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どんなときでも笑っていられる

王都から領地へと向かう馬車の中で、透歌は窓の外を流れる新緑を眺めていた。


 学園を去ってから数日。彼女を縛り付けていた「公爵令嬢」という肩書きは失われ、今や彼女は謹慎の身である。


しかし、その横顔には悲壮感など微塵もなかった。


「……静かだね、宵」


 対面に座る宵は、手元の書類から目を離さずに小さく頷いた。


「ええ。王都の喧騒が嘘のようです。……もっとも、あちらは今頃、ひどい騒ぎになっているはずですが」


 透歌は扇を閉じ、悪戯っぽく微笑んだ。


 自分が去った後の「穴」がどれほど巨大なものになるのかはあらかじめ計算してある。


 透歌は公爵令嬢として、学園の運営資金の管理から、各貴族家との利害調整、さらには朝霧千隼の公務の補佐まで、その実務の八割を一人で担っていた。


彼女がいなくなれば、それらの事務作業はすべて、残された千隼と萌乃に降りかかることになる。


「千隼様は『民の心に寄り添う』とおっしゃっていたけれど……。税率の計算も、水利権の調整も、書類の不備の修正も、すべて『心』だけで解決できると思っているのかしら」


「白鷺萌乃様も、お慰め役としては優秀でしょうが、公文書の一行も読めないのでは話になりません。……既に、王都の商工会からは、承認が滞っていることへの苦情が殺到しているとの報告が入っています」


 透歌は満足げに背もたれに体を預けた。


 彼女がこの数年間、睡眠時間を削ってまで領地改革を進め、財政を立て直してきたのは、この「自由」を手に入れるため。


小紫家の家臣たちは、透歌の知略と冷徹なまでの正確さを誰よりも信頼している。


王命による謹慎など、彼らにとっては「休暇」のようなものに過ぎなかった。




 一方、王都の学寮では、異変が起きていた。


 透歌という「悪役」を追い出し、正義が勝ったはずの世界。しかし、そこにあるのはバラ色の棘のある地獄だった。


「……千隼様、この書類はどうすればいいのですか?」


 萌乃が涙目で差し出したのは、隣国との交易に関する重要書類だった。


 千隼は眉間に深い皺を寄せ、山積みになった書状を睨みつけている。


「そんなことは、事務方に聞け! ……いや、事務方も『小紫様の指示がなければ動けない』の一点張りだ。くそ、あいつはどれだけ自分勝手な仕組みを作っていたんだ!」


 千隼はやはり理解できていなかった。透歌が作っていたのは自分勝手な仕組みではなく、あまりにも効率的で、あまりにも高度な「法と理」による統治システムだったことを。


 感情と涙で動く萌乃と、それに同調する千隼には、そのシステムの歯車一つ動かすことができない。


「透歌様がいれば、すぐにお返事をいただけたのに……」


 誰かが漏らしたその一言に、千隼は激昂した。


 しかし、現実は残酷だった。透歌という抑止力が消えたことで、彼女が押さえ込んでいた貴族たちの派閥争いが激化。


萌乃の実家である白鷺男爵家には、彼女が透歌を嵌めるために偽造した証拠の「綻び」を突く、他家からの糾弾が相次いでいた。


 物語の強制力は、あくまで「断罪の瞬間」に最大化される魔法に過ぎない。


 魔法が解けた後の現実に残ったのは、実務能力が皆無な王子と、泣くことしかできない男爵令嬢、そして崩壊しゆく学園の秩序だった。


 数週間後。


 千隼は、国王から激しい叱責を受けることになる。


「一介の令嬢の涙に惑わされ、国益を損なうとは何事か! 婚約破棄を撤回せよ!」


だが、その時には全てが遅すぎた。

 




 初夏の風が吹き抜ける小紫家の領地。


 そこには、王都の混乱とは無縁の、穏やかで活気ある時間が流れていた。


 透歌は、軽やかな平民の装いに身を包み、領地の丘に立っていた。


 隣には、いつもと変わらぬ無表情ながらも、どこか穏やかな眼差しをした宵が控えている。


「……ここからの景色は、学園の回廊から見るよりもずっと広いのね」


「左様でございますね。……王都からは、朝霧様が毎日、謝罪と帰還を求める書状を送ってきておりますが」


「燃やしておいてちょうだい。わたくし、もう『小紫透歌様』と呼ばれるのには飽きたの」


 透歌は宵に向き直り、その瞳を真っ直ぐに見つめた。


「宵。あなたは、わたくしが地位を失っても、こうして平民として生きることになっても、本当に後悔はないの? あなたの才能があれば、王宮で高官にだってなれたはずよ」


 宵は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。


 そして、これまで見せたことのないような、深く、熱い微笑を浮かべた。彼は膝をつき、透歌の手を取る。


それは忠誠の儀式ではなく、対等な人間としての、魂の契約のようだった。


「透歌様。私は、貴女の知略に、貴女の孤独に、そして貴女の選んだ自由という生き方に、心底惚れ抜いているのです。」


「透歌様。一生かけてあなたを幸せにします。あなたを守り抜き、隣に立ちます」


 透歌の頬が、微かに赤らむ。


 彼女は前世でも、今世でも、これほどまでに真っ直ぐな言葉を向けられたことはなかった。


「……様はいらない、と言ったはずよ」


「……ああ、そうでしたね。透歌」


 宵がその名を呼ぶと、胸の奥が温かい光で満たされるようだった。


 悪役令嬢としての物語は終わった。


 強制力という名の呪縛も、身分という名の鎖も、もうここにはない。


 ふと見れば、一本の遅咲きの桜が、最後の花弁を風に預けていた。


 桜は散る。


 しかし、それは死ではなく、次なる季節への準備だ。


「ねえ宵」


「ありがとう。宵がいてくれて本当に良かった。これからは宵がいたらどんなときでも笑っていられる」


 二人は手を取り合い、丘を下り始めた。


 その先にあるのは、栄華を極めた王都ではなく、自分たちの手で作り上げる、小さくも揺るぎない新しい世界。


「物語は終わった。私達は強制力から外れたわ」


「これからは私達が書いていくのよ。幸せの脚本(シナリオ)を」


小紫透歌と楼來宵の物語はまだ序章の序章だ。

第1章終了です!短編の前日譚のような感じだったと思います。まだまだ続いていくのでポイントやブックマークで応援していただけると嬉しいです( ´∀`)感想もとっても励みになります!

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