最初の選択肢
小紫透歌は、公爵邸の最奥に位置する巨大な書庫の中に立っていた。
見上げるほどに高い天井までびっしりと続く、重厚な木製の本棚。
そこには政治、経済、軍事、外交、魔導学にいたるまで、小紫公爵家が何世代にもわたって蓄えてきた、まさに知の結晶とも呼ぶべき膨大な古書や記録が並んでいる。
その静謐で薄暗い空間の中央に、まだ背の低い、わずか八歳の少女が一人、ポツンと佇んでいた。
「お嬢様……本当に、このような年齢で我が家の財政報告書をご覧になるのですか?」
傍らに控える老執事が、困惑と驚きを隠しきれないといった様子で、おそるおそる透歌に尋ねる。
「ええ。何の問題もありませんわ。後でお父様にもしっかりとお伝えしてちょうだい。わたくしも、今から少しずつ領地経営の実際について学びたい、と」
透歌は視線を書類から外すことなく、鈴を転がすような声で淡々と答えた。
前世の記憶が完全に融解し、この頭へと戻ってから、今日でちょうど三日。この三日間、彼女が導き出した結論は一つ。
まずは何よりも先に、自らの足元を支える完璧な土台を固めること。
乙女ゲームの主な舞台となるのは、二年後に入学する華やかな学寮だ。
しかし、最終的に自分を奈落の底へと突き落とす「断罪」を裏で支え、成立させているのは、感情論ではなく冷徹な政治の力である。
なぜ、王太子はあのような全校生徒の前で、公爵家に対する一方的な婚約破棄を宣言できたのか。
それは、すでに国の世論が完全に聖女の味方につき、公爵家が孤立していたからだ。
そしてその世論を動かしたものこそが、聖女萌乃がもたらした数々の「奇跡」と、小紫公爵家に対して民衆が長年抱いていた「高慢で冷酷な支配者」という最悪の印象だった。
(印象というものは、あらかじめこちらの手で操作できるものですわ)
透歌は、大人の男でも持ち上げるのがやっとのような分厚い革の帳簿を、小さな指でパラパラとめくっていく。
小紫公爵家は、間違いなくこの王国で最大の財源と領地を持つ、筆頭名家だ。
だが、その圧倒的な強さゆえに、王都の人間や中央の貴族からは「強すぎる家」「いつ牙を剥くか分からない怪物」として、常に警戒と畏怖の対象とされてきた。
そんな緊張感の漂うパワーバランスの中に、突如として聖女という民衆の純粋な味方が現れたのだ。
ゲームのシナリオが用意した構図は、あまりにも単純明快だった。私利私欲のために権力を振るう冷たい権力者と、傷ついた人々を無償で救う温かな聖女。
(物語の消費物として、これ以上ないほどに美しすぎる構図。だからこそ民衆は熱狂したのね)
ならば――話は簡単だ。透歌はパタン、と大きな音を立てて帳簿のページを閉じた。
「公爵家自らが、誰よりも先に民の懐へと近づけばいいのですわ」
恐怖による支配ではなく、確固たる支持を。
遠くから見上げる畏怖ではなく、生活を支えてくれる存在としての信頼を。そのとき、重厚な書庫の扉が、音もなく静かに開いた。
「透歌」
低く、地響きのように重厚でありながら、どこか穏やかさを孕んだ声。
透歌が素早く振り返ると、そこにはこの家の絶対的な主であり、彼女の父親である小紫公爵が立っていた。鍛え上げられた長身に、一切の隙のない豪奢な衣服。
すべてを見透かすかのような、鋭い漆黒の眼差しが透歌を射抜く。
「執事から報告を聞いた。お前が自ら進んで、我が家の財政を学びたがっているそうだな」
「はい、お父様」
透歌は焦ることなく、完璧な角度でカーテシーをとる。
前世のゲームの記憶の中では、小紫透歌は最後までこの父親との距離を縮めることができなかった。
公爵は常に国政で忙しく、厳格で、家族に対しても滅多に感情を表に出さない氷のような人だったからだ。
だが、あの最悪の断罪の場で、最後に小紫公爵が娘に向けて見せた表情を、今の透歌はゲームの画面越しに知っている。あれは、愚かな娘に対する失望の顔ではなかった。
もっと早く娘の歪みに気づき、救ってやれなかったのかという、深い悔恨の表情だったのだ。
(味方は、遠くを探さずとも、最初からこんなに近くにいてくださったのね)
「理由を聞こうか。八歳の子どもが、人形遊びよりも帳簿に夢中になる理由を」
「将来、この偉大なる小紫公爵家を背負い、あるいはより高位の場へと嫁ぐ者として、経済の無知は許されません。それに……」
透歌は、わざとらしく一拍の沈黙を置いた。
「現在の王都の情勢も、何やら不穏で不安定なように見受けられますもの」
公爵の片眉が、わずかにピクリと動いた。到底、まだ世間のことなど何も知らないはずの、八歳の幼い娘の口から出るような言葉ではない。
「……何を感じたというのだ、お前は」
「――『聖女』の出現、にございます」
書庫の空気が、一瞬にしてピリついたものへと変わる。まだ教会の奥に隠され、公式には学寮にも入っていない平民の少女の名前を、透歌はあえてこの場で明確に口にした。
萌乃が聖女として世に見出され、人々を魅了していくのは、いわばこの世界の「物語の強制力」だ。
ならば、それを力任せに圧殺することは難しい。
「無知なる民は、目の前で起こる一過性の『奇跡』に容易に酔いしれます。ですがお父様、奇跡は病を一時的に癒やすことはできても、持続的な社会の制度を作ることはできません。国を、そして民の命を本当に支えるのは、確かな財と、それを動かす人間に他なりませんわ」
公爵は腕を組み、完全に沈黙して娘の言葉を聞いている。その視線に応えるように、透歌は毅然として言葉を続けた。
「小紫家が主導となり、民へ直接的な支援を行うための新たな制度を作りませんか?貧困層のための救済基金の設立、各地の医療院への定期的な資金援助、そして農民たちの生活を底上げするための農地改革の補助金……。聖女の気まぐれな奇跡などに頼らずとも、この国は我が公爵家のシステムによって回っているのだと、平民から貴族にいたるまで、骨の髄まで示して差し上げるのです」
長い、静寂が二人の間に流れた。やがて、小紫公爵はゆっくりと、その厳格な口元を満足げに緩めた。
「……面白い。一体それを、誰に教わった」
「すべて、この書庫にある素晴らしい本たちから学びましたわ」
透歌はふっと微笑む。嘘は言っていない。前世という名の、未来の出来事がすべて記された膨大な資料から引用しただけなのだから。
「よかろう」
公爵は短く、しかし確かな信頼を込めて告げた。
「まずはその計画の試案を作れ。私が直接、目を通してやろう」
「ありがとうございます、お父様」
透歌は深く、優雅に頭を下げた。第一段階は、完全な大成功だ。
その夜。透歌は、自室に据えられたマホガニーの重厚な机に向かっていた。
シルクの寝間着に身を包んだ小さな身体で、彼女は羽ペンを走らせ、何枚もの「救済基金」と「医療援助」に関する具体的な設計案を書き上げていく。
前世の知識にある現代社会の福祉制度を、この世界の法律や税制に合わせて翻訳していく作業は、知的な興奮を伴うものだった。
カリカリと静かな音が響く部屋の中で、ふっと、机の端に置かれた燭台の炎が不自然に大きく揺れた。
『実に見事な手際だな。順調のようだ』
部屋のどこからともなく響いてきたのは、低く、まったく感情の起伏が感じられない男のものとも女のものともつかない声だった。
「……また来ましたのね、観測者」
透歌はペンを動かす手を止めず、ただ声のした空間に向けて視線だけを投げかける。当然、そこには誰もいない。
姿は見えない。だが、確固たる異質な気配が、そこに確かに存在していた。
『前回の歴史において……貴女はただ、目先の嫉妬と感情だけで動く人形だった』
「今回は違いますわ。徹底的に理性と、積み上げた現実だけで動いてみせます」
『だが、聖女の持つ因果は強力だ。世界そのものが彼女を全肯定しようとする。物語の強制力、あるいは補正と呼ばれるものが、近いうちに必ず貴女の前に働く可能性が高い』
透歌はそこで、ようやくピタリと羽ペンを止めた。そして、暗闇に向かって傲然と言い放つ。
「なら、その理不尽な補正とやらを、力ずくで叩き潰せるほどの圧倒的な現実の成果を、あらかじめこちらが積んでおくだけの話ですわ」
その小さな背中には、冷徹で静かな決意が満ちあふれていた。
「物語が、あのヒロインにとって都合よく勝手に進むというのであれば。こちらもそれを見越して、都合よく罠を準備して差し上げるだけ。ただそれだけのことでしょう?」
一瞬、部屋の空気が、肌にまとわりつくように重くなる。
『……興味深い。前回の観測データにはない、イレギュラーな精神構造だ』
「そんなに面白いのでしたら、あなたもただ見ているだけではなく、少しは干渉して手を貸したらどうかしら?たとえば、わたくしと同い年の子供の姿にでもなって、小紫家に仕えてくれてもよろしくてよ?」
『それはできない。観測者は、ただ事象の顛末を観るのみだ』
透歌は、ふっと愉しげに唇を釣り上げた。
「なら結構ですわ。せめてその特等席で、最後にわたくしが掴み取る、完璧な勝利の結末をしっかりと観測してちょうだい」
声の主は、まるで少し迷うかのように、長い沈黙を保った後、そのまま気配を霧のように消し去った。
それから、数日後のこと。公爵邸に、王宮の紋章が捺された正式な書状が届けられた。それは、二年後に行われる学寮への入学を見据えた、同世代の貴族子女たちを一堂に集めるための、事前顔合わせの茶会の招待状だった。
(……ついに、来たわね)
書状を手にした透歌の目が、鋭く細められる。ゲームにおける、まさに最序盤の超重要イベント。
なぜならこの茶会の席こそが、小紫透歌と、特例として招待された平民の聖女・萌乃が、初めて直接顔を合わせる舞台だからだ。
そして――私にとっての、最初の『選択肢』の場面。透歌は静かに、招待状の封を閉じた。ゲームの本来のシナリオでは、小紫透歌はこの茶会で大失敗を犯す。
貴族の常識を持たない聖女の、悪意のない無邪気な発言や無作法に対して激昂し、大勢の前で辛辣な皮肉を浴びせ、結果として王太子や他の攻略対象たちに
「なんと冷酷で高慢な令嬢なのだ」
という最悪の第一印象を植え付けてしまうのだ。だが、今回の私は、その轍を踏むつもりなど毛頭ない。
「わたくしが、お望み通りの悪役令嬢らしく振る舞って差し上げなければ……あの忌々しい断罪フラグなど、最初から立ちようがありませんもの」
ふと窓の外に目をやると、庭にある桜の固い蕾が、ひとつだけ、わずかにその身を開き始めているのが見えた。
透歌は窓ガラスにそっと手を触れ、外の景色を見つめる。
「さあ、最初の選択肢ね。かかってきなさいな、強制力とやら」
運命の物語はまだ、始まったばかり。だが、この世界という名の盤面は、すでに彼女の意志によって激しく動き始めている。




