馬鹿と青空
ただひたすらに何も持たず、このビルまで6km走った。それから最上階まで駆け上がり、喉はカラカラ。迂闊だったとしか言えず、笑うしかない。
出てきた場所には大きな受付カウンターと椅子がいくつか置かれている。ガラスで仕切られた部屋も会議スペースになっていてテーブルと椅子が並んでいる。大きな窓は街の向こうまで抜けるような青空が切り取っている。床面は濃淡の違うグレーの長方形を組み合わせたフロアマット。
暑くてクラクラし始めた頭で眺めると、ここだけ現実から切り取られた天上の島のように感じられる。
もう一度気配を感じることに集中して、真っ直ぐ㭭幡さんがいるはずの場所へ向かった。
『こっち先に行ってやって欲しいのう』
突然、天照大神に声を掛けられた。扉を開けると机と椅子だけがある個室。これも無機質な部屋に女が一人倒れている。
「ふ、不二果さん?」
縛られている。解こうとしたが力技でぐちゃぐちゃに結ばれていて、とても手で解ける状態では無かった。手近な椅子で窓ガラスを叩き割り、ガラス片で縄目を切ってやった。
「お願い、光君を助けて」
頷いたはいいが、既に太基の耳は何人か人が駆けてくるのを捉えている。
「おうおう、やってくれたなクソガキが」
ニヤニヤ笑いながら歩いてくる男達から今更逃げることも出来なかった。ドアを塞がれてしまった。仕方なく不二果を後ろに庇って立ち塞がる。
こんなコンクリートの建物の中で生える植物があるわけがない。つまり『千の輝く太陽』は使えない。勝ち筋が見えない。
「不二果さん、とりあえず立って。とにかく……」
突然入ってきた男に呆けて座り込んでいた不二果がよろよろと立ち上がる。ドアは開いたまま。
「逃げて!」
斜め左に飛び出して体当たり。その後を追うように不二果が走り、倒れた男達の側を走りながらこちらを見ている。
「僕だけなら大丈夫!」
「ふざけんなクソガキ!」
何とか最初の数発、太基がパンチを避けるのを見た不二果は部屋から逃げ出した。はっきり言って不二果がその場にいても足手纏い。まずは素直に逃げてくれて助かった。
床を転がり、足元に体当たりしながら時間を稼ぐ。何回か蹴られた。猪に突進されたわけでなし、痛いが耐えられる筈と自分に言い聞かせた。
「うごあああーー!」
突如、別の部屋から野太い男の悲鳴が上がった。断末魔のような異様な叫びに、太基を取り囲む男達が動きを止め、何が起きたのかと戸惑いの色を浮かべた。
『あの馬鹿! 開いた窓から飛び降りよったわ』
「は?」
天照大神の言葉が上手く飲み込めなかった。まずは男達の隙を突いて逃げ、悲鳴の上がった部屋に飛び込んだ。
開け放たれた窓からは風が轟々と音を立てて吹き込んでくる。部屋には誰もいない。恐る恐る窓の下を覗いた先に小さな赤い点とその中心で蠢くさらに小さな何かがある。
ドガッ。
いきなり後ろから髪を掴まれ額を強かに窓枠に打ち据えられた。
「逃げようってか。いい度胸してんな、クソガキ!」
ゴッ、と嫌な音を立てて今度はまともに蹴りを入れられる。痛みに呻きながら必死になって身を丸めて守っていたが、相手はお構い無しに太基を殴って、蹴った。人間、憂さ晴らしで人を殺せる。その事実を頭で理解出来なくても身体に叩き込んでくる。
殺される、という直感が痛覚も恐怖も遮断した。次の瞬間、太基は相手の蹴り抜く方向に合わせて後ろに飛んだ。
へへ、と笑い声が聞こえる。獲物を嬲り殺すオモチャとしか感じない奴らの乾いた笑い声。笑い声の主を睨みながらも受け身を取り、そのまま太基はドアを目指して走る。相手が追ってきた所で横へと進路を変えていく。
山で動物に追われた時と同じだ。真っ直ぐ逃げるだけでは追いつかれる。例えば階段なんて狭くて一方向にしか進めない場所は駄目だと太基の直感が訴えていた。
活路は一つ。抜けるような青空の元へ跳ぶ!
「千の輝く太陽!」
瞬間、アスファルトの地面とビルの基礎を割ってメキメキと巨大なイチョウが何本も生えて太基を受け止めた。
『阿呆! 土の中に銀杏が埋まっておったから良いものの! 後ちょっとでそのまま叩きつけられるところじゃ!』
ベソベソ泣くような声が聞こえるが、それに構う気はもう起きなかった。やたらと枝葉に引っかかって、太基は全身傷だらけ、ついでに背中も酷く打ち付けられている。そして何より気力を全て持っていかれるような酷い疲労に襲われた。太基の意識はそのまま闇に落ちていった。
『お前達二人、揃いも揃って阿呆じゃ、馬鹿じゃ』
しばらくして漸く降りてきた不二果が在るはずのないイチョウ並木に首を傾げ、傷だらけの太基と血溜まりの中の㭭幡さんを見て悲鳴を上げた。
『これ、娘、落ち着け。二人とも頭おかしいが命は無事じゃ、無闇に身体揺さぶる方が傷に響くわ』
天照大神が慌てて声を掛けるが、不二果には聞こえるはずもない。その声が分かる人間は不二果がただ泣き伏せる頃にやっと姿を現した。
「光君! 返事してよ! 嘘でしょ、ねえってば!」
「姉ちゃん、落ち着け。夢洲の奇跡ってのはコイツだろ。そう簡単に死にはしない……」
きょとんとして目の前の自衛官を見上げる不二果の膝の上で、㭭幡さんが僅かに口を動かした。
「太陽の黄金果」
その瞬間。ドクドクとあらぬ方向を向いていた足が元通りになり、真っ白だった唇に血の気が戻った。虚ろに開いたままの目が閉じて、それからゆっくり開かれる。
「ふ、じか、ちゃん。良かった」
その声を聞いて、不二果が子供のようにわあわあ泣き崩れた。その後ろで他の隊員達が太基を殴った男達を取り押さえて連れてきて、一気に現場は騒がしくなった。
その後、ビルから飛び降りた二人の怪我人と一人の死体、未だ泣き崩れる重要参考人である不二果も連れて、鈍渡二頭陸佐率いる隊は御堂筋のビルを後にしたのだった。
『お前達、後先考えずに宝珠のチカラを使いすぎじゃ!』
目の前に見覚えのある黒く長い髪に金の冠、赤と白の衣を纏った美しい女がいる。いつか見た時とは違って畳に正座している。彼女に相対して太基は座っている。隣には㭭幡さんもいる。
『宝珠にも処理能力ってものがあってだの、何でも出来る訳ではないのじゃ』
「処理能力?」
『例えば、そうじゃ。知らん山で良い場所見つけて罠を掛けるのは手間じゃろ?』
その通りなので頷いた。知らない山の様子を把握して、獣道を把握して、最終的に罠を掛けるポイントを見つけるまで一日で終わるなら良いほうだと思う。奈良の時などは鹿の数が増えすぎていたから例外だ。
『そういう何も分からんところを調べて、漠然とした願いを解釈するのがまず大変じゃ』
例えば身体を癒すにも、怪我ならその深さを、病ならその原因を調べることから始まる。治すといっても治っているとはどのような状況なのか曖昧な願いを解釈して形にする。汚水を飲んで腹を下した患者に向かって擦り傷を治しても意味が無いから、何をどのように回復させるか決めるのだ。
或いは植物を生やすにしても、食べ物を求めるのか、敵の動きを封じるのか殺すのか、或いは蔓伝いに移動するのか、その願いを汲み取らなければならない。願いを叶えるために土の中に何の種があるか探さなければならない。
「ああ、そういえば患者さんを見ている時に身体の状態を一度診て、それからどうなって欲しいかイメージすると少し楽に力を使えた感じだった。なるほど、そういうことなのか」
『そうじゃ、治してやる気が無ければ診てやるだけで止めてよい。過去に診た人間ならデータもあるから診るのが楽じゃ。お前さんのような人間相手の医学のプロが妾のチカラで動植物の治療をしようとしてもキャパオーバーで倒れて終わりじゃ。逆に獣医師や樹木医なら人間の治療のほうが難しいかもしれんの』
「僕の身体に負荷がかかるのか」
『結果的に。ま、死にかけとったお主が助かっとるのが既に奇跡じゃ。あれだけ無茶して負荷がどうとか、今更じゃの』
次に太基が見たのは、いつものボロアパートの天上だった。空気は生温く湿って、身体を起こしてみれば東の空が少し明るくなっている。ベランダに出て見ている間に真赤な太陽が雲を照らしていき、鮮やかな朝焼けの空となる。
『梅雨じゃの』
雨が来る。その一言に太基はほっとした。恵みの雨が天から与えられる限りは生きていける。だから、これからはきっと大丈夫。
ーー願わくば川が清らかさを取り戻し、草木が茂りますように。この地から渇きと飢えが無くなりますように。
心の内で太基はそう呟いた。
そして図らずも同じ願いを込めて朝焼けを眺める者がもう一人。
「隊長、仮に『行かない』って言われたらどうするんですか?」
「親元に返すしかあるまい。薬剤師先生はまだしも、あっちは未成年者だぞ? 一応、壹拾夫妻の奥さんが後見人とは言えるかもしれんが」
「いやー、ご両親健在でそれは無理でしょ」
鈍渡隊長と部下の川端さんだった。わざと緊急性が低いとして後回しにしたが、府知事経由の指令に従わないわけにもいかない。㭭幡さんと太基、それに加えて紫珠乃と環の身柄を確保して九州に移送せよとの指示を彼らは受けている。
ただ、この指示を下した者達は日本の財政界と宗教界の奥深くで影響力を持ち続けた団体であるが、公的機関ではない。従って形式上は自衛隊に指令は出せないし、彼らの指令による任務はその痕跡すら残してはならない。これが前近代ならいざ知らず、とりわけ子供の権利と福祉をかつてなく重視する現代において『子供を保護者から引き離す』というのは大人を連れて行くより数段後の始末が面倒になる。
「いっそのこと、いっぺん俺達が親元まで出向いて説得したほうが後々トラブルにはならんのだ」
無理なことをぼやきながら朝焼けを眺める。彼らもこの数日で太基の自然の中で生きていく能力の高さは評価していたし、その挑戦も本当は応援している。願うところは同じ、飢え渇く人がいないことなのだから。
厄介なしがらみを抱えた大人二人、一応の義理は果たすべく朝焼けの中を歩いて行った。




