第四十九話 ここにいていいのか
朝、眠れないまま夜が明けた。
庭に出た。春の空気は冷たかった。体を動かさなければ、頭の中がうるさいままだ。
工房の外を歩いた。
建物の外から、工房を見た。石造りの小屋だ。元は物置か馬具の保管庫だったものを、クラウスが使用許可を出してから整えた。窓を付け加えて、換気口を作って、染液の桶が並べられるように床を補強した。
「自分が作った場所だ」と思った。
でも——今日この瞬間、その工房が少し遠くに見えた。
「わたしはここに嫁いだのか、染めに来たのか」
声に出した。誰もいない庭で、言葉が空気に溶けた。
政略結婚だった。それは最初から分かっていた。辺境伯家に必要なのは妻だったのか、染色師だったのか——正確には知らない。クラウスは「城の中のことは任せる」と言った。それが許可の言葉だった。最初の会話で、染めることを許された。だから染め続けた。
でも、クラウスはわたしに何を求めているのか。
「……考えないようにしていた」
自覚が来た。クラウスとのことを、ずっと考えないようにしていた。染めることに集中していれば、考えなくて済んだ。上着を置いていかれた夜も、工房の費用を知った朝も、「この人は何か思っている」と感じながら、それ以上は踏み込まなかった。
踏み込む必要がないと思っていた。
「もしここを追い出されたら」
考えたくなかった言葉が出てきた。
工房を閉めろと言われたら。活動停止の署名をして、それで終わりだと言われたら——わたしはどこへ行く。実家に戻るのか。師匠のところに戻るのか。グラウエンの外に出れば、ここで戻しかけた色は、また誰かが引き継ぐか、誰も引き継がないかのどちらかだ。
「……」
立ち止まっていた。
ヨハンが遠くで木の手入れをしていた。気づいているはずだが、声をかけてこない。いつものことだ。ヨハンは空気を読む人だ。
視線が、その木に行った。
師匠の木だ。十年以上前に植えられた、まだ実をつけない木。染料の実がなるまで何年もかかる。ヨハンはそれを知っていて、毎年手入れをし続けている。
「まだ、実をつけないな」
木は黙っている。当たり前だが、黙っている。でも、枝の先に新しい緑が出ていた。春になるたびに、少しずつ育っている。
「この木は、場所を選べない」とイレーネは思った。「ここに植えられて、ここで育つしかない」
「奥方様」
リゼッテが後ろから来ていた。
「お顔の色が……昨夜あまり眠れませんでしたか」
「……少し」
「無理しないでください」
「大丈夫です」と答えた。大丈夫かどうかは、分からないけれど。
ヨハンの木を見た。
場所を選べない木と自分が、今朝は少し似ている気がした。
「ここにいていいのか」という問いの答えが、どこにもなかった。
庭の中で、工房を見ていた。自分で作って、自分が染め続けている場所が、今日だけ遠い。
「……」
リゼッテが隣にいる。ヨハンが遠くにいる。
それでも孤独だった。
午後になって、部屋にいると扉をノックする音がした。
「どうぞ」
扉が開いた。ヘルミーネだった。
珍しかった。ヘルミーネがイレーネの部屋を訪ねてきたことは、一度もなかった。
「少し、よろしいでしょうか」
その言葉の声が、いつもと違った。硬さがなかった。責めるような、値踏みするような、いつもの棘が——なかった。
次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。




