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夫は色の名前をひとつも知りませんでした。けれど私が染めた布を、一枚も手放しませんでした  作者: ヲワ・おわり


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第六十五話 俺はずっと灰色しか知らなかった

翌朝、クラウスを廊下で見つけた。


「一つ聞いてもいいですか」


「……何だ」


「染めた仕事の——何が、信頼できると思ったのですか」


聞くのが怖い気もした。でも昨夜から膨らみ続けた問いが、今朝になって外に出た。


クラウスが立ち止まった。


しばらく、黙っていた。


「……俺はずっと」とクラウスは言い始めた。


「この城が、この土地が——灰色しかないと思っていた」


「……」


「灰色が当たり前だった。生まれた時からそうだったから、それが正常だと思っていた。色があることが正常で、灰色が異常だとも——知らなかった」


「クラウス様は——色のある場所を見たことがありますか」


「王都には行ったことがある。色はある。だが——自分の土地ではないから、他人事だった」


廊下の光の中に、クラウスが立っていた。


「あなたが来て」と続けた。「染めた布を——初めて見た」


「……最初の茜の布ですか」


「そうだ。あれを見た時——」とクラウスが言いかけた。「何かが変わった。説明できなかった。今でも上手く言えない。ただ——色というものを見たのではなく、感じた。初めて」


「感じた」


「説明できるものではない。ただ、そうだったというだけだ」


クラウスが窓の外を見た。庭が春の光の中にある。


「お前が染めた布を——一枚も手放せなかった」とクラウスは言った。


「……え」


「書斎に、工房から出た布がある。この城に色が戻るたびに、一枚ずつある。意味が分からなかったが——手放せなかった。今は分かる。その色が——俺にとって意味があるから、だ」


胸が重くなった。


染めた布が、書斎にある。一枚ずつ。最初の茜から、今まで。手放せなかった。この人は色の名前もほとんど知らない。覚えてもすぐに忘れる。でも布は、残していた。


「色の名前をひとつも知らない」とクラウスは言った。「お前が教えてくれた名前も、すぐ忘れた。霧朝という名前だけ、覚えている。しかし——」


「しかし?」


「名前を知らなくても——この土地の色だということは分かる。ここにしかない色だということは分かる」


言葉が出なかった。


「クラウス様——」と呼びかけた。


クラウスが「続きは後でいい」と遮った。


「まず、王都への上申を通す。その後——話す」


一礼した。廊下を歩いていった。


その背中を見た。


「後で、か」とイレーネは呟いた。


「後で」という言葉が約束のように残った。この人が「後で話す」と言った。話すことが、ある。


廊下の光の中で、その背中が遠くなった。

次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。

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