好感イベント略奪
桜が、咲いた。学寮の巨大な鉄製の正門をくぐった瞬間、淡い桃色の花弁が春風に乗って、ひらひらと頭上から舞い落ちてくる。
《聖桜学寮》。
それは前世の私が、四角い画面越しに何度も何度も見つめ続けた、あまりにも見慣れたはずの背景だった。
ここが、数々の攻略対象たちと出会い、恋を育んでいく物語の主要舞台。
そして――悪役令嬢である小紫透歌が、全校生徒の前で無惨に断罪され、破滅を迎えるための処刑台でもある。
「……ついに、来ましたね」
透歌は小さく、しかし覚悟を込めた息を吐き出した。二年という歳月をかけ、父である公爵とともに領地経営の基盤を盤石にし、民衆の支持という『現実の防壁』を築き上げてきた。
そして今、彼女は約束の舞台へと足を踏み入れたのだ。
すぐ隣には、自分と同じ黒い生地の制服に身を包んだ宵が立っている。
体にぴったりと馴染んだ黒の詰襟に、陽光を反射して鈍く光る銀の徽章。
学内における彼の公式な立場は、公爵家が誇る優秀な従者候補であり、主である透歌と共にこの最高学府で学ぶ権利を得た特例の生徒であった。
「緊張なさっていますか、透歌様」
宵の口から滑り出たのは、静かで、完璧に整えられた他人のための声だった。馬車の中のような二人きりの空間とは違う。
大勢の貴族の目が光る学内においては、彼は決して一線を越えず、必ず透歌に敬称を付ける。それが、彼が自らに課した絶対の決まり事だった。
「いいえ。全く」
透歌は前を見据えたまま、気高く、不敵に微笑んでみせた。
「だって、ここからが本当の本番ですもの」
厳かな空気が満ちる入学式の会場。その壇上では、新入生総代として王太子である朝霧千隼が、凛とした声で堂々たる挨拶を述べていた。
その演説の最中、千隼の鋭い双眸が、ほんの一瞬だけ客席の最前列に座る透歌へと向けられた。
二年前のあの事前顔合わせの茶会以降、千隼の透歌に対する態度は、ゲームのシナリオとは明らかに違う方向へと変化していた。
そこにあるのは、かつての鬱陶しそうな忌避感ではない。底知れない有能さを見せる婚約者候補への、強い警戒と、隠しきれない深い関心。
彼は今、透歌をただの我儘な子供としてではなく、一人の対等な小紫公爵令嬢として見つめている。
(うん、ここまでは極めて順調ね)
そう確信した、次の瞬間だった。ざわ、と会場の入り口付近の空気が、まるで生き物のように不自然に揺れ動いた。
色とりどりの制服を着た人垣の向こう側から、周囲の空間を淡く照らし出すかのような、柔らかな光をまとった一人の少女が現れる。白鷺萌乃。
特待生である彼女にのみ許された、純白の新入生用の制服が、彼女の持つ圧倒的な無垢さと可憐さをこれ以上ないほどに際立たせていた。
「あの……ごめんなさい。わたし、クラスの場所が分からなくて……ここで合っていますでしょうか?」
今にも消え入ってしまいそうな、庇護欲をそそる戸惑いの声。その可憐な姿に、周囲にいた数名の高位貴族の令息たちが、まるで磁石に引き寄せられる鉄屑のように即座に反応した。
「大丈夫ですよ、白鷺さん」
「案内しましょう、こちらへどうぞ」
萌乃を中心に、自然と人の輪が出来上がっていく。これこそが、ゲームをプレイした人間なら誰もが知っている定番の初期イベント――迷子の聖女。
前世のゲームの歴史において、本来の小紫透歌はこの様子を遠巻きに眺めながら、激しい苛立ちと不快感を露わにしていた。
そして後日、その冷淡な態度を周囲から「平民を見下す冷酷な令嬢だ」と陰口を叩かれる原因を作ってしまったのだ。
(ならば、その不名誉な未来ごと買い叩いて差し上げましょう)
透歌は隣に立つ宵へと、音もなく一瞥をくれた。宵は主の意図を正確に察知し、表情を変えないまま、小さく顎を引いて頷いてみせる。
意を決した透歌は、ゆっくりと、しかし確かな存在感を放ちながら萌乃の元へと歩み寄った。
「白鷺様」
清澄な声が、人だかりを割って響く。萌乃がびくりと肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。その桜色の瞳の奥で、ほんの一瞬だけ、状況を冷静に計算するような酷く冷めた光が走るのを、透歌は見逃さなかった。
「あ……小紫、透歌様……」
萌乃はすぐにいつもの、誰からも愛される柔らかな笑みを顔に張り付かせる。
「お困りのようですのね。よろしければ、わたくしが教室までご案内いたしますわ」
透歌の思いがけない親切な申し出に、周囲の令息たちが一斉に意外そうな顔をした。物語の期待する「高慢な公爵令嬢」なら、特待生の平民など無視するか、あるいは手酷くあしらうはず。
透歌はその見えない強制力を、完璧な淑女の微笑みによって正面から裏切ってみせたのだ。
「ありがとうございます……!とっても助かります、透歌様!」
萌乃は本当に嬉しそうに、花が咲くような笑顔を浮かべた。
だが、そのお礼を言う彼女の指先が、想定外の展開に対する焦燥からか、わずかに強く震えているのを、透歌の目は冷徹に捉えていた。――最初の想定、完全に見通しが外れたわね、聖女様。
◇
入学式が終わり、教室へと向かう静かな廊下。前を歩く透歌の斜め後ろにつき添いながら、萌乃は周囲に聞こえないほどの小さな、しかし密やかな声音で囁いた。
「透歌様は、本当にお優しいお方なのですね。わたしのような平民にも、分け隔てなく接してくださって……」
「滅相もありませんわ。同じ学寮で学ぶ学友が困っているのであれば、手を差し伸べるのは当然のことをしたまでです」
透歌は表情を崩さず、どこまでも淡々と、事務的な響きさえ含んだ声で返した。甘い言葉で懐に潜り込ませる隙など、最初から一ミリも与えるつもりはない。
その後ろを、宵が影のように静かに、しかし確固たる足取りで歩いている。
「透歌様、前方に僅かな段差がございます。お足元にご注意を」
「ありがとう、宵。助かるわ」
主従としての、あまりにも自然で洗練されたやり取り。学内において、宵はどこまでも徹底して「忠実な公爵家の従者」を演じきっている。
だが、そんな宵の完璧な佇まいに、萌乃の鋭い視線がじっと注がれた。
「楼來様は……透歌様のことを、本当に大切になさっているのですね」
「私は公爵家に仕える身。主の安全を守るのが、私のすべてにございますので」
宵の返答は、簡潔そのものだった。そこには一切の私情も、感情の揺らぎも乗せられていない。
萌乃はそれ以上追及することを諦めたように微笑んで見せたが、その桜色の瞳は、値踏みするような鋭さを帯びていた。
――楼來宵。この男は、完全に未知数。前世のゲームのデータには、どのルートを探しても絶対に存在しなかった、世界のシナリオを狂わせる予測不能の黒い駒。萌乃の警戒心が、静かに跳ね上がる音がした。
◇
そして、放課後。学内の瑞々しい緑が広がる中庭で、早くも最初の事故が発生していた。
「あ、あの、ごめんなさい……!わたし、そんなつもりじゃなくて……っ」
萌乃の悲痛な、今にも泣き出しそうな震える声。石畳の上には、無惨に砕け散った高価な磁器の花瓶の破片と、ぶちまけられた水。
そして、周囲にいた貴族の生徒たちから萌乃へと向けられる、冷ややかな、あるいは非難を孕んだ無数の視線。
これこそが、ゲームにおける典型的なトラブルイベントだった。前世の記憶では、本来の透歌がここで萌乃に対して「無作法な平民が」と冷笑を浮かべ、それを目撃した攻略対象たちからの印象を最悪なものへと悪化させていた。
「――白鷺様、怪我はありませんか!?」
周囲の誰もが動けない中、透歌は一切の躊躇なく、破片の真ん中に立ち尽くす萌乃の手を両手で優しく包み込んだ。
公爵令嬢が平民の少女を自ら助けるという異常な光景に、周囲の貴族たちがヒッと息を呑む。
「花瓶はただの物ですわ。人間の身体よりも重い価値など、この学寮のどこにも存在しません。みなさん、何を突っ立っていますの?早く救護の者を!」
凛とした、圧倒的な威厳を孕んだはっきりとした声が、中庭に漂っていた萌乃を責める空気を一瞬にして微塵に断ち切った。そこへ、騒ぎを聞きつけた王太子・千隼が息を切らせて駆け寄ってくる。
「透歌……!一体何事だ」
「殿下、白鷺様が破片で足を痛められた可能性がありますわ。大事を取って、すぐに医務室へお連れしてください。中庭の片付けは、我が公爵家の従者に任せますので」
透歌の指示は、完璧かつ的確だった。感情に流されて騒ぎを大きくするのではなく、最優先すべき行動を冷静に選択する。
これによって、本来であれば千隼が萌乃を優しく励まし、二人の距離を急接近させるはずだった重要な好感度イベントの主導権を、透歌が丸ごと奪い取る形となった。
宵は、一歩下がった安全な位置から、その一連の鮮やかな手際を静かに見届けていた。
(……お見事だ。物語の主役たちの中心を、完全に横取りしている)
脳内で弾かれた数値が、再び書き換わる。透歌を破滅へと誘う『断罪ルート』の進行率は、これでさらに大きく低下した。
だが。千隼に支えられながら医務室へと向かう直前、白鷺萌乃がほんの一瞬だけ、透歌の方を振り返った。
その桜色の瞳の奥に宿っていたのは、もはや聖女の無垢さなど微塵もない、冬の初めの地吹雪のように冷たく、昏い、明確な敵意の光だった。
(――不快なイレギュラー。早急に対抗策を練る必要があるわね)
確かな確信とともに、透歌はそれを見つめ返す。物語の強制力によって全肯定された完全なるヒロインは、やはり、この程度の揺さぶりでは簡単には退かない。
悪役令嬢としての本当の戦いは、ここから始まるのだ。
放課後の喧騒が去り、茜色の夕暮れが学寮を包み込んでいく。
静まり返った男子寮と女子寮を繋ぐ共通テラスで、透歌は手すりに身を預け、風に揺れる桜の梢を見上げていた。
「どうかしら、宵」
振り返ることなく、気配だけで背後に立つ少年に問いかける。
「断罪確率、さらに微減」
宵は一歩前に出ると、学内での従者の仮面をわずかに緩め、いつもの淡々とした、しかしどこか人間味を帯びた声で答えた。
「微減ばかりね。あれだけ完璧にイベントの主導権を奪って見せたというのに」
「物語の強制力は粘る。世界がヒロインを勝たせようとする慣性は、そう簡単には止まらない」
透歌は小さく、くすりと笑った。
「なら、こちらが根気強く粘り勝ちを狙うまでですわ」
その不敵で、決して折れない強さを持った言葉に、宵は少しだけ沈黙する。夕日に照らされた彼女の横顔を見つめながら、彼は胸の中にあった問いを静かに口にした。
「……透歌様」
「なに?」
「あなたは……本当に、悪役ではないのですね」
前世のゲームという脚本の中では、確かに彼女は世界から嫌われる悪役だった。
しかし今、目の前で運命と戦う彼女は、誰よりも気高く、誰よりも理性的だ。透歌は暮れゆく空を見上げたまま、悪戯っぽく、しかし確固たる意志を込めて答える。
「悪役なんて、ただの立場の問題よ」
ひらりと、淡い桃色の花弁が一枚、透歌の肩に静かに落ちた。
「誰かにとって都合の悪い存在を、世間は悪役と呼ぶのでしょう?なら、わたくしはそんなラベルなんてどうでもいい。わたくしは、ただ、わたくしの手で幸せになるだけよ」
宵はその毅然とした横顔をじっと見つめる。世界の因果をただ記録するだけの無機質な観測者としてではなく。
今、この同じ学寮に通い、彼女の戦いを誰よりも特等席で見守る一人の少年として。
「――その時まで、ずっと隣におります」
それは、システムとしての決定事項ではない。宵が自らの意志で紡いだ、静かな誓いだった。透歌はゆっくりと振り向き、満面の、少女らしい柔らかな微笑みを咲かせた。
「当然でしょう?わたくしの最高の特等席なのですから」
庭園の桜は、日に日に満開へと近づいている。だが、自然の理として、花はいつか散るために咲くものだ。
世界が定めたその破滅の運命すら、彼女は書き換えることができるのか。薄暗くなってきたテラスで、悪役令嬢は聖女萌乃が見せたあの冷たい視線を思い出しながら、静かに、そして冷徹に次の一手を考えていた。




