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花影の距離

 桜は、満開を迎えていた。


 昼の喧騒が去ったあとの中庭は、花弁の絨毯に覆われている。夕陽が差し込み、世界を淡く染めていた。


 小紫透歌は、一人で石畳の縁に腰を下ろしていた。


 今日もまた、盤面は動いた。


 白鷺萌乃は変わらず無垢を装い、朝霧千隼はその隣に立つ。だが以前ほど一方的ではない。透歌の存在は、確実に“対等な選択肢”として刻まれ始めている。


(けれど、まだ足りない)


 断罪の未来は、完全には消えていない。

 物語は、粘る。


「透歌様」


 背後から静かな声。


 振り向かなくてもわかる。


「宵」


 楼來宵は、少し離れた位置に立っていた。夕陽を背にしているせいで、その表情は影に沈んでいる。


「お探ししました」


「探すほどの距離でもないでしょう?」


「学内では常にお側におりますので」


 律儀な返答。


 透歌は小さく笑う。


「命令ではないわよ」


「承知しております」


 それでも宵は一歩、近づいた。

 ほんのわずかな距離。


 以前よりも、自然に。


 しばらく二人は無言で桜を見上げる。

 花弁が、ひとひら宵の肩に落ちた。


 透歌は無意識に手を伸ばしかけ――止めた。


 代わりに、宵が自分で払う。


「……透歌様」


「なに?」


「本日の医務室での対応。あれは計算ですか」


 問いは淡々としている。


 だが、どこか違う。


 透歌は少しだけ考え、正直に答えた。


「半分は計算」


 そして、


「半分は本心よ」


 宵の瞳が、わずかに揺れる。


「怪我をしていたら困るでしょう。敵でも」


 沈黙。


 宵は桜を見上げたまま、低く言う。


「前回の透歌様は、もっと孤立していました」


「ええ」


 前世の記憶が胸をよぎる。


 誇りを守ろうとして、独りになった。


「今回は、独りにならないと決めたの」


 風が吹く。


 花弁が舞い上がる。


「……宵」


「はい」


「あなたはどうなの?」


「何がでしょう」


「観測者ではなくなった今。楽しい?」


 問いは、軽いようで重い。

 宵はしばらく答えなかった。


 やがて、ゆっくりと口を開く。


「わかりません」


 正直な言葉。


「ただ、以前よりも……」


 言葉が途切れる。透歌は横目で彼を見る。


「以前よりも?」


「……選択の重みを感じます」 


 観測者だったときは、ただの分岐だった。

 今は違う。


 自分の言葉が、行動が、結果を生む。

 透歌は微笑んだ。


「それは、生きているってことよ」


 宵は初めて、はっきりと透歌を見る。

 その視線は、分析ではない。


 感情を探るもの。


「透歌様は、怖くないのですか」


「怖いわ」


 即答。


「断罪も、失敗も、全部」


 それでも。


「でも、あなたがいるでしょう?」


 静かな言葉。


 宵の呼吸が、一瞬止まる。


「観測してくれる人がいるなら、少しは安心できるもの」


 冗談めかした声音。


 だが本心も混じっている。

 宵は視線を逸らした。


「……観測だけではありません」


「え?」


「今は、補佐です」


 言い直すように。透歌はくすりと笑う。


「頼もしいわ、宵」


 その呼び方が、ほんの少しだけ柔らかい。

 宵は一歩、さらに近づいた。


 肩と肩が触れそうな距離。


「透歌様」


「なに?」


「もし断罪確率がゼロにならなかった場合」


「ええ」


「そのときは、私が別の解を提示します」


 透歌は目を瞬く。


「別の解?」


「物語そのものを壊す選択です」


 静かな声音。

 本気だ。


 透歌は、しばらく彼を見つめたあと、ふっと笑った。


「そこまでしなくていいわ」


「しかし」


「だって」


 花弁が、二人の間に落ちる。


「わたくし、あなたと幸せになる未来を選ぶって決めているもの」


 さらりとした言葉。


 だが宵の頬が、わずかに熱を帯びる。


「……透歌様」


「なにかしら?」


「それは、計算ですか」


 問い返す。


 透歌は少しだけ考え、首を傾げた。


「いいえ」


 微笑む。


「これは、選択」


 宵は何も言えなかった。


 ただ、隣に立つ。

 以前より、ほんの少しだけ近い距離で。


 桜は風に舞い、やがて静かに地へ落ちる。

 だが二人の間には、新しい何かが芽吹いていた。


 断罪まで、まだ遠い。


 けれど。


 小紫透歌は、もう独りではない。

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