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衝突と交渉

久しぶりに踏み入れた王都は、透歌の記憶にある姿とは決定的に違っていた。


陽光を反射して輝く豪奢な石畳も、雲を突くようにそびえ立つ白亜の塔も、外見だけを見ればかつての繁栄を保っているように見える。しかし、その街並みを彩るはずの人々の表情は、一様に昏い影を落としていた。


行き交う人々は顔を伏せ、小声で何かを囁き合っては、怯えたように周囲を伺っている。


活気ある喧騒の代わりに響くのは、不安を孕んだ不協和音。経済の血流は滞り、街全体が重苦しい倦怠感に包まれていた。


(……崩れているわ)


透歌は心の中で静かにつぶやき、感情を押し殺して前を向いた。かつて愛した故郷の変貌に胸を痛める暇など、今の彼女にはない。


隣には宵が、影のように寄り添っている。彼は何も言わないが、一歩も離れようとはしない。その静かな存在感だけが、今の透歌にとって唯一の確かな支えだった。


城の深奥、謁見の間。


重厚な扉が軋んだ音を立てて開かれる。高い天井、長く伸びた深紅の絨毯、そして四方を囲む貴族たちの冷ややかな視線。その最奥、玉座の前に立つ一人の男がいた。


朝霧千隼。


かつての婚約者であり、今の透歌にとっては越えなければならない壁そのものだ。彼の鋭い視線が、一筋の矢となって透歌を射抜く。


「久しぶりだな」


低く、地を這うような声が広い空間に響き渡った。透歌は足を止め、優雅に、けれど形式的に一礼した。


「ええ、千隼様」


かつてと同じ呼び方をあえて選ぶ。しかし、そこに敬意の欠片も残っていないことは、その場の誰もが察していた。


周囲の貴族たちの間から、微かなざわめきが漏れる。彼らの瞳に宿るのは、好奇、警戒、剥き出しの敵意。そして——、かつての「追放された令嬢」が、今や北の地を掌握する脅威となったことへの、無視できない恐れだった。


千隼が冷淡な笑みを浮かべ、先手を打つ。


「北の地で、随分と好き勝手やっているようだな。私の耳にも届いているぞ」


「結果は出ています。それだけのことですわ」


透歌は即座に、迷いなく言葉を返した。一瞬の沈黙。王都の貴族たちの顔が引きつり、空気がギリギリと張り詰める。


「北は、あくまで王国の一部だ」


千隼が一歩、歩み寄る。


「独自の教育、独自の流通、そして独自の統治。私が許可した覚えはない」


それは温厚な対話などではない。明確な服従を強いる命令だった。


しかし、透歌は微動だにせず、真っ向から彼を見据えた。


「許可は必要ありません」


刹那、謁見の間が凍りついた。貴族たちが息を呑み、動揺がさざ波のように広がる。王の代理たる千隼に対し、ここまで公然と不遜な態度を取る者がかつていただろうか。


「北は、機能しています。税の納入も、治安の維持も、経済の循環も。すべては自立した仕組みの上で維持されている」


透歌の声は静かだが、鋼のような硬度を秘めていた。


「何か問題がありますか?」


千隼の眉が、苛立ちにわずかに動く。


「……問題なのは、その“思想”だ」


彼の声が一段と低くなる。


「身分制度を根底から崩す教育。秩序を壊す、行き過ぎた仕組み。それは王国という国家に対する明白な反逆だ」


透歌はわずかに目を細め、静かに、けれどはっきりと断じた。


「違います」


言葉の一つ一つに、北の地で積み上げてきた重みを乗せて。


「それは反逆ではなく、“選択”です」


「選択だと?」


「ええ。学ぶかどうかを選ぶ。働き方を選ぶ。自分の生き方を選ぶ。それを民に許したに過ぎません」


透歌はあえて一歩、前へ踏み出す。


「個人の尊厳を尊重することが、なぜ反逆になるのですか」


千隼の顔に怒りの色が差す。


「人は平等ではない!導く者と、導かれる者がいて初めて国は成り立つ。愚かな民を自由にするのは、混沌を招くだけだ!」


その傲慢な言葉を聞いた瞬間、透歌は一瞬だけ、慈しむような、そして寂しそうな笑みを浮かべた。


「だから、この国は崩れたのです」


千隼の目が大きく見開かれた。


「何を……」


「特定の個人、たった一人の才覚に依存する国。感情で揺れ動く場当たり的な政治。機能不全に陥った、時代遅れの仕組み」


透歌は一つずつ、現実という刃を彼に突きつける。


「私がこの王都からいなくなった瞬間に、あなたの政治は止まった。それこそが、あなたの作ってきた秩序が脆い幻想であった証です」


誰も否定できなかった。王都の現状を見れば、彼女の言葉は残酷なまでに真実だった。


「あなたはかつて“民を思う”と言った。でも、そのための仕組みを作らなかった」


透歌の声が、憐憫を込めて低くなる。


「だから今、あなたの足元で、民が苦しんでいるのです」


「黙れ!」


千隼の感情が、初めて爆発した。その叫びは天井の高い謁見の間に、空しく反響する。


「貴様に……貴様に何がわかるというのだ!」


透歌は動じなかった。激昂する彼を、ただ凪のような瞳で見つめる。


「わかっています。だから、私は作りました。特定の誰かがいなくなっても、人々が飢えず、学び、歩み続けられる場所を」


透歌は、ゆっくりと一歩引いた。


「対話に来たのは、不毛な争いをするためではありません」


彼女の視線は、もはや千隼一人ではなく、広間に並ぶ貴族たち全員を射抜いていた。


「共存のためです。王国の一部としてではなく、対等な隣人として。それが、私の提示する条件です」


再びざわめきが起こる。


「北の自治を認めること。学舎への不当な干渉をしないこと。そして、民の移動を制限しないこと。これらが守られるのであれば、北は王都への協力を惜しみません」


透歌は最後の一言を言い切り、千隼の返答を待った。


長い、痛いほどの沈黙が流れる。

やがて、千隼が低く笑いながら口を開いた。


「……断れば?」


試すような、冷ややかな問い。


「その時は」


透歌は迷わない。


「北は、北として独立して成立します。二度と、王国の傘下に入ることはないでしょう」


それは事実上の独立宣言だった。もはや、力でねじ伏せられる段階は過ぎている。


「いいだろう」


千隼の笑みは、獣のような冷たさを帯びていた。


「面白い。だが、覚えておけ、透歌。それは私との、そして王国との戦いになる」


「ええ。最初から、そのつもりです」


その言葉を最後に、二人の間にあった過去の絆は完全に断ち切られた。かつての婚約者、追放者と権力者。その関係は終わり、二つの勢力を代表する対等な指導者としての対決が始まったのだ。


謁見の間の重い扉が閉まる。はずだった。


「もうやめてくださいっ……!」


弱々しく庇護欲をそそる声。窓から差し込んだ光が嫌でもその輝きを目に届けた。





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