紫。……説明を求めたい」


 千隼が低く、拒絶の混じった声音で透歌を凝視する。ここで、本来の悪役令嬢なら逆上する。高慢に無実を叫び、周囲を罵倒し、自滅していく。透歌は、ゆっくりと席から立ち上がった。


 どこまでも静かに。そして――。クス、と優雅に、美しく笑ってみせた。


「――お見事ですわ」


 その場にそぐわない一言に、中庭の空気が完全に停止する。


「何の話だ、透歌」


 千隼の眉が、不快そうに深く寄せられる。


「強制イベントですもの。とても素晴らしい脚本だと思っただけですわ」


 誰にも意味の通じない言葉。だが、背後に控える宵だけが、その意図を察してわずかに目を細めた。


「風向きは、あちらの西から東へ。クロスが激しく揺れた方向も完全に一致しておりますわ。わたくしのこの位置からでは、物理的に萌乃様のカップに干渉して落とすことなど、到底不可能です」


 透歌が淡々と事実を告げると、宵が待機位置から静かに一歩前へと出た。


「さらに補足をいたします」


 宵の声は、断罪の鎖を断ち切る鋭い刃のように冷徹だった。


「先ほど白鷺様が風に驚き、カップを持ち替えようとした際、指先が滑られたのをこの目で確認しております。故意ではございません。ただの、突発的な事故にございます」


 萌乃がはっとしたように息を呑む。


「え……あ、わたし……」

「ただの事故。それ以上でも、それ以下でもありません」


 宵の冷静な声が響き渡る。長い沈黙。千隼は萌乃の手元と、床に散らばった破片の角度を凝視した。確かに、風の向きと床の散らばり方を重ね合わせれば、透歌の位置からではどうやっても不自然だ。


 王太子の中で、そして周囲の人間の中で、世界が植え付けようとした疑念が大きく揺らぐ。ヒロインを勝たせようとする物語の補正が、論理の前に急速に弱まっていく。


(崩れたわね)


 透歌は確信した。世界が用意した強制イベントが、完遂しなかった。世界は一瞬、次の展開を見失って迷うように静まり返る。萌乃が小さく、消え入りそうな声で呟いた。


「ご、ごめんなさい……。わたし、風にびっくりして、ぼんやりしてしまって……」


 そこには悪意などない。本当にただの事故。だが、悪役令嬢を断罪するための芽は、確かにそこに存在していたのだ。


 それを、二人の手で完全にへし折った。透歌は完璧な公爵令嬢の所作で、深く、優雅に一礼する。


「白鷺様、お怪我が大したことなく、ご無事で何よりでしたわ」


 非の打ち所がない、あまりにも美しい淑女の振る舞い。観測終了。世界は静かに、狂わされた因果の再計算を始める。茶会は何事もなかったかのように再開された。


 だが、流れる空気はこれまでとは決定的に違っていた。透歌を見つめる周囲の視線には、かつての蔑みではなく、理不尽な状況すら一瞬で支配してみせる彼女への、底知れない恐れが混じり始めていた。


「透歌様」


 茶会の喧騒から離れた静かな渡り廊下で、宵が声を潜めて言った。


「補正が、明確に動きました」

「そして、見事に崩れたわ」


 透歌はふと足を止め、初夏の濃い緑が揺れる中庭を振り返る。


「観測は終わりよ」

「この世界は、選択肢で動く」

「ええ、そうね」

「ですが、決して絶対ではありません」


 透歌は隣に並ぶ宵の横顔を見つめた。


「あなたというイレギュラーが存在するだけで、世界の因果は歪むのよ」


 宵は静かに、自らの存在の罪深さを噛み締めるように目を伏せる。


「……透歌様がそうして強制力に介入すれば、いつか物語そのものが完全に壊れます」


 透歌は、くすりと妖艶に微笑んだ。


「壊すのではないわ、宵」


 彼に向かって、一歩、距離を縮める。


「これは、編み直すのよ。わたくしたちの都合の良い形にね」


 破滅の断罪は、十年後。その未来は未だ消えてはいない。だが、今日、初めて。透歌は確信を伴って理解した。未来は決して固定された線ではない。


 世界の強固な補正はある。だが、それを正面から打ち破る突破口もまた、確かに存在するのだ。


「宵」

「はい、透歌様」

「ただ怯えて見守るだけの観測は、今日でもう終わりよ」


 彼女の美しい瞳が、夕闇の迫る夜の帳の中で鋭く、爛々と光を放つ。


「――次は、こちらから仕掛ける『実験』の時間よ」


 その果敢な宣戦布告に、元観測者であった少年の口元が、かつてないほど愉悦に歪んだ。「……御意のままに。最高の最適解をお見せしましょう」

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