屋敷の灯り
◇
王都滞在所の小居間へ、朝のうちに書面が届いた。
公開試験記録と技術照合書の写し。添えられた封書は二通あった。一通は、リディア個人を王都直属の修理職として任用する書面。もう一通は、西門の定期保守を領地のエルマー工房へ委ねる契約書だった。
リディアは宛名と責任の欄を読み比べた。
王都に残れば、用意された設備を直す。領地へ戻れば、受けるか断るかを自分の工房で決め、その工房から西門も直す。
迷う長さの選択ではなかった。任用書へ辞退の返書を添え、西門保守契約の営業者欄へ署名する。
「決めたか」
向かいでヴァルターが言った。
「はい。エルマー工房から、西門も直します」
「分かった」
彼は革鞄から二通を出し、卓へ並べた。
一通は工房使用契約。王都へ発つ前の夜には、工房権ごとこちらの名へ移す書付だった。それが、権利を移すのではなく使う権利を残す契約へ書き直されている。婚姻を解消しても同じ条件で有効とあり、受注も、修理の可否も、材料も、閉鎖の判断も、リディアに残る。工房の収入は家計へ先取りされない。
もう一通は、婚姻解消書だった。王都へ発つ前の夜に見た書面だ。あのときは日付ごと引き出しへ戻された。いまは卓の上にあり、先に入っているのは彼の署名だけで、日付とリディアの欄が空いている。
リディアは工房使用契約から読み、署名した。工房主の欄には、彼の署名がすでに入っている。仕事と場所の権利は、婚姻がどちらへ転んでも変わらない。
それから、解消書へ目を戻した。
筋は、最初から通っていた。
いずれ、話す——使者の来た日に保留された答えは、王都へ発つ前の夜に聞いた。壊れる前の兆候を見る目を、工房と家に入れる。あの夜、そう確かめたとき、彼は違うと言わなかった。目は西門で仕事を果たし、公印は砦の裁定まで覆した。妻の形で入れられた腕は、用を済ませた。
破談の前から目を付けられ、道具ごと迎えられ、閉じた工房を開けさせてもらった。一年の出口は、最初からこちらの手に持たせてあった。見極めの期限だと、婚礼の夜に見当をつけた。その見極めは済んだのだ。腕は使われ、認められた。それなら、妻の形はもう要らない。
今朝、この紙がもう一度出てきた。それが、答え合わせだった。
「筋の通った家でした」
リディアはペンを取った。
「修理の腕を、妻の形で入れた婚姻でした。腕は役目を果たしました。形は、もう要らないはずです。出口の書面まで、先に整えてくださっています」
ヴァルターは答えなかった。リディアは続けた。
「この家の工房で、自分の名前の仕事を立てられました。いい共同経営だったと、思っています」
日付の欄へ、ペン先を運ぶ。
インクが紙へ触れる前に、一度だけ手が止まった。理由は探さなかった。探せば、条件の外の言葉になる。
紙が、動いた。
ヴァルターの手が、解消書を上から押さえていた。
四通の書面のあいだ、一度もこちらの選ぶものへ伸びてこなかった手が、紙の上にある。
「待ってくれ」
彼は手を離さないまま言った。
「その読みは、間違っている」
◇
紙を押さえた手は、動かなかった。
「読める者が要る、と言った」
ヴァルターの声は、いつもの高さのままだった。
「嘘ではない。だが、全部でもない」
そこで、言葉が止まった。
リディアはペンを置いた。
読みが間違っている。診断なら、聞き慣れた言葉だ。症状に合わない見立ては捨てて、組み直す。それだけのことだ。
材料を、並べ直す。
降り口は、いつも彼の側から来た。工房に封の貼られた夜の、この家と切れて立て直せという話。署名済みで先に用意されていた解消の書面が、王都の前に一度、今朝でもう一度。共同経営者は、相手の降り口を、三度も自分から用意しない。
西門の保証書。爵位と、領地の収入と、覆るかどうか分からない裁定。あの賭け金は、腕ひとつ借りる家の張り方ではなかった。合わない帳尻を、名誉の賭けと呼んで合ったことにしたのは、自分だ。
王都へ発つ前の夜。壊れる前を見る目の話だったのですね、と確かめたとき、彼は違うとも、そうだとも言わなかった。カップを見て、立って、書面を持ってきた。
いずれ、話す。あの保留は、まだ一度も、最後まで話されていない。
見立てが、症状に合わない。最初から、どこにも合っていなかった。
次の見立てを、いつもの癖で置きかけて、やめた。
この家に来た日から、ずっとそうしてきたのだ。自分で結論を置いて、そのたびに間違えた。物なら、読める。この人のことは、一度も読めていない。
「では、何のための婚姻だったのですか」
声は、思ったより静かに出た。
「今度は、あなたの口から聞かせてください。私はもう、読み違えたくありません」
ヴァルターが、紙から手を離した。空いたままの署名欄を見て、それから、まっすぐにこちらを見た。
「読める者が要る、というのは、家の中に立てた口実だ。あなたに言ったのも、その半分だ」
口実。王都へ発つ前の夜の無応答が、その一語の上に落ちた。
「欲しかったのは、腕ではない。あなただ。あなたが、この家で暮らすことだ」
彼の目は、逸れなかった。
「縁談の紙は、絶えず届いていた。どれと結んでも、家は続いた。自分から望んで出した打診は、あなたへの一通きりだ」
短い息を一つ挟んで、続けた。
「どうせ娶るなら――と、あのころは自分に言っていた。あなたを望むことを、自分に許すための言い方だ。あなたでなければ、駄目だった。最初からだ」
待っても、続きに条件は付かなかった。
「言えば、条件になると思っていた。あなたには、断れない婚姻だった。断れない人に、家主の望みは重ねない。自分の望みは、自分で抱える。そう決めていた」
彼は一度、息を吐いた。
「あなたはもう、断れない人ではない。分かっていて、言えなかった」
止まった場所の一つ手前に、起点がある。故障の読みと、同じだった。
「……抱える癖だけが、残っていたんですね」
「……そうだ。読み違えさせたのは、私だ」
ペンを持つ意味のなくなった手が、膝の上で開いた。
「リディア」
名前だけが、先に呼ばれた。
「残ってほしい」
紙を押さえていた手が、卓の上で開かれた。
「あなたと暮らしたい」
リディアの指先が、その手の甲へ伸びた。触れても、手は引かれなかった。
「私も、あなたと暮らしたいです」
条件の言葉を、一つも探さずに言えた。
二人は白い紙を一枚、卓の中央へ置いた。
記したのは、婚姻の継続を二人が望むこと。一年後にリディアから解消を求める権利と、婚姻から独立した工房の契約は、変えないこと。仕事の条件は、書かなかった。
リディアが先に署名し、ヴァルターが隣へ名を書いた。
リディアの欄が空いたままの解消書は、破らずに封筒へ戻された。
領地へ戻った最初の夕方、エルマー工房の受付には、新しい依頼品が待っていた。
小さな魔法道具と、持ち主の名を書いた依頼札。扉の封印札は、もうない。
リディアは鍵を錠へ差し込んだ。一度で回る。
扉を開けると、油と金属の匂いが返ってきた。
ヴァルターが依頼品の荷箱を入口へ置く。
「今夜は、一緒に夕食を取りたい」
仕事の手配の声ではなかった。
「最初の診断に二刻かかります」
「待っている」
「……急ぎます。温かいうちに、食べたいので」
言ってから、少し驚いた。頼みでも、礼でもない言葉が、先に出ていた。言っても、条件にはならなかった。
ヴァルターは一度だけ振り向いてうなずき、屋敷へ戻っていった。
リディアは依頼品を作業台へ置き、指を添えた。微弱な魔力を流す。最初の反響が、いつものように指先へ返ってくる。
手を動かしながら、開いたままの扉の外を一度だけ見た。中庭の向こう、屋敷の窓に灯りが入っている。
読まなくても、意味の分かる灯りだった。




