作家と放火魔
文雄は円上の主張に世間への問いかけを付け加えた。
彼の主張は身勝手な論理かもしれない。しかし、悪事を行なう連中に個人では対抗できないほどの政府のような巨大な権力組織がついているなら、まともな方法で正義を貫くことはできないだろう。
権力に迎合する人。
無関心を装う人。
違法すれすれで対抗する人。
法を犯して対抗する人。
知らぬうちに一部の人間によって決められた法と、己の正義のどちらに価値を置くか。法を守って暮らすことは、安心だが、幸せとは限らない。法は共同生活のためのルールであり、絶対的なものではない。が、ルールを破れば、ルールを守っている人々に何らかの謝罪は必要だ。それが、どのような罰になるのか、軽いのか重いのかはきっと別のこと。代筆者として彼に謝罪の心が生まれることを心より願う限りである。
文雄の文は約束通り主な新聞、雑誌や報道番組でそのまま掲載された。しかし、中には犯人の主張だけで、彼の追記はあえて削除したものもあった。犯人の主張はとうてい一般人には受け入れ難いものではある。しかし、人はだれでも多かれ少なかれ似たような周囲への迷惑を繰り返しながら生活をしている。
例えは悪いが、作家は、人々が見過ごしていることに対して、その意識に火を点けて悦にいる。現実の世界で火を点ける放火魔は迷惑な存在だが、作家は想像の世界で放火を行なう。
だから、文雄は放火魔の心理が理解できたのかもしれない。ネットなど電脳環境で炎上させようとする連中もきっと同じだろう。表現方法がどの程度迷惑かの違いだけ。
作家にだって、迷惑な表現をするものもいる。ただ、作家は読者に永遠の謎を残す。その謎解きを読者が試行錯誤し続けられる間は、その作品は生き続ける。詳細な解説は、作品のその面白さを失わせる。
答えの明かされない推理小説。推理は読者の自由だ。だから、自分の推理が合っているかどうかなんて作者に問い合わせるのはナンセンスだ。そういう愚行に対して、作者はまともに答えてくれないだろう。




