桜舞って、また出会って
それは、歴史の教科書にも載らない、遠い遠い時代の果てのお話。
美しい元公爵令嬢と補佐官が添い遂げた。
かつて世界を揺るがした「物語」が終わりを告げた後、北の果ての豊かな地へと向かわせた人がいた。
一人は、自ら「悪役」という名の呪縛を投げ捨てた元公爵令嬢。もう一人は、観測者という役割を捨て、ただ一人の女性への忠誠を誓った公爵家付きの補佐官。
厳しい冬を越え、命が芽吹く北の地で、彼らは手を取り合って生きた。令嬢は聡明な知恵で領民を導き、補佐官はその身を挺して彼女と土地を守り抜いた。
彼らがその生涯を終えるとき、その瞳に映っていたのは、仕組まれた破滅ではなく、愛する人と共に築き上げた穏やかな黄金色の夕景だったという。
——そんな記憶が、ふと夢の淵で揺らめいた。
「んー……っ!」
枕元で鳴り響くスマホの軽やかなアラーム音。その振動が、深い眠りの底に沈んでいた意識を現実へと引き戻す。
小紫透歌は、シーツの柔らかな感触を楽しみながら、細い指先で画面をタップした。音楽が止まり、静寂が戻った部屋に、窓から差し込む春の光が満ちている。
「……いい朝」
透歌はベッドの上で小さく背伸びをした。
鏡に映る自分は、黎明高校の新しい制服に身を包んでいる。かつての豪奢な着物ではない。けれど、この動きやすいブレザーも、今の自分にはとても誇らしく思えた。
私には、前世の記憶がある。
乙女ゲームのような「物語」の中で、私は傲慢な悪役令嬢として破滅する運命だった。けれど私は、それを塗り替えた。自分の手で、自分の足で、幸せを掴み取ったのだ。
「行ってきまーす!」
軽やかな声で玄関を飛び出す。
さらさらと春の風が、桜の花びらを連れて頬を撫でていく。駅へと向かう道すがら、透歌は少し背伸びをしたいような、誇らしい気持ちで胸を弾ませていた。
「透歌ー!おはよー!今日から高校生だよ、信じられる?私、もう緊張で心臓が出そう!」
駅の改札前で待っていたのは、幼馴染の桜音だった。
彼女には前世の記憶がない。
けれど、その明るい声や屈託のない笑顔は、かつて私を支えてくれたあの少女そのものだ。近所に住んでいる未遙や紡も、今はごく普通の平穏な日常を謳歌している。
「桜音、おはよう。新生活なんだから、もっと落ち着きなさいな」
「むー、透歌は相変わらず冷静だなぁ。あ!そうだ、今日うちのお店来ない?新作のケーキ作ったんだよ。透歌には一番に食べてほしいって!」
「行く。桜音のところのケーキ、本当に大好きなんだもの」
前世から変わらない砂糖と幸福の香りがする幸せ。そんな何気ない約束が、今の透歌には何よりの宝物だった。
電車に揺られている間、桜音は楽しそうにスマホのニュース画面を見せてくる。
「ねえ見て!天才少年の星牙城蒼空くん、史上最年少でノーベル賞だって。次元が違いすぎるよね」
「……あら、あの子。相変わらずお利口さんなのね」
画面に映る少年の面影に、透歌はふっと目を細める。前世で「主人公」の側にいた者たちも、この新しい世界でそれぞれの才能を自由に開花させているようだ。
すると、桜音が別のニュースをタップした。
「うわぁ……。有名企業の『株式会社ASAGIRI』、ついに倒産だって。社長の息子がアイドルのmoeと熱愛報道で炎上してるし。世の中、世知辛いねぇ」
「……うわぁ」
透歌は思わず苦笑した。千隼も萌乃も、形を変えても相変わらずなのだ。かつては世界を壊しかねなかった均衡の崩壊も、現代では週刊誌のネタに過ぎない。
物語の呪縛から解かれた彼らは、それぞれの未熟さとともに、この泥臭い現実を必死に生きている。それはある意味、とても人間らしい姿に思えた。
桜の花びらが舞い散る校門をくぐり、入学式の式典が始まった。
体育館を包む厳かな空気。新入生たちが緊張した面持ちで並ぶ中、教頭先生の声がスピーカーから響く。
「それでは、新入生代表による挨拶を行います。新入生代表、小紫透歌さん。——ならびに、楼來宵さん。前へ」
耳を疑った。
心臓がどくん、と大きく跳ねる。
「……え?」
隣に立つ人物の気配を感じながら、透歌は震える足取りで壇上へと向かった。
楼來、宵。
聞き間違えるはずがない。あの北の地で、最期まで私を支えてくれた彼の名前だ。
壇上に並んだその人は、制服を端正に着こなし、真っ直ぐに前を見つめていた。
新入生代表の言葉を読み上げている間も、透歌の頭には何も入ってこなかった。ただ、隣から伝わってくる体温と、かすかに漂う懐かしい香りが、彼女の思考を麻痺させていく。
ずっと、ずっと探していた。
記憶を持って生まれたこの世界で、彼だけが見つからなかった。
式典が終わり、生徒たちが一斉に退場し始める。
透歌は周囲の喧騒を無視して、人混みの中、彼の背中を追いかけた。
「宵……っ!」
その呼びかけに、紺色の髪を揺らして、彼がゆっくりと振り向く。
春の陽光を反射する深い瞳。前世よりも少しだけ幼い、けれど凛としたその顔立ち。
透歌の視界が、みるみるうちに涙で滲んでいく。
「……宵。本当に、宵なのね」
宵は驚いたように目を見開き、それから、すべてを包み込むような優しい笑みを浮かべた。
彼もまた、覚えていたのだ。
あの崩壊する世界の中で、彼女を選んだあの瞬間を。北の地で共に過ごした、愛おしい日々を。
「……透歌」
その声が鼓膜を震わせた瞬間、止まっていた時間が、真の意味で動き出した。
二人は同時に、堪えきれない喜びを言葉にした。
「「おかえり」」
物語は、もう誰にも書き換えられない。
ここから始まるのは、ただの「小紫透歌」と「楼來宵」としての、新しい人生。
二人の頭上を、祝福するように桜の花びらが舞い踊っていた。
本作を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
無事に完結を迎えられたのは、ひとえに皆様の応援があったからです。
もし「最後まで読んで良かった」「完結お疲れ様」と思っていただけましたら、作品ページ下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけると、これ以上ない完結祝いになります。これからは小紫透歌の後日譚、として現代編を投稿していきます!
皆様の評価が、次の物語を書く大きな原動力になります。よろしくお願いします!




