最初の選択肢
小紫透歌は書庫の奥に立っていた。
高い天井まで続く本棚。政治、経済、軍事、外交。公爵家が蓄えてきた知の結晶。その中央に、まだ背の低い少女が一人。
「この年齢で財政報告書をご覧になるのですか?」
老執事が、困惑を隠せずに尋ねる。
「ええ。父にお伝えして。わたくしも、領地経営を学びたいと」
透歌は淡々と答えた。前世の記憶が戻ってから三日。
彼女はまず、“土台”を固めると決めた。
乙女ゲームの舞台は学寮だが、断罪を支えるのは政治だ。
王太子が婚約破棄を宣言できたのは、世論が味方についたから。
そして世論を動かしたのは、聖女萌乃の奇跡と、公爵家への「高慢」という印象。
(印象は、操作できる)
透歌は分厚い帳簿をめくる。
小紫公爵家は、王国最大の財源を持つ名家。
だが、王都では「強すぎる家」として警戒もされている。
そこに、聖女という“民衆の味方”が現れた。
構図は単純だ。
冷たい権力者と、温かな聖女。
(物語として、美しすぎる)
ならば――。
透歌はページを閉じた。
「公爵家が民に近づけばいい」
力だけではなく、支持を。恐れではなく、信頼を。
そのとき、扉が静かに開いた。
「透歌」
低く、穏やかな声。
振り返れば、父――小紫公爵が立っていた。
威厳に満ちた姿。鋭い眼差し。
「執事から聞いた。財政を学びたいそうだな」
「はい、お父様」
透歌は礼をとる。
前世では、この距離を縮められなかった。
公爵は忙しく、厳格で、感情を表に出さない人だった。
だが、断罪の場で彼が見せた表情を、透歌は知っている。
あれは、失望ではなかった。
悔恨だった。
(味方は、最初からいた)
「理由を聞こう」
「将来、公爵家を背負う者として無知ではいられません。それに……」
一拍置く。
「王都の情勢も、不安定ですもの」
公爵の眉が、わずかに動いた。八歳の娘の言葉とは思えない。
「何を感じた」
「聖女の出現です」
空気が変わる。
まだ学寮にも入っていない少女の名を、透歌はあえて口にした。
萌乃が聖女であるのは物語の強制力。
「民は奇跡に酔います。ですが、奇跡は制度を作りません。支えるのは、財と人です」
公爵は沈黙する。
透歌は続ける。
「小紫家が、民に直接支援を行う制度を作りませんか。救済基金の設立、医療院への資金援助、農地改革の補助金……聖女に頼らずとも国は回る、と示すのです」
静寂。
やがて、公爵はゆっくりと口元を緩めた。
「……誰に教わった」
「本からです」
嘘ではない。
前世という名の“膨大な資料”から。
「よかろう」
公爵は短く告げる。
「試案を作れ。私が目を通す」
透歌は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、お父様」
第一段階、成功。
公爵家を盤石にする。
断罪ルートの根幹を、静かに崩す。
その夜。
透歌は自室の机に向かっていた。
小さな身体で、何枚もの設計案を書き上げる。
すると、ふっと燭台の炎が揺れた。
『順調だな』
低く、感情のない声。
「……観測者」
姿は見えない。だが、確かにいる。
『前回の貴女は、感情で動いた』
「今回は理性で動くわ」
『聖女は強力だ。物語補正が働く可能性が高い』
透歌はペンを止める。
「なら、その補正を超える“現実”を積むまで」
静かな決意。
「物語が都合よく進むなら、こちらも都合よく準備するだけ」
一瞬、空気が重くなる。
『……興味深い』
「あなたは干渉しないの?」
『観測者は、観るのみ』
透歌は微笑む。
「なら最後に、わたくしの勝利を観測してちょうだい」
沈黙。
それが、肯定の代わりだった。
数日後。
王宮から正式な通知が届く。
二年後の学寮入学に向けた、貴族子女の事前顔合わせ茶会。
(来た)
ゲーム序盤イベント。ここで、萌乃と初対面する。
そして――最初の選択肢。
透歌は封を閉じる。
前世では、ここで失敗した。
聖女の無邪気な発言に苛立ち、皮肉を返し、周囲の印象を悪化させた。
だが今回は違う。
「悪役令嬢らしく振る舞わなければ、フラグは立たない」
桜の蕾が、ひとつ、わずかに開き始めている。
透歌は窓の外を見つめる。
「さあ、最初の選択肢ね」
物語はまだ、始まったばかり。だが盤面は、すでに動いている。
小紫透歌は、ゆっくりと微笑んだ。
今度こそ処刑台ではなく、玉座の隣に立つために。




