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黎明

王都、謁見の間。


そこは本来、秩序と権威が支配する静謐な空間のはずだった。しかし今、この場を支配しているのは、肌を刺すような鋭い緊張感だ。

居並ぶ貴族、衛兵、そして壇上の王族。その視線の中心で、一人の少女が声を震わせていた。


「……やめてください」


白鷺萌乃。


この世界の「正史」において、人々に愛され、国を救うはずの聖女。白い着物を纏った彼女の肩は、激しい感情に小刻みに震えている。


化粧で塗り固められた肌、偽りの血色。かつての愛らしさはどこにもない。


全員が息を呑み、彼女へと振り向いた。その均衡が崩れる音を、透歌は確かに聞いた。


「どうして……そんなこと言えるんです

か……!」


萌乃の声は、絞り出すように掠れていた。しかし、その掠れた声の奥には、長い時間をかけて積み上げられ、圧縮されてきたドロドロとした感情が渦巻いている。


「皆を、傷つけて……国を乱して……それで自分が正しいなんて、よく言えますね……!」


透歌は、その糾弾を正面から受け止めていた。反論もせず、ただ静かに、冷徹なまでに澄んだ瞳で萌乃を見つめる。


萌乃にとって、透歌は「信じてきたもの」を脅かす悪徳そのものだった。彼女は震える足で一歩、前へと踏み出す。


「ずっと、思っていました。透歌様は、冷たくて、恐ろしい人だって。でも――それでも、どこかで正しいと信じたかった。この国の未来を考えているのだと、そう思いたかった!」


大粒の涙が萌乃の頬を伝い、床に落ちる。


「なのに、どうして……! どうしてみんな、あなたの方へ行くの!? 悪役であるはずの、あなたの側に!」


その叫びが引き金だった。


突如として、謁見の間の空気が変質した。


静寂。


音のない爆発のような衝撃と共に、萌乃の周囲に淡い光が広がり始めた。


それは神々しい後光などではない。輪郭が曖昧で、見ているだけで吐き気を催すような、不気味で粘着質な輝き。


「……来たか」


透歌の隣、影のように寄り添っていた宵が、低く毒づいた。


「世界」が動き出したのだ。物語の整合性を保つための、絶対的な拒絶反応が。


異変は瞬時に伝播した。


「……透歌は、危険だ」


「北の領地は……反逆の狼煙だ……」


「彼女を生かしておいてはならない……」


謁見の間にいた人々の表情が、歪んでいく。理性が消えたわけではない。理解が及ばないわけでもない。ただ、彼らの意識の根底が、見えない大きな手によって「書き換えられて」いくのだ。


“そう思わされる”。ただそれだけの事実が、鋼鉄の真実として彼らの中に定着していく。

その波動は、王都を越え、遥か北方領土にまで届いた。


活気に溢れていた市場、真理を追求していた学舎。そこで笑っていた人々が、一斉に顔を上げる。


「……透歌様? ああ、あの方は……」


「なんだか、怖いな」


「あんな人の言うことを、なぜ信じていたんだろう」


桜音の手が震え、未遥の瞳から輝きが消える。知性溢れる紡さえも、苦しげに眉をひそめた。理由などどこにもない。だが、魂が“そう感じてしまう”のだ。


その中心で、萌乃は恍惚と、そして恐怖に震えながら呟く。


「私は、間違っていない……。だって、私は選ばれた存在なのだから」


信仰が形となり、世界を塗りつぶしていく。

だが、その狂騒の中心で、ただ一人、透歌だけが不敵な微笑を浮かべていた。


「……なるほど。これが“強制力”というものなのね」


その言葉が落ちた直後、世界が軋んだ。


物語が、異物である透歌を完全に排除しようと動き出す。形を持たない圧力が空間を埋め尽くし、酸素を奪う。


視界が白く滲み、指先の感覚が失われていく。


ドクン、と。


透歌の心臓が、一度だけ強く跳ねた。


そして。


次の鼓動が、来なかった。


力が抜け、崩れ落ちる透歌の身体。

それを地面に触れさせる前に、強い腕が抱きとめた。


「透歌!」


宵の声だった。常に冷静沈着、感情を仮面の裏に隠していた彼が、初めて剥き出しの焦燥を露わにしている。


しかし、透歌の意識はすでに深い闇の底へと沈んでいた。


何も無い、虚無の場所。


そこには、自分自身の声だけが響いている。

かつて「前世」の自分が、ゲーム画面の向こう側で吐き捨てていた言葉たち。


『あなたは悪役』


『だから、ここで終わるのが正しいの』


『どうしてもっと上手く立ち回らないの? なぜ感情なんて出したの? 馬鹿だなぁ』


逃げ場のない、自分自身による嘲笑。


(……違う)


透歌は、消え入りそうな意識の中で抗った。これは、私じゃない。


その時、闇を切り裂くように、もう一つの声が届いた。


宵の声だ。


「もう、隠しごとはしない」


低く、震えながらも、世界そのものを否定するような強固な意志。


「観測を断つ。……俺は、この世界の外から来た。お前の結末を、何度も、何度も、吐き気がするほど見てきた」


透歌の脳裏に、宵の言葉が深く突き刺さる。


「毎回、お前は死んだ。誰にも理解されず、孤独な悪役として消えていった。それが、この物語の“正しい終わり”だったからだ」


一拍の沈黙。


「だが、そんな結末、俺が認めない」


「だから来たんだ。何度繰り返してでも、お前を救うために!」


暗闇の中に、一点の灯が灯った。


宵の声が、道標になる。


走馬灯のように、この世界で積み上げてきた時間が駆け巡る。


北の領土を吹き抜ける、冷たくも清々しい風。


領民たちと分かち合った、蜂蜜の甘い香り。

自分を信じ、共に歩んだ人々の笑顔。


そして今、自分を抱きしめている、宵の温もり。


(……選ぶわ)


透歌は、はっきりと自覚した。


誰かが決めた結末ではない。誰かのために用意された役職でもない。


私は、私の意志で、この場所に立つ。


停止していた時間が、再び動き出す。


宵の腕の中で、透歌の瞼が微かに動いた。

驚愕に目を見開く萌乃と、周囲の人々。強制力という名の呪縛が、その強固な鎖をさらに締め付けようとする。


しかし、透歌はゆっくりと、だが確実に瞳を開いた。


その瞳には、もはや世界への恐怖も、己の運命への悲観もなかった。


「……わたくしは」


かすれた声。それでも、その言葉は謁見の間の隅々まで、いや、この世界を包む「壁」の向こう側にまで響き渡った。


「あなたたちの、娯楽ではありません」


その宣言が放たれた瞬間。

世界が悲鳴を上げた。

見えない糸が、音を立てて断ち切られていく。


萌乃を包んでいた不気味な光が霧散し、人々の瞳に理性の色が戻る。


物語を縛っていた「強制力」という名の筋書きが、透歌という一人の人間の意志によって、完膚なきまでに粉砕されたのだ。


観測は途絶えた。


ここから先は、書き込まれた台本のない白紙の領域。


もはや彼女を「悪役」と呼べる者は、この世界のどこにも存在しなかった。

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