第七十話 あなたに付けてほしいの
「ずっと、飾れなかった布があります」
夕方、クラウスに言った。
「今日——飾ってもいいですか」
「どこに」
「大広間に」
クラウスが少し間を置いた。
「……飾れ」
大広間に全員が集まった。
ヘルミーネが来た。ヨハンが来た。リゼッテが来た。フリッツが来た。使用人たちが来た。誰かが誰かに話して、いつの間にか人が集まった。
イレーネは嫁入り色の布を持っていた。
最初にグラウエンに来た日、荷物の中に入れてきた布だ。染色師として一人前になった時に師匠から贈られた、最初の布。嫁入りに持っていける色として染められた深い、誇り高い色だ。この城に来てから、ずっと部屋の棚にあった。飾る機会を、待っていた。
大広間の壁に、広げた。
「……」
誰も声を出さなかった。
嫁入り色が、大広間に広がった。大きな布だ。壁に沿って広げると、部屋の空気が変わった。春の日暮れの光が窓から入って、布の色に当たっている。
「この色が——これほど」とクラウスが言いかけた。
珍しかった。クラウスが言葉を失うのは、ほとんどない。
「……大きいな」とだけ言った。
「この城に来た日から、ここに飾りたかったんです」とイレーネは言った。「でも——まだ早い、と思っていました」
「今日は早くないのか」
「今日は——ちょうどいい日だと思いました」
クラウスが布を見た。
しばらく、誰も動かなかった。ヘルミーネが布を見ていた。ヨハンが布を見ていた。リゼッテが布を見ていた。
「新しい色は」とクラウスが言った。「名前をどうする」
「……あなたに付けてほしいの」
言葉が自然に出た。
「わたしが」
「はい」
「……わたしは色の名前を知らない」
「知らなくていいです」とイレーネは言った。「この土地の人に、名前を付けてほしいんです。染めた人間ではなく——この土地の人に」
クラウスが少し黙った。
「グラウエン色」と言いかけた。言いかけて、止まった。「……お前が、いい名前を知っているだろう」
「クラウス様が付けてくれた名前の方が——この土地に残ります」
「お前が名付けた色は——消えない。この土地に残る」とクラウスは言った。「それと同じように——」
「……」
「俺が付けた名前も、お前が付けた名前も——残る。どちらでもいい」
大広間が静かだった。
ヘルミーネが目を細めて布を見ていた。ヨハンが遠くを見るような顔をしていた。リゼッテが少し涙をこらえていた。フリッツが静かに立っていた。
「クラウス様」とイレーネは言った。
「……」
「この城が——好きです」
言えた。
クラウスが、イレーネを見た。
何も言わなかった。でも、石みたいな顔が——今日は石ではなかった。
「……知っている」とクラウスは言った。短く。それだけ。
「後で話す」と言っていた人が、今、ここにいる。そしてその「後で」は、もうすでに始まっている気がした。
嫁入り色の布が、大広間に揺れた。
「名前は——明け城色、にしましょう」とイレーネは言った。「灰色が終わって、色が明けた朝、という意味で」
「……いい名前だ」とクラウスは言った。
大広間に、色がある。
この城に、色がある。
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