第六十八話 三十年かけて育った木の実
翌朝、ヨハンが部屋の前まで来た。
「奥方様——実がなりました」
声に弾みがあった。ヨハンの声がこういう時に弾むことは少ない。静かな人だ。でも今朝は違う。
庭に出た。
木の前に立った。
「……」
小さな実が、枝先に揺れていた。赤みを帯びた、小さな実。親指の先ほどの大きさだが、鈍い光を帯びている。一つではなく、いくつかある。
「取っていいですか」
「どうぞ」とヨハンが言った。
実を一つ手に取った。ずっしりとは来ない。でも——確かに重さがある。皮が少し弾力を持っている。熟している。
「この木は」とヨハンが言った。「三十年前に植えられた木です」
「……誰が植えたのですか」
「分かりません。褫奪令が出た年に——誰かが植えていきました。記録には残っていないんです。ただ、手入れをしていた人が次の人に伝えて、わたしの師匠に伝わって、わたしに伝わった」
「誰かが」とイレーネは言った。「いつかまた染めが戻ると信じて、植えていったのですね」
「そう思います」
「その人は——今、これを見られないかもしれない」
「……かもしれません」とヨハンは言った。「でも、木が待っていた。実がなった。それは本当のことです」
実を掌に乗せた。
「この土地の水と、この土地の土で育った植物の実です」とヨハンが続けた。「グラウエンだけの色が出るはずです。どんな色かは——染めてみないと分かりませんが」
「染めてみましょう」
「はい」とヨハンが答えた。目が輝いている。ヨハンがこういう顔をするのを、今日初めて見た。
足音がした。
クラウスが庭に出てきた。
木を見ていた。実を見ていた。イレーネが手に持っている実を見た。
「……三十年か」
呟いた。
「クラウス様」とイレーネは言った。「この実で——グラウエンの色を染めてみます」
「そうか」
「色は……どんな色になるか、分かりますか」とクラウスが聞いた。
珍しかった。クラウスが染色について具体的に聞くのは、初めてだった。「何の色か」「どうなるか」という問いを、自分から言ったことはなかった。
「……染めてみないと分かりません」とイレーネは答えた。「でも——きっと、この土地の色です」
「この土地の色」
「グラウエンにしかない、この土地の水と土と時間で出た色です」
クラウスが実を見た。
「……見せてくれ。できたら」
「もちろんです」
三人で、しばらく木を見た。
三十年かけて育った木が、今日、実をつけた。褫奪令が出た年に誰かが植えた木が、令が撤回された年に実をつけた。
偶然かもしれない。でも、そうは思えなかった。
次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。




