心への問い掛けに
「まじかよ」
僕は口の中でそう呟く。体はもう動いていた。
廊下を駆け抜け、階段を駆け下り、玄関を出る。
その時、高揚感と共に、暖かい風が僕を撫でた。
校門へと続く道、独り歩く鈴村桃子の姿はそこにあった。
教室で捕まえるという作戦は失敗したが、人のいない外の方が結果的に良かったかもしれない。
それは後に深く感じたことだ。
僕は切れた息を整えながら、小走りで彼女に近づいていく。
「…はぁ。鈴村さん!」
肩をビクッとさせ、驚いたようだったので、申し訳なく思う。
「また勧誘?やらないって言ったはずだけど」
振り返って僕を見た鈴村桃子の顔は、汚物を見るかのような表情をしていた。
そんな冷酷な表情に負けず、汚物である僕は話した。
「いや、今日はそんなんじゃなく、鈴村さんに話を聞いてもらおうと思って」
「私に?」
そう、僕は今日、無理に勧誘するのではなく、彼女自身の心に問い掛けてみようと思ったのだ。
彼女が勉強を第一に優先する理由。
僕になら分かる気がするから。
僕と鈴村さんは、グラウンドを見渡すことの出来る、グラウンドの隅にあるベンチに肩を並べて座った。
春風に乗って、女子の良い匂いが漂ってくる。
だが、そんなことはどうでも良い。
「実は僕、落ちてここに来たんだ」
自分の指を組んで、それを見つめていた桃子だったが、僕が話し始めると、少しだけ顔をこちらに向けてくれたのが分かった。
「本当なら、川北に行って陸上を続けるはずだったんだけど、受験当日ミスって落ちちゃって」
何度この話をしても胸の辺りがモヤっとする。
普段はあまり気にしないで忘れられているが、ふと思い出したり話したりすると、傷口が再び開くのだ。
だが、くよくよしてはられない。
「だから、桃花に来たんだけど、ここあんまり部活も強くないし、僕自身も陸上の知識がある訳じゃないから、陸上をここで続けても伸びないって思ったんだ」
小さくではあるが、鈴村さんは僕の話に対して頷いてくれている。
「勉強さえすれば、桃花大の良い学部にだって行けるし、ちょっとした時間でバイトもしようかなって考えてた。けど、やっぱ未練があったんだろうね、陸上に」
段々と部活が始まる時間になり、グラウンドが賑やかになり始めてきた。
見覚えのある人たちも、陸上部の部室に入っていく。
「部活体験に悠馬に誘われて行ったんだ。あ、昨日のもう1人の奴ね。なんかそいつは帰っちゃって、結局僕だけで参加する羽目になっちゃったんだけど」
笑いながらその話をすると、鈴村さんはクスッと笑ってくれた。
それが僕は嬉しかったので、彼女の方を見ると、彼女は無理やり真面目そうな表情にわざとらしく戻した。
「え、今笑ったよね?」
「気のせいでしょ」
この一瞬でこの人の性格が分かったような気がする。
「まあいいや。それで部活を見て思った。能力とか成績だけじゃないなって、部活は。みんな楽しそうに部活してて、やっぱ部活ってそういうもんだよなって。中学の時は、陸上も勉強も成績を残すのに必死で、楽しんでる余裕なんて無かった。だけど、受験に落ちて、そういうのから解放された今だから分かる。楽しんでやるのが一番だって」
これが僕の今の気持ち。
部活体験で感じたあの雰囲気は忘れられない。
集団の一員として活動し、楽しみ、語り、笑い合う。
そんな生活を僕は送ってきただろうか。
答えはノーだ。
中学の時、練習は一人でやってきた。
練習が無い日は勉強。
笑うどころか、口を開くことさえ滅多になかった。
だからこそ僕は、高校でそんな過去から逃れたいと思ったのだろう。
今なら言える。はっきりと。
「僕は陸上部に入ろうって決めた。こうなったら結果なんてどうでも良い、楽しんでやろうってね。だけど、そこに心から笑えない問題があったんだ。人数不足…」
やはり、その話になると空気がピリつく。
と、思っていた。
しかし、話を続けようとしていた僕の言葉を、鈴村桃子は遮った。
「私も…受験落ちたの。親にすごい怒られた。だから勉強して、しまくって、良い大学に進学しようって決めたの。あなたと似た理由。勉強して、賢くなっていくのは良いことかもしれない。けれど、楽しくはない。だから、あなた達の力にならせて」
「えっ」
思わぬ言葉に、僕は間抜けな声を出してしまった。
彼女も受験に落ちた。
やはり、それは僕が推理していた通りだった。
けれど、その後の言葉は正直、予想していなかった。
「陸上部に入りたいって言ってんのよ」
しっとりとした空気を鈴村桃子は、持ち前のとげとげしい口調で切り裂いた。