第五十四話 染める人間がいなかった
翌朝、クラウスから呼ばれた。
書斎の扉の前に立った。昨日とは逆に、扉はきちんと閉まっている。ノックして入ると、クラウスは机の前の椅子に座っていた。窓の光が入っている。
「座れ」
昨日と同じ言葉だった。椅子に座った。
しばらく沈黙があった。クラウスが言葉を選んでいる沈黙だ。それは分かるようになっていた。
「……十五年前」とクラウスは言った。「この令の追補条項を見つけた時——染め師を呼ぼうとした」
「……」
「王都に問い合わせた。各地の染色師の組合にも。来ないか、と」
「来なかったのですか」
「遠すぎる」とクラウスは言った。声は平らだった。感情のない声ではなく、感情を抑えている声だ。「報酬を払う用意はあった。でも——灰色の土地と呼ばれていた場所に来る染色師は、いなかった」
「……」
「文化の死んだ土地には行かない。仕事にならない。そういう理由だ」
「それが十五年前の話ですか」
「そうだ。それ以来、何度かあたった。断られ続けた。気がつけば十五年経っていた」
イレーネは膝の上で手を組んだ。
「……この令は、使えない事実のままだった」とクラウスが続けた。「期限が切れた権利があっても、使える者がいなければ意味がない。だから書斎の棚に入れたままにした」
「染める者がいない」という書き付けは、そういう意味だったのだ。報告書ではなく、あきらめの言葉だったのだ。
「あなたが来てから——」
昨日の続きが来た。
「初めて、この令が意味を持った」
「……」
胸の中で、何かが動いた。
「この人は十五年間、使えない権利を抱えていた」という理解が来た。法的には権利がある。でも使えない。染める者がいないから。それを知っていて、抱えてきた。そしてイレーネが来て——初めて意味を持った。
「……ありがとうございます、と言うべきか」とイレーネは言った。「怒るべきか、分からない」
「怒っていい」とクラウスが言った。
「隠していたことは事実だ」
「……そうですね」
「準備ができてから話すつもりだったが、時間がかかりすぎた。その間にディートリヒが来た。判断が遅かった」
クラウスが自分の判断を誤りだと認めた。それも初めてだった。
「しかし」とクラウスは続けた。「この令の追補条項を使う気があるなら——ディートリヒに突きつけられる。正式な書類として提出できる」
「……できるのですか」
「手続きは残っている。数日かかる。しかし期限内に間に合う」
イレーネは顔を上げた。
「やり方を教えてください」
「……一緒に行く」
クラウスの口角が、わずかに上がった。
石みたいな顔が、ほんの少しだけ、崩れた。
こんな顔をする人だったのか、とイレーネは初めて思った。
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