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生きる選択と知恵の女神

王都は冷たい。


石畳の隙間から吹き上がる風は、商人の心まで冷やしていく。


南区の小さな仕立て屋は帳簿を前に黙り込んでいた。


「……また布の仕入れが止まった」


父が呟く。


価格統一令の影響で、仕入れ値は固定。だが実際の流通は滞り、質の良い布は手に入らない。


母は縫いかけの外套を撫でる。


「王都のままで、やっていけるかしら」


娘は、小さな紙包みを握っていた。


北方の蜂蜜菓子。


「……北って、ほんとにあったかいの?」


それは味の話ではなかった。噂がある。


北辰商会は、移住者を受け入れている。


住居の斡旋。職の紹介。最初の冬を越えるための支援。


「商いが、回ってるらしい」


父が言う。


「恩を売るんじゃない。働いた分が、ちゃんと戻るって」


王都では最近、それが難しい。


制度はある。だが、動かない。決まりは増える。だが、稼ぎは減る。


「……行こう」


静かな決断だった。怒りではない。逃避でもない。“選ぶ”という行為。


数週間後。


北へ向かう街道。荷馬車に最低限の荷物を積み、王都を振り返る。


白い城壁は、まだ立派だ。


だが、心はもう決まっている。


「……また戻る日が来るかもしれない」


母が言う。父は頷く。


「でも今は、生きる場所を選ぼう」


馬車は北へ進む。冷たい風の向こうに、薄く煙が見える。再生の煙。北方の関所。


粗野だったはずの門は、今では整備され、木製の看板が掲げられている。


――北辰商会 管轄区域


受付の若者が笑顔で迎える。


「移住希望ですか?」


「……ああ」


「職種は?」


「仕立て屋だ」


若者の目が輝く。


「ちょうど防寒具の需要が増えてます。

紹介できますよ」


事務的だが、冷たくない。感情ではなく、仕組みで支える。それが北方のやり方だった。


その頃、北辰商会本部。


透歌は移住者一覧に目を通す。


「王都から、また三家族」


宵が静かに言う。


「流れが変わってきたな」


透歌は紙を閉じる。


「……王都が嫌いで来るのではないわ」


「?」


「“生きられる場所”を選んだだけ」


彼女の瞳は穏やかだ。復讐ではない。奪うのでもない。ただ、受け入れる。


「住居区画は南側を。仕立て屋なら、防寒衣料の工房と連携を」


指示は的確で、感情に揺れない。


北辰商会は拡大している。蜂蜜菓子の流通。木材加工。毛皮取引。


そして、移住支援。


商会は今や、北方の“骨格”だった。


数日後。


仕立屋一家の新居。


粗い木造だが、暖炉がある。娘は窓から外を見る。


雪の上を走る子どもたち。


その手には、見覚えのある紙包み。


「……甘い匂い」


桜音おとの工房から漂う、蜂蜜の香り。


「ねえ、お父さん」


「ん?」


「ここ、好きかも」


父はまだ答えられない。


だが、工房で初めて注文を受けた防寒外套を思い出す。


「ありがとうございます!助かります」


そう言われた。王都では最近、聞かなかった言葉。


「……ああ」


小さく笑う。


「悪くないな」


夜。


透歌は報告書を閉じる。


「今日の移住者、落ち着いたようです」


宵が頷く。


「北は寒い。だが、冷たくはないな」


透歌は外を見る。灯りが増えている。一つ、また一つ。


王都から流れてきた灯り。奪ったわけではない。


選ばれただけ。


北方はまだ発展途上だ。だが、確実に息づいている。人が増え、商いが回り、笑い声が重なる。


再生は、静かに広がっていく。


そして王都は――その減っていく灯りに、まだ気づいていなかった。



北方の空は、よく晴れていた。


白い息を吐きながら、透歌は新設された仕立て工房へと足を向ける。宵は一歩後ろを、静かに歩いていた。


木造の看板には、まだ新しい文字。


――つむぐ仕立工房


扉を開けると、布の匂いと温かな空気が流れ出す。


「い、いらっしゃいませ!」


元気な声。


振り向いたのは、黒髪の少女。王都から来た仕立て屋の娘だ。


「透歌さま……ですよね?」


透歌は微笑む。


「“さま”は要らないわ。視察に来ただけよ」


奥から父・紡が現れ、深々と頭を下げた。


「……このたびは、工房の設立支援、心より感謝いたします」


透歌は首を横に振る。


「支援ではないわ。投資よ。防寒具の供給が安定すれば、北全体が助かる」


現実的な言葉。だが、その声は柔らかい。紡は静かに笑った。


「やはり……」


「?」


「あなたは、知恵の女神だ」


娘の未遥みはるが目を丸くする。


「えっ、お父さん急に何言ってるの」


だが紡は真剣だった。


「王都では、声の大きい者が“正しい”とされた。だがここでは違う。必要なものを見極め、静かに道を敷く」


透歌は少し困ったように眉を下げる。


「女神なんて大層なものじゃないわ。私はただ、失敗しただけ」


断罪。追放。


それでも、立ち止まらなかった。


「それでも」


紡は縫い針を置く。


「怒らず、奪わず、仕組みで返す。それは力です」


未遥は透歌を見つめる。


「……透歌さんって、怒らないんですか?」


少しだけ沈黙。宵が横目で透歌を見る。透歌は小さく笑った。


「怒るわよ。人並みに」


「え、ほんと?」


「でもね。怒りで作った仕組みは、誰かを締め付ける」


未遥は考え込む。王都で見た、怒鳴る官吏の姿。布を押収された商人。


「……じゃあ、どうするんですか?」


「必要なものを増やすの」


透歌は工房の棚に並ぶ防寒外套を撫でる。


「温かい服が増えれば、冬に震える人は減る。雇用が増えれば、不満は減る。“足りない”を埋めるほうが早いの」


未遥の瞳が、きらりと光る。


「それ、かっこいいです」


宵が小さく笑った。


「女神というより、算術家だな」


「褒めてる?」


「多分な」


工房の空気が、和む。透歌は一着の外套を手に取る。裏地に、細やかな刺繍。雪の結晶。


「未遥が?」


少女は照れくさそうに頷く。


「北に来た記念で。寒いけど、きれいだから」


透歌はその刺繍を見つめる。


北は、厳しい。だが、美しい。


「王都に卸す気はある?」


父娘が驚く。


「王都、ですか?」


「ええ。北産の防寒具として。蜂蜜菓子と同じ流通網に乗せられる」


未遥が目を輝かせる。


「王都に、私の服が?」


紡は一瞬、複雑な顔をした。だが、やがて頷く。


「……ええ。売れるなら、届けたい」


透歌は静かに言う。


「これは“北対王都”じゃないわ。必要なら、届ける。それだけ」


知恵の女神。


そう呼ばれた理由は、奇跡ではない。


分断しないからだ。


帰り道。


未遥が小さく駆けてきた。


「透歌さん!」


振り返る。少女はぎこちなく言う。


「私、ここで頑張ります。王都じゃなくて、“北で”」


透歌は微笑む。


「選んだのね」


「はい」


その目は、もう迷っていない。透歌はそっと手を差し出す。未遥は握る。温かい。


「……ありがとうございます」


透歌は首を振る。


「ありがとうは売上が出てから、かな」


未遥が笑う。宵が小さく呟く。


「確かに、女神だな」


透歌は少しだけ頬を赤らめた。北の灯りは、また一つ増えた。怒りではなく、選択で。

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