第四話:交渉はワルツのリズムで
運命の夜会。その言葉が、これほどまでに心躍る響きを持ったのは、百回の人生で初めてのことだった。
深紅のドレスに身を包んだ私は、侍女が感嘆のため息を漏らすのを背中で聞きながら、静かに胸の奥の闘志を燃やす。これまでの九十九回、この夜会は私にとって、絶望と断罪の舞台でしかなかった。けれど、今夜は違う。ここは、私が仕掛けるゲームの盤上だ。
会場に足を踏み入れると、いつもの光景が広がっていた。華やかな衣装に身を包んだ貴族たちの、中身のない談笑。そして、その中心で衆目を集める、我が婚約者のアルフレッド殿下と、その腕に守られるように寄り添う聖女気取りの令嬢、エララ。
彼らは、私に気づくと、憐れみと軽蔑が入り混じったような視線を向けてくる。これから始まる断罪劇の主役が、哀れな獲物を見つけた捕食者のような目をしていることに、気づいている者は誰もいない。
やがて、会場にワルツの調べが流れ始めた。ファーストダンスの時間だ。
いつもなら、ここでアルフレッドがエララをダンスに誘い、私を衆目の前で侮辱する、というのがお決まりの筋書きだった。
しかし、今夜の脚本は、私が書き換えた。
アルフレッドがエララに手を差し伸べようとした、まさにその時。一人の影が、彼らの前を悠然と横切り、私の前に進み出た。
「スカーレット嬢。お約束通り、私と一曲、踊っていただけますかな」
銀色の髪を優雅に揺らし、隣国の王子、セオドア殿下が、恭しく私に手を差し出した。
その瞬間、会場の空気が凍り付く。誰もが、予想外の展開に目を丸くしていた。特に、アルフレッドの顔は驚きと、そして隠しきれない嫉妬と屈辱に歪んでいた。
「ええ、喜んで。セオドア殿下」
私は、彼の差し出した手を取り、完璧な淑女の笑みを浮かべた。
私たちは、広間の中心へと滑り出す。ワルツのリズムに合わせ、優雅にステップを踏みながら、誰にも聞こえない声で、私たちの交渉は始まった。
「あの『予言』、見事でした。一体、あなたは何者です?」
セオドア殿下が、探るような視線で私を見つめる。
「殿下こそ。隣国の王子が、なぜ、この国の帳簿に刻まれた『薔薇の紋章』をご存じなのかしら?」
私も、微笑みで応戦する。ループの秘密を明かす気は毛頭ない。彼の手の内を、まず探り出す。
優雅なターンを一つ。ドレスの裾が、ふわりと舞う。
「……あなたのような面白い女性が、アルフレッドのような愚か者の婚約者だったとは。宝の持ち腐れ、とはこのことか」
「お褒めにあずかり光栄ですわ。ですが、その愚かな殿下も、もう少しすれば、さらに愚かなことをしでかしますわよ。この私を、断罪なさるおつもりですから」
私の言葉に、セオドア殿下の瞳が、面白そうにきらめいた。
「ほう。筋書きをご存じの上で、この舞台に?」
「ええ。そして、その筋書きを、根底から書き換えるために、こうして殿下と踊っておりますの」
私は、彼のリードに身を任せながら、本題を切り出した。
「殿下。この国が、一部の腐敗した貴族たちの食い物にされ、国力が衰えることは、隣国であるシルヴァランドにとっても、決して喜ばしいことではないはず。わたくしと、手を組みませんか?」
「手を組む、ですか」
彼は、私をぐっと引き寄せ、顔を覗き込む。アクアマリンの瞳が、私の覚悟を試している。
「俺に、何のメリットがある?」
「メリット、ですって?……そうですね」
私は、最高の切り札を切るために、一瞬の間を置いた。そして、悪役令嬢にふさわしい、蠱惑的な笑みを浮かべて、彼の耳元で囁いた。
「あなたに、この国の『真の王冠』を差し上げましょう」
その言葉に、セオドア殿下の動きが、ほんの一瞬、止まった。彼の瞳に、初めて、隠しきれない野心の色が浮かぶ。
ワルツの最後の一音が、静かに消えていく。私たちのダンスが終わった。
その瞬間を、まるで待ち構えていたかのように、アルフレッドの金切り声が、会場に響き渡った。
「スカーレット・ヴァン・ロックフォード公爵令嬢!」
ああ、始まる。いつもの茶番劇が。
けれど、私の心は、驚くほど静かだった。隣に立つ、セオドア殿下という最強の駒を得た今、この程度の舞台、もはや恐るるに足らない。
私は、怒りに顔を歪ませるアルフレッドに向き直ると、静かに、そして絶対的な自信に満ちた笑みを、唇に浮かべた。
さあ、始めましょうか。
百回目の、そして最後の、ショータイムを。