蕾の下の再起動
こちらは「断罪された悪役令嬢でしたが無能な王子と聖女に実務を丸投げしてきたので私が去った後の国が実質詰んでます~隣にいる有能な従者と領地改革して幸せになるので今更謝られても困ります」の連載版となっています!
七月二十九日現在、大幅な加筆・修正を行っています。理由は過去の自分の文章に爆発しそうになったため。
桜は、まだ咲いていなかった。
固く閉じた蕾の下で、小紫透歌は目を開いた。天蓋越しに差し込む春の光が、白い天井を淡く照らしている。
薄桃色の刺繍が揺れ、外では庭師の鋏の音が微かに響いていた。
(……ここは)
喉が焼けるように痛い。身体が重い。熱に浮かされたような感覚の奥で、現実が二重に重なっている。
視界の端に映るのは、豪奢な寝台と見慣れた公爵家の紋章。小紫家――王国随一の名門公爵家。だが、同時に脳裏へと流れ込んできたのは、まったく別の景色だった。
液晶画面。選択肢。キャラクター立ち絵。華やかな制服。攻略対象の微笑み。
そして――。桜舞う学寮の庭で、断罪される自分。
『小紫透歌、あなたとの婚約を破棄する!』
高らかに宣言する王太子。ざわめく生徒たち。勝ち誇ったように涙を浮かべる聖女。処刑台。歓声。エンドロール。
「……は、」
息が止まる。二つの人生が、私の脳内で激しく衝突した。公爵令嬢として生きてきた十六年。
そして、画面越しにその運命を笑って見ていた前世。
(わたくしは、あの物語の中の……悪役)
頬を、一筋の涙が伝った。恐怖ではない。すべてを理解した納得の涙だった。透歌はゆっくりと起き上がる。
指先はまだ小さく、白く、子どものもの。鏡台に映るのは、あどけなさを残す令嬢の姿だ。だが、その瞳の奥の光だけは、さっきまでとは明らかに違っていた。
ゲームのタイトルは、確か――《千年の恋・雅の契り》。
聖女・萌乃を主人公に、王太子をはじめとする攻略対象と恋をする乙女ゲーム。
そして小紫透歌は、テンプレート通りの悪役令嬢。高慢で、嫉妬深く、婚約者に執着して聖女をいじめ、最後には無惨に断罪される存在。
(……笑えない冗談ですわね)
前世での自分は、むしろ悪役令嬢に同情していた側だった。
「どうしてもっと賢く立ち回らないのか」
「どうして証拠を残すような真似をするのか」
「どうして感情的になって自滅するのか」
画面越しに、したり顔でそんな感想を抱いていた。その当事者に、今、自分がなっている。
「ならば」
透歌は小さな手を、ぎゅっと握りしめた。
「――脚本を書き換えましょう」
物語はまだ始まっていない。学寮入学まで、あと二年。婚約破棄の破滅ルートまで、約十年。時間は、信じられないほど十分にある。
透歌は深く息を吸った。前世の記憶は、ただの思い出ではない。
最強の『攻略情報』だ。
誰がどのルートで萌乃に惹かれ、どの選択肢で好感度が上がるのか。どのイベントが、私を処刑台へ送る断罪フラグになるのか。
すべて、この頭の中に叩き込まれている。聖女萌乃は、完全な演者だ。無垢を装い、涙を武器にし、無意識のフリをして他人を踏み台にする。
(まともに付き合って差し上げる必要なんてありませんわ)
透歌は、冷静に思考を巡らせる。前世で知ったゲームの知識。開示されていた設定。
張り巡らされていた伏線。そして、今世で手に入る公爵家としての現実の情報。その二つを重ね合わせれば、未来はいくらでも書き換えられる。
「絶対に、あの泥船には乗ってあげません」
小さく不敵に微笑み、透歌はベッドから足を下ろした。
「お嬢様、お目覚めですか?」
控えめなノックとともに、侍女が入室する。
「……ええ。少し、長く眠ってしまったみたい」
声はまだ幼い。だが、言葉の端に滲む落ち着きは六歳の少女のものではなかった。侍女は微笑み、カーテンを開ける。
庭の桜は、まだ蕾のまま。
「今年も、見事に咲きますよ」
「そうね」
透歌は窓辺に歩み寄る。固く閉じた蕾。まるで、今の自分のようだ。
(咲く時期は、決められている?)
いいえ。咲き方は、選べる。断罪のシーンを、透歌は鮮明に覚えている。
学寮の卒業式。全校生徒の前での婚約破棄宣言。罪状の読み上げ。取り巻き令嬢たちの証言。
だが、その証言の多くは、状況証拠と印象操作だった。決定的な証拠はなかった。
(ならば、先に証拠を押さえればいい)
萌乃の裏の顔を暴く?いいえ、それでは足りない。感情に訴えても、物語補正が働く可能性がある。
ならば――。盤面そのものを変える。
王太子との婚約を、政略としてより強固なものにする。小紫公爵家の政治的影響力を拡大する。学寮内での評価を、高慢な令嬢から有能な次期公爵へと塗り替える。
悪役令嬢というラベルを、貼らせない。そのとき、胸の奥で何かが微かに震えた。
『観測を開始』
聞き覚えのない、しかしどこか冷たい声。透歌は目を細める。
「……誰」
返答はない。ただ、空気が一瞬だけ重くなる。前世にはなかった存在。それとも、気づかなかっただけか。
(物語には、観客がいる)
前世の自分も、その一人だった。ならば今、この世界を見ている何かがいても不思議ではない。透歌は、ふっと笑う。
「観ていなさい」
窓の外の蕾を見つめながら、静かに告げる。
「悪役令嬢が、幸福になる結末を」
桜は、まだ咲いていない。だが、確実に春は近づいている。小紫透歌は、ただ運命に翻弄される少女ではない。
脚本を知る者。そして、書き換える者。断罪エンドも、処刑エンドも、もう選ばない。彼女は、ペンを握った。
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