魔女の過去(1)
蟲使いヘンリーとの凄惨な戦いが明けた翌夜。
黒の魔女と黒猫の使い魔は、森の奥に佇む木こりの小屋へ再び姿を現していた。
「元気にしてる? ていうか……前より調子いいくらいじゃない?」
圧倒的な魔力でヘンリーをねじ伏せ、「主従の茨」を刻みつけた張本人――ナージャが、皮肉めいた笑みを浮かべて覗き込んでくる。
実際、ヘンリーは己の肉体の異変を感じ取っていた。
岩と同化しかけ、ズタズタに引き裂かれたはずの右半身は完全に再生しているばかりか、全身を巡るマナの奔流は、戦いの前よりも遥かに力強く、深く輝きを増している。大地のマナを強制的に接続された副産物か、あるいはこの魔女の呪いの影響か。
ヘンリーは腕を組み、冷ややかな視線を魔女へ向けた。
「……問題ない。それで、新しい雇い主。貴様は何者だ?」
「あら、いきなりね。私の下僕の分際で、ずいぶんな物言いじゃない」
「俺は暗殺者だ。媚びを売るのは専門外でね。嫌なら、今すぐその茨で心臓を握り潰せばいい」
死を恐れず、淡々と己の矜持を口にする男。ナージャはその言葉に眉ひとつ動かさず、くすりと小さく喉を鳴らした。
「冗談よ。喋り方なんてどうでもいいわ。……私の名はナージャ。そうね、昔は『濡羽色の魔術師』なんて呼ばれていたこともあったかしら」
――濡羽色の魔術師。
その異名を聞いた瞬間、ヘンリーの冷徹な瞳が僅かに揺れた。
魔道大国ノルマンが生んだ世紀の天才――現代魔術の父と称される大魔術師インダルフ。その唯一の女弟子にして、歴史の影にその名を刻んだ伝説の人物。
魔術を学ぶ者でインダルフの名を知らぬ者はいない。
彼はかつて漠然と行使されていた魔導体系を「自然魔術」「白魔術」「黒魔術」の三種に大成させ、さらに自然魔術においては月・火・水・木・金・土・日の『七曜』を定義。現代に続くすべての魔術基礎を築き上げた偉大な先駆者だ。
だが――彼は晩年、魔石の解析研究の最中、信頼していたたった一人の弟子に暗殺されたと伝えられている。
「……『濡羽色の魔術師』だと? あれは二百年も昔の童話のような話だ。それに……彼女は師殺しの国家反逆罪で、即座に処刑されたはずだが」
「私はハーフエルフよ。二百年くらいで死ぬわけないでしょう。それに……師の指示で死んだように偽装しただけ。ご覧の通り、私はピンピンして生きているわ」
「師の指示で、か……」
ヘンリーは追及をやめ、深く息を吐いた。歴史の裏に隠された絶大な秘密。この魔女が纏う圧倒的な異次元の気配にも、ようやく合点がいった。
ナージャは月明かりを浴びながら、遠い目をして漆黒の夜空を見上げる。
彼女の脳裏に、あの日――師インダルフと出会った、二百年以上も昔の記憶が鮮やかによみがえっていた。
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それは、現在から二百数十年ほど過去のお話。
魔道王国ノルマンの片隅。薄汚れた教会の孤児院が、ナージャの幼少期の記憶にある最初の場所だった。
そこは、生きていくことすら苛酷な地獄のような場所だった。
戦争孤児、貧困で捨てられた子、訳ありで身寄りを無くした子――社会の底辺に追いやられた子供たちが、泥に塗れて肩を寄せ合っていた。
「おい、ナージャ! あのパン屋から食料盗もうぜ!」
「いいよ。でもヘボいヘマして足引っ張らないでよね」
ナージャにとって、孤児院の仲間と街で盗みを働くのは日常だった。
国からの最低限の配給と僅かな寄付金など、育ち盛りの子供たちの飢えを満たすにはあまりに程遠い。一日一回、カビの生えた硬いパンと泥水のようなスープ。生き残るためには、奪うしかなかった。
「私は今日、貴族街の近くまで足を伸ばしてくる。あっちの高級店の方が客でごった返してるし、店員も気取ってて間抜けだから盗みやすいのよ」
ナージャはすばしっこかった。
子供ゆえの小柄な体躯と、野生動物のような敏捷性。ノロマな大人たちに捕まるはずがないという、絶対の自信があった。
「泥棒だ! 誰か捕まえてくれ!!」
数分後。大きめの焼き立てパンをいくつも抱え、店を飛び出すナージャの背後で店員の絶叫が響く。
(へっ、ほら見ろ! 案の定スカした店員どもは鈍くさい。今日は大漁だ。みんな待ってな、すぐ帰るから――)
ニヤリと笑い、路地裏へ蹴り出そうとした……その瞬間。
気配すら感じさせず、突如として背後から首根っこを掴まれ、逃げる間もなく冷たい石壁へ叩きつけられた。
「——私、子供と泥棒は嫌いなの。孤児院の子? ちゃんと教育しなさいよ」
「っ……ガ、ハっ……!?」
視界が揺れる。ナージャを抑え込んだのは、背が高く、見事に鍛え上げられたしなやかな体躯を持つ女だった。短く切り揃えられた金髪に、隙のない精悍な顔立ち。不意を突いたナージャの逃走を完全に予見し、一瞬で抑え込む動きは、明らかに常人のそれではない。
「これはこれは、ミーナ様! 助かりました、泥棒を捕まえていただきありがとうございます!」
駆け寄ってきた店員が、顔なじみの女騎士——ミーナに深く頭を下げる。彼女はノルマン王国騎士団の精鋭であり、休暇中に買い物へ訪れていたところ、この騒ぎに出くわしたのだった。
「このクソガキ……すぐ衛兵に引き渡してぶち込んでやる!」
頭に血ののぼった店員がナージャを縛り上げようと縄を取り出した、その時。
「待ってくれ。彼女が盗んだもの、僕がすべて買い取ろう」
ミーナの隣に立っていた男が、穏やかな声で静かに割り込んだ。
男は懐から革袋を取り出すと、盗まれた商品の数倍に及ぶ金貨を店員の手に握らせた。
「これで……彼女を許してはもらえないだろうか?」
「ちょっとちょっと、インダルフ。また始まったわ。あなた、子供に甘すぎるのよ」
ミーナが呆れたように溜息をつき、隣の男を見上げる。
壁に押さえつけられたまま、ナージャもまた、理解不能な行動をとるその男を見上げた。
そこにいたのは、背が高く、溢れんばかりの知性と凛々しさを纏った、恐ろしいほど整った容貌の男だった。
男は驚きに目を見開くナージャに対し、まるで荒んだ世界に光を挿すかのような、あたたかく不思議な笑みを向けた。
——それが、ナージャとインダルフの、すべての始まりとなる出会いだった。




