10 忙しい気持ち
日曜日、さっそく陽咲を迎えに彼女の家まで行った。
陽咲の家のインターホンを押すと、ドアモニター越しに家政婦の人が対応してくれた。準備万端だったらしく、陽咲はすぐに家から出てきた。
「紡君、おはようございます! 今日はアスレチック日和ですね」
眩しそうに目を細めて笑う陽咲の髪に、朝の日差しが当たっていた。今日は湿気も少なく空気が澄んでいる。春にしては涼しくて気持ちのいい青空が広がっていた。
あらかじめネットとかで調べたのか、陽咲の服装はアスレチック向けだった。髪もアップにまとめていていつも見る彼女とはだいぶ違う。知り合って間もない子を相手に使う言葉ではないかもしれないが新鮮だ。上下とも黒をベースにした水色ライン入りのスポーツウェア。上は長袖、下は短パンにレギンスを履いた格好。軽装で臨むという宣言を守ったのが分かる。
そういえば陽咲とはいつも制服デートだったので私服で会うのはこれが初めてだ。普段はいかにも両家のお嬢様という感じで、もちろんその上品さが嫌味ではなく自然にきまっていて好きなんだけど、今日の陽咲はアクティブな感じ。
私服はきっとこんな風ではなく清楚なワンピースとか淡い色の小物を身につけているんだろうけど、今日の格好はこれはこれでいいなと思った。
「なんかいつもと違うね」
普通に言うつもりが変な高揚感で声が裏返りそうになった。そのせいか陽咲は泣きそうな顔になる。
「やはり変でしょうか? 運動オンチのクセにアスリートの練習着を意識した格好をするなんて……」
なるほど、アスリートを意識したのか。
「すごい気合いの入れようだね。変じゃないよ。似合う。可愛いよ、そういうのも」
「そっ、そんな、可愛いだなんてっ……」
褒められてどうしていいか分からないが嬉しい。真っ赤になる頬がそう表現している。
「でもよかったです。心証を悪くすることがないと知り安心しました。なにせ初めてのダブルデートであり訪れる場所にも不慣れですから心配だったんです。いつ何が起きてもいいようにしないと、って」
「まるで戦場に向かう武士のような心境だね」
「そうなんですよ、私はこのイベントに命をかける所存です!」
「命はかけちゃダメ!」
「は、はい! 考えを正しますっ! 紡君の装いもとても素敵ですよ」
「ありがと」
汚れてもいいように動きやすいシャツとフィット感のあるパンツを着てきた。といっても今日のために新しく買った物なんだけど。陽咲の前で少しでもかっこよくいたかった。新しい服に袖を通す時けっこうワクワクした。陽咲もそうだったのかもしれない。
「いつもと違う場所に行くのって想像するだけでなんか楽しいよね」
「はい! それに、お互い制服以外の姿で会うのは初めてですよね」
「そういえばそうだね。陽咲と会うのはいつも放課後だったし」
陽咲とは考えていることが重なる。目が合うと陽咲はホッとしたように目を細めた。前だったら平気でいられたこういう瞬間、不覚にもドキドキした。つい目をそらしてしまう。
「……行こっか」
「はい! 待ち合わせ場所は紡君達の高校前でしたよね」
ドギマギする俺をたいして気にした様子もなく、陽咲は結音達との待ち合わせ場所へ向け歩いた。気持ちに気付かれなかったことが少し残念で、なのにすごくほっとする。
陽咲に見つめられる。ただそれだけのことで心臓がバカみたいに激しく音を立てる。体も熱くなっていく。恋してるんだな俺……と、スカした感じで思うことで気持ちを整えた。
白女を過ぎるとすぐ東高へ着く。それまでのわずかな道のり、陽咲が声を弾ませた。
「この道を歩くのは初めてなので新鮮です。放課後はいつも紡君が私の学校まで迎えに来てくれていますから」
「確かに新鮮だね。陽咲とこの道を歩くのは」
いつもは結音やクラスメイトと歩く通学路を陽咲と歩く。不思議だ。
ルンルンと音が聞こえてきそうな横顔。陽咲の歩幅は心なしかいつもより大きい。俺にとってはありふれた外出の機会も陽咲にとっては貴重なんだろうな。そんな時間を共有できるってなんか幸せ。
陽咲を見つめながらひしひし感じた。恋特有の心地良い緊張感を。
ひとりまったり陽咲観察をしていると突然彼女がこちらを見つめ返してきた。心臓が落っこちそうになる。
「何……?」
「さっきから気になっていたんですが、その頬どうしたんですか?」
陽咲が深刻な顔で俺を見つめていた。あまりに必死なその顔にドキッとした。
「ああ、これは昨日の体育で少しかすって」
とっさのウソ。同時に俺は右頬を触った。これは美綾との訓練で作った傷だ。
先日、美綾との電話で俺は彼女に護身術を教えてもらいたいと頼んだ。陽咲の身に危険が迫った時に体を張って守れるようになりたかった。
電話した時は不機嫌だった美綾もこっちの話を聞くなり俺の頼みを聞いてくれる気になった。
電話の翌日、美綾は俺を公園に呼び出した。
「頼んだのはこっちだけどまさか早々に教えてもらえるとは思わなかった。ってかまだ朝5時なんだけどっ」
「グダグダ言うな。凡人のアンタと違ってアタシは忙しいんだよ」
「凡人は否定しないけどっ! 眠くないの?」
「平日はいつもこの時間に訓練してる。問題ない」
まだ頭の中が半分寝ている俺とは違い美綾の言動はシャキシャキしていた。朝露の匂いが木々から漂ってくる公園はまだ少し寒いのに美綾には些末なことみたいだ。自衛官並みのたくましい精神。
「アンタ剣道やったことなさそうだもんね。道具とかもないんでしょ? 空手なら身一つでできるからそっち教えるよ」
「美綾って空手もやるの?」
「当然だろ。体術は木刀なしで戦える。陽咲が危険にさらされた時、都合よく武器があるとは限らないからな」
まるでそれが使命のように美綾は胸を張った。俺に対して必要以上に厳しい気はするが協力してくれるのは素直に嬉しかった。
「頼もしいな。よろしく頼むよ」
「そう何度も教える気はない。さっさと飲み込みなよ」
言うなり美綾は素早い動きで俺を背負い投げした。俺は瞬きする間もなく尻から地面に落ちた。腰から全身にかけて激痛が走る。
「いったぁ! いきなり投げるか普通!」
「想像以上に腑抜けだな。さすがにこれくらいよけられると思った」
美綾はため息をつき、情けなく地面に横たわる俺に憐れみの視線をぶつけた。
「同情のまなざし……!?」
「このくらい小学生でも反撃できるっていうのに。アンタホント顔だけイケメンなんだな。本気で心底同情する」
「同情はいらないからまともに教えて!?」
美綾が俺を散々酷評するのは仕方ない。それにはもう突っ込まず、俺は懇願した。
「陽咲に聞いたんだ。誘拐事件のこと。……警察沙汰にしてないって話だから事件って呼ぶのも違うんだろうけど……。俺はただの彼氏役だけど、それでも陽咲の力になりたいんだ」
「アンタ……。あの話を聞いたの?」
まさかそこまで仲良くしているとは思わなかった。そう言い美綾は深いため息をついた。呆れているのか安堵しているのか分からない顔で。
「陽咲はこれからもアタシが守る。何事にも向き不向きがあるだろ。アンタはこういうの向いてない」
「そうかもしれない。でもこのままじゃ美綾も危険だろ。一応女の子なんだし」
「はあ? アンタに女扱いされるとかマジ寒いんだけど! っていうか今『一応』っつったか? どういう意味じゃコラァッ」
妖力のように自分のショートヘアを逆立ちさせ美綾は木刀を手にした。
「それどこから出したんだよ!」
「うるさいっ!」
「頼むから落ち着いて! どうどう!」
「アタシは馬じゃない!」
木刀で殴る気満々の美綾に追い回され、数分くらい走って逃げた。走ることで気持ちが発散できたのか、しばらくしてやっと美綾は冷静になった。
「もう無理走れないっ」
「何を情けないことを! 教えてやるから体で覚えろ。アタシの教えは厳しいぞ!」
「美綾師範りょうかいです、なのでまずその木刀を離してくださいっ」
「師範言うな!」
それから、腕をつかまれたり投げられたり、体丸ごと使った美綾師範による空手の特訓が始まった。俺は全身にアザができそうなほどの痛みを何度も味わうことになった。地面に伏せるたび美綾に辛辣な言葉を浴びせられ何の罰ゲームだと思ったりもしたけど、久しぶりに充実した時間だったのも本当。
忙しいと言って最初は教えるのも嫌そうにしていたのに、その日美綾は学校に行く前までずっと特訓に付き合ってくれた。
さすがに今日まで訓練での筋肉痛を引きずるとは思わなかったし、体を動かすイベントでこんなコンディションなのはつらいけど仕方ない。この気だるい感覚と引き換えに俺は少しだけ空手ができるようになった。
陽咲はお嬢様だしいつ誰にまた誘拐されるか分からない。やれることはやっておくに限る。
しかし俺はこのことを陽咲に言う気はなかった。知ったら陽咲は絶対遠慮し萎縮してしまう。それが分かっていたから美綾にもこのことは口止めしたし、あからさまなケガをしないよう訓練中は顔をかばうようにした。
美綾は一応俺の心情を理解した。何より陽咲に気を遣わせないよう振る舞とうとする俺を評価して秘密に付き合ってくれたが、訓練となると手加減ができない性分らしく、俺が待ったをかけても美綾は全力で技をかけてきた。
最後の最後、美綾に投げられた時、すでに体力の限界が来ていた俺はうまく受け身を取れず顔から地面に倒れこんでしまった。その時頬に軽く血がにじむほどの傷ができてしまった。
「痛そうです。絆創膏貼りますか? たくさん持ってきたんです」
陽咲は肩に背負っていた小さくて可愛いデザインのリュックサックを肩から下ろそうとした。
「大丈夫だよ。そこまでひどくないから」
傷自体は浅いしそんなに血も出なかったので一晩寝たら治った。でも見た目にはまだ生々しい傷として映るらしい。
「痛いの痛いの、飛んでけっ」
陽咲は俺の頬に手を伸ばし呪文を唱えた。子供の頃なら一度は大人にやられたことのある傷が治るおまじない。無邪気な顔をした陽咲はやっぱり可愛いなと思った。この歳になってそんなおまじないをされるのは少し恥ずかしくもあるが。
「大丈夫。見た目はひどそうに見えるかもしれないけどもうほぼ治ってるから」
「っ! はうぅ」
陽咲がなぜか失神手前のうめき声をあげた。今回は別にドキドキワードなど口にしてないのになぜだろうと思っていたら、手の中に柔らかなぬくもり。おまじないを唱えてくれた陽咲の手を、俺は無意識のうちにそっと握りしめていた。
「こっ、これはどういう…ああっ、これがリアルな男性の肌のぬくもり…」
「ちょ、待って!! 俺ティッシュ持ってない!」
ていうか、そんなつもり皆無なのは分かってるけど陽咲の言い回しは逆にエロい! 予想しない方向から猛スピードで妄想スイッチを押されそうになる。とにかく手を取ったままは色々やばそうなので俺はサッサと陽咲の手を離した。おかげで陽咲の脳司令塔は寸前のところで鼻からあらぬものを出すことを踏みとどまってくれた。
「ああ、すみませんっ。イベント本番前に興奮値がマックスに達しそうになってしまいました」
「ううん、俺が悪かった。ごめん、手なんか取っちゃって……」
陽咲は赤面。俺も顔がほてっていた。アプリ男子にご執心だった陽咲はともかく、俺は一応リアル女子との恋愛歴がある。なのになんで初めての恋みたいになってるんだ!?
中学生だったので大人っぽいことはあまりできなかったけど、元カノの天音とは手をつないだし頬にキスをし合ったこともあった。初めての恋愛体験はそれはもう脳をとろけさせるんじゃないかというほど刺激的で強烈なものだった。痛くないヤケドって感じ。
なのに今は天音との間に感じたことを全然思い出せない。陽咲が全てになっている。この感覚、ホントまずいな。痛くないけど痺れるヤケドとでも言い換えるべきかもしれない。
「紡君の手、あたたかくて、美綾のとは違ってて、あの、なんていうか、男の人って感じでしたっ」
フォローなのか、陽咲のセリフもグダグダで噛みそうになっていた。それがとてもおかしくて、ほっこり和んだ。
「ツムグとは手つなぎイベントなかったの?」
「もちろんありました。でもそれは妄想の域を出ない、あくまで画面越しの体験でしたから。とはいえドキドキはしましたし幸せな瞬間だったんですよ? でも、ツムグの手のひらの感触は体感温度として感じることはできなかったです。そこは自然と脳内補完していましたが……」
ツムグとの思い出を必死に守ろうとしているのが分かる。本当に彼を好きなんだな。
「じゃあ、これが男との初手つなぎだね。俺なんかが相手で悪いけど」
「いっ、いえっ。今回のは私から接触してしまったようなものですからっ。と、とにかく紡君の傷がひどくなくてよかったです」
ふいに触れてしまった手の感触を同じタイミングで思い出し恥ずかしくなって、お互い無理に言葉を探しているのが分かった。でもそれは決して嫌な無理ではなく楽しい無理だった。
「紡ー! 陽咲ちゃーん! 朝からイチャついてんなよ〜バカップルめ」
結音の声で、陽咲と二人の世界はあっけなく消えた。東高の校門前、約束より少し早い時間に結音とチエちゃんは到着していたらしい。
「イチャついてなんかないって」
「どうだかなぁ。そうだ、紡さ、LINE返せよなぁ。連絡したってのに」
「悪かったよ」
陽咲と会ってからスマホを見てなかった。そういえばポケットの中で何度か振動してたっけ。結音が連絡をくれてたのか。
「久しぶりー! 紡〜!」
チエちゃんが声をかけてきた。彼女はしょっちゅう東高まで結音を迎えに来るので、放課後時々会うことがある。しゃべるってほどしゃべらないけど、チエちゃんは誰にでも気さくに話すオープンな性格。だから俺のことも呼び捨てにする。濃いめのメイク、目立つ形のピアス、明るめの染髪と、見た目も派手だ。
チエちゃんもスポーツウェアを着ているが、髪型や雰囲気が違うだけで陽咲とはだいぶ違う。
「この子がカレカノごっこ中の陽咲ちゃん? 初めまして〜」
チエちゃんの辞書に人見知りの文字はないらしい。全く初対面の陽咲にも自分全開で話しかけた。そうだった、チエちゃんは結音から聞いて俺と陽咲の事情を知ってる。
チエちゃんの勢いに押され気味の陽咲は、やや緊張をにじませつつ言葉を返した。
「今日はお誘いいただき感謝しています。伊集院陽咲と申します。紡君には色々とお世話になっていて……。チエさん、どうかよろしくお願いします」
「かたいかたい! タメなんだから普通でいーよっ」
和ませようと、チエちゃんは陽咲の肩を軽く叩いた。チエちゃんと自分が同い年と知り、陽咲はホッとしたように笑った。
「よし。じゃ、行きますか!」
結音の号令で俺達はアスレチックパークを目指した。
目的地までは徒歩十分くらい。その間、結音とチエちゃんが中心になってしゃべっていた。俺と陽咲は結音達の後ろを歩く。
狙ったわけじゃないけど、俺は車道側を歩いた。それに目ざとく気付いたチエちゃんが目を三角にして結音を見た。
「紡優しい〜! ねえ、結音もアレやって!」
何も考えずチエちゃんに車道側を歩かせていた結音は「ちょ、何だよ急にっ」と言いながらチエちゃんにされるがまま場所を反転させられていた。
「ホント結音は気が利かないよね〜」
「悪かったな!」
ダブルデートが始まって早々カップルは軽い言い合いをしてる。やっぱりチエちゃんも女子なんだなぁ。本気でウンザリした顔をする結音に俺はフォローを入れた。
「それだけ結音のことが好きなんだよチエちゃんは」
「さっすが紡、分かってる! そうなんだよ、好きだから車道側を歩いて守ってほしいの! 覚えといてよね」
「へいへい。悪かったよ」
「何そのやる気ない返事は!」
「そう怒るなって〜」
何とか落ち着いてくれたらしい。
「好きな男に守ってほしいんだよ、女は。ねー?」
チエちゃんが陽咲を振り向き共感を求めると、陽咲はすぐに肯定した。
「はい! その通りです。守られるのは嬉しいですよね」
「ほら、陽咲ちゃんもそう言ってるー! 分かった?」
味方を見つけて満足したチエちゃんは、結音を徹底的に丸め込む。女子は色んな意味で最強だ。
そんな二人を見て陽咲はつぶやいた。
「お二人はとても仲が良いのですね。憧れます」
クソ真面目な顔でウットリ言うものだから、俺だけでなく結音とチエちゃんもビックリした顔でこっちを振り向いた。
「まあな。俺達はいつもこんな感じよ」
「憧れって! 陽咲ちゃんウケるー!!」
ケンカしていた結音達は陽咲の一言にコロコロと笑い出す。俺もつられて笑った。
「あっ、あの……?」
自分の発言の何が笑いを誘ったのか理解できない陽咲はオロオロしていたが、
「二人とも喜んでくれたみたい」
俺が耳元でそう言うと陽咲はほっこり嬉しそうに笑った。そんな俺を見て結音がニヤニヤした。
「やっとお前らしさが戻ってきたじゃん。いや、本来のお前よりいい感じかもな」
「何だよそれ」
意味が分からない。首を傾げてみたが結音はそれ以上何も言わなかった。
「あれ? 紡、それどしたのー?」
頬の傷に気付きチエちゃんが俺をまじまじ見た。
「ああ、それな。俺も訊いたけど教えてくれないんだよ」
俺が答えるより先に結音が不満気味に言った。俺は肝が冷えるのをこれでもかというほど感じた。この話題はまずい……。
予想通り、陽咲は目を丸くして俺を見た。
「その傷は体育の際に負ったのですよね……? 私も心配していたんです」
「体育でー?」
結音が怪訝な顔をした。
「俺達のクラス今体育でバスケやってて俺紡と同じチームだったけど、コイツ憎たらしいほどかっこよくシュート決めてさ。隣のコートでバレーしてた女子にキャーキャー言われてたぜ。ケガなんてするヤツじゃないって」
結音の言葉で俺のウソは確実にばれた。どうしよう。陽咲の顔を見られない。
「では、紡君のケガは……」
「ああ、なんか知らないけど3日くらい前にはもう作ってたよな。学校来た時に」
結音はもう黙ってくれ! 自業自得なのを棚上げし俺は結音を睨んだ。こっちの気持ちなど察せるはずもなく、結音は俺の鋭い目線を勘違いしてこんなことを言った。
「いいじゃん別に。お前が女子にモテるのは今に始まったことじゃないんだしさ。それに陽咲ちゃんとはただの友達なんだろ?」
「いい性格してるなホント」
色々勘違いしてるが、その中でも結音はわざと言葉を選んでしゃべっている。女子の話を出すのは陽咲にヤキモチを妬かせるためなんだろう。そこまで気付いたのは俺だけだった。チエちゃんは苦笑して言葉を挟む。
「まーまー、結音も紡もその辺にしときなよー。陽咲ちゃんも困ってんじゃん」
「ああー……。なんかごめんな陽咲ちゃん」
「いえ、お気になさらず」
笑顔を見せ、陽咲は言った。
「楽しみですね。アスレチック」
目的地に着くまで陽咲はそんな調子で結音やチエちゃんと楽しそうに会話してた。初対面の相手と慣れないことをしている彼女が楽しそうでよかった、と、そう思いたいのに無理だった。気配はたしかに横にある。視線も時々感じるのに、陽咲は全然こっちを見てくれなかった。避けるように結音やチエちゃんとの会話に乗っている。
ささいなことでウソをついた俺を怒ってるんだろう。でもそこまであからさまに無視する? 悲しくて納得できなかった。
意識を集中させた。陽咲の存在に心を走らせる。もしかしたら心を読めるかもしれない。
『紡君は私に何を隠してるの?』
聞こえた! 狙い通り陽咲の心の声が。俺はすがるように耳をすませた。
『ううん、別に怒ることではないはず。どうしてこんな風に振る舞ってしまうのか自分でも分からない……』
俺を咎めるというより、自分の言動に戸惑ってるという感じの声。
『紡君のバスケ姿、どんな風なんだろう。違う学校の私には見ることはできないよね……』
それきり陽咲の気持ちはシャットダウンされた。アスレチックパークに着いたからだ。
「うわー。思ったより混んでんなー」
結音はうなだれた。ネットの情報では今の時期が年内で最も空いているとあったが、なぜか今日に限って家族連れが多い。
「二手に別れて行動するか。こんな人混みの中じゃはぐれるかもだし順番待ちもしんどいだろうし。昼飯と帰りだけ合流するってことで」
「だな。そうしよ」
結音の提案にうなずいた。異論はない。少しでも立ち止まると施設内を往来する人の波に突き飛ばされる。全身筋肉痛を感じていた俺は人混みを見た瞬間帰りたくなったが、さすがにそこまで空気の読めない言動はしない。
「ごめんな陽咲ちゃん。こっちからダブルデートに誘っといて結局別行動になって」
「いえ、気にしないで下さい。結音君とチエさんも楽しんで下さいね」
「またお昼にね〜。紡、陽咲ちゃん、とりあえずバイバーイ。行こ、結音っ」
アスレチックを楽しみにしていたチエちゃんに腕を引かれ、結音はあっけなく行ってしまった。陽咲と気まずかった俺は彼女と二人きりにされていたたまれなくなる。
このまま入場口で立往生しているわけにもいかない。結音達を見送ったきり黙りこくってしまった陽咲に声をかけた。
「とりあえずやれそうなアスレチックに並ぼっか」
「はい……」
返事が返ってきてホッとした。俺が歩き出すと陽咲もついてきた。人が多いので時々陽咲の方を振り返りながら歩いた。本当は手をつなげたらいいんだけどさすがにそれは遠慮した。
緑豊かな施設内。移動用の道をしばらく歩くと人の並んでいない設備があった。施設内はあんなに混んでたのにどうしてここだけ人がいないんだ? 不自然だ。でも、人気設備に並んで長い時間何もできないまま過ごすよりいい。
「あそこ並ぼ。すぐ遊べそうだし」
「すぐ見つかってよかったですね」
陽咲が前向きについてきてくれたのに悪いけど行ってすぐ俺は後悔した。
池の上を辿るように移動型アスレチックがジグザグに設置されているそこは、一度でも遊具から手を離せば最後水の中に落ちてしまう、最も難易度の高いアスレチックだった。どうりで誰も並んでいないわけだ!
「やっぱやめとく? さすがにこれはちょっと……」
「は、はい。恐怖に足が震えてきそうです」
よほど不安なのか、俺避けモードを一時解除し陽咲は腕組みする。
「でも、ここでやらなければ私は一生このまま体育オール1の劣等生……。やります! どうか先陣を切ってご指導願いますっ」
何と戦ってるんだ! 陽咲は狂ったように熱い眼差しで俺を見つめた。
「分かった。じゃあ先行くからついてきてね。無理ならちゃんと声かけて?」
「承知しました!」
戦地に赴く兵士のように敬礼をし、陽咲は俺を見送った。置いてけぼりにしないようゆっくり進もう。
途中途中にハンモックのような休憩スペースがあるから大丈夫とは思うけど、池の上を行く木と金属でできたアスレチックは筋肉痛の体に容赦なかった。渡り棒、綱渡り。原始人にでもなったような気分でこなしていった。陽咲もオタオタとついてくる。
中間を過ぎる頃には30分が経過。時間的にはそんなに経ってないのに体力は底をつきそうだった。かなりきつい。穏やかさが取り柄の陽咲も息を切らせ本気でバテていた。
「少し休も」
「そうですね、そうしてもらえると助かります」
荒い網目のハンモックは油断すると穴に足を落としそうでヒヤヒヤする。もちろんハンモックのすぐ下は水面。うっかり足を落とさないよう気を遣ってバランスを保ち陽咲が来るのを待った。
「足元気をつけて」
陽咲に手を伸ばし、木製の橋とハンモックの間にできた溝に落ちないよう注意を促した。
「ふう。ありがとうございますっ」
疲労で頭が回らないのか最初はおとなしく俺の手を頼っていた陽咲は、自分の両手が俺のそれで支えられていることをじょじょに意識し顔を赤くした。
「すっ、すみませんっ。手汗がひどいことにっ」
「そこ気にしてたんだ。大丈夫、俺も汗かいたし」
久々に全身運動をしたって感じ。体育もそれなりに体力を使うけどスリルを味わうって意味でアスレチックパークは最強かもしれない。
「ここまでよく頑張ったね。陽咲は途中で無理になるかと思った。俺でもキツイし」
「そうですね。正直最初は無理してました」
「やっぱり」
「でも、引けなかったんです」
陽咲の目には強い決意みたいなものがありありと見えた。
「紡君、体育の時間に女子から褒められていたんですよね」
「そんなことないよ。結音のは過剰表現」
陽咲には女子関連の話題を伏せておきたくて俺はそう言った。
昔からそうだった。体育の時に何かアクションを起こすと女子から喜ばれる。だからなるべく目立たないように動いてるのに、結音と同じチームになるとそうさせてはくれない。普段いい加減なのに結音は体育の時だけやたらはりきる。一人で頑張る分には好きにしろと思うし干渉もしないがアイツは俺のことまで巻き込むから困る。
「いえ、結音君の言葉は真実で満ちていました」
「表現は間違ってないかもしれないけど結音ごときにその言い回しをするのはもったいない気がする」
疲労のせいかツッコミも平坦な声になる。いつもならここでもうひとつくらい陽咲がボケ返してくれるんだけど(本人はいたって真面目だが)今は違った。思いつめたように黙ってしまい池の水面を見つめている。瞳が切なげに揺れていた。
『私の知らない紡君のことを紡君以外の人から聞かされるのが寂しい』
「……寂しいって?」
陽咲の心の声に思わず反応を返してしまった。陽咲はハッとし勢いよく両手で口を覆ったものの、俺の能力の前ではそれが無駄だと再認識ししょんぼり手を下ろした。
「さっきはごめんなさい。避けるような態度をしてしまって……」
「うん。すっごい傷ついた」
「でっ、ですよね!? どのような罰も受けますのでどうかご容赦をっ!」
「俺は悪代官かっ。って、そんなこと俺以外の人の前で言ったらダメだよ」
「はっ、はいぃ……」
小さくなる陽咲に、俺は改めて問いかけた。
「ウソだよ。そこまで傷ついてない。でも驚いた。陽咲にそういう態度されるの初めてだったから」
「寛大なお言葉ありがたく思います。焼き討ちにされるのではないかと本当は怯えていました」
「だから時代設定ズレてるっ。平成の現代で焼き討ちする例ってそうそうないからね!?」
いつものツッコミ力が戻ってきたところでやっと俺は安心した。陽咲がこっちを見て微笑んでくれたから。
「変な態度を取ってしまってごめんなさい。紡君にウソをつかれたと知った時、とても寂しかったんです。その寂しさは今まで感じたことのない感情で自分でもどうしたらいいか判断しかね、あのような態度に……」
気を遣いつつ誠心誠意気持ちを話してくれる。陽咲に隠し事をした瞬間より罪悪感を覚えたし、こんないい子にこんな憂いた顔は似合わないなと改めて思った。
「陽咲は謝らなくていいよ。寂しい思いさせて、俺こそごめんね」
「傷のこと、訊いてもいいですか?」
「……いつか話すよ。だからごめん。陽咲に隠し事はしたくないんだけど今は見逃してほしい」
「分かりました。〝いつか〟を待ちます。聞けてよかったです。話さないままは苦しかったですから」
「他には? 心の中で寂しいって言ってた」
「私は悪女になってしまったのでしょうか……。最近自分が自分でなくなっていくような気がするんです。うまく言えないんですが……」
悪女、か。陽咲のイメージとはかけ離れた言葉。でも不思議と幻滅はしなかった。
「悪女うんぬんはともかく、自分が自分でなくなっていくような感覚ってのは理解できるよ。特に誰かを好きになると、ね」
言葉に実感がこもった。恋をしたからって自分の根本までは変わらない。それでも、根本まで影響するほど振り回される感情というのはたしかだ。天音の時も、陽咲の時も、そうだった。
もしかしたら、陽咲もツムグとの恋愛で自分の変化を感じて悩んでるのかもしれない。根が真面目だから、誰も咎めないような小さな気持ちの揺れですら悪だと感じてしまうんだろう。純粋すぎる性格って周囲には好かれるけど本人はけっこう大変そうだ。
「人生って知らない自分集めの旅なんだよ、きっと」
するりと口から出たその言葉はよくよく考えてみるとクサくて仕方なかった。何言ってんだろ俺は。
「なんてね。忘れて。変なこと言った」
「いいえ、感銘を受けました。心にとめておきます」
リュックの中から手のひらサイズのメモ帳を取り出し、高価そうなボールペンで何かを書いていた。イメージ通りというべきか、書道の見本みたいに整った陽咲の字を俺は覗き見た。
《人生は知らない自分を集める旅》
忘れてって言ったのにメモしてる! 恥ずかしさ倍増だ。
「頼むからそれ消してっ」
「不可能です。これはボールペンですから」
「修正テープという便利アイテムがあるっ。今は持ってないけど今度学校帰りに貸すから」
「お断りします。修正テープは使わない主義ですから。どんな文字も綴られた以上それは絵画と同じ創作物なんです」
「力説するね。っていうかそんなこと初めて聞いた」
「昔通っていた書道教室の先生の受け売りなんです」
照れたように笑い陽咲は満足げにメモをしまった。達筆なわけだ。それに頑固というか変な部分にこだわりが強いというか、俺の羞恥心などおかまいなしにメモ帳をそのまま持ち帰るつもりらしい。
陽咲が溢れるような笑顔を見せた。
「疲れ、すっかり忘れました」
「ホントだ」
さっきまで常に意識させられた筋肉痛も和らいだ気がする。こういうのは気の持ちようなのかもしれない。
「紡君とここへ来れてよかったです」
「アスレチックなんて、陽咲は一番嫌がるかと思った。俺も最初は微妙だったし」
「私もです。運動神経のなさが災いして紡君達に迷惑をかけてしまうのではないか、それなら断る方が賢明だろう、そう思いました。でも紡君と一緒なら楽しめる、その気持ちが上回ったんです。本当にその通りになりました」
「陽咲……」
陽咲の言葉に友情以上のものはない。分かってるけど、精神的に頼りにされて嬉しかった。
「俺も楽しいよ」
休憩が終わったところで俺達はアスレチックの後半戦に戻ろうとした。その時、陽咲の方めがけて黒い物体が勢いよく飛んで来た。目をこらさなくてもそれが蜂であることが分かる。しかもけっこうデカい。名前は分からないけど刺されたらやばいヤツだ。陽咲はまだ気付いてない。
「伏せて、陽咲…!」
「はい…?」
蜂は陽咲の髪に飛び込もうとしていた。それを回避するため俺は彼女の肩を両手でこちらに引き寄せ、蜂の進行方向から避けさせようとした。
「ひゃっ!?」
うまくいかなかった。突然肩を掴まれたことに驚いた陽咲は小さく驚きの声をあげ身を固めた。その反動で俺は思い切り後ろに倒れこみ、弾みで足元をふらつかせ池に落ちた。
ザッパーン!! 豪快な音を立てて池に落下してしまう。不人気なアスレチックの周囲に人はなく、陽咲だけが俺の危機に気付いた。
「捕まって下さい!」
「っくはぁっ!」
水面に頭から突っ込んだせいで思い切り鼻から水を吸ってしまった。思ってたより水深は浅く陽咲の手を借りなくても立ちあがれただろうけど差し出された手を断るのは惜しい。彼女の手を掴み池の中で立ち上がった。子供なら危なかっただろうけど水深は胸元までしかなかったので助かったと言うべきか。なるほど。子連れファミリーがここを避ける理由がよく分かった。
しかし高校生にもなって池に落ちるとは思わなかった。こんなことになってるのに冷静に足場に登る俺とは対照的に陽咲は真っ青になっていた。悲壮感たっぷりの声で、
「大丈夫ですか? ケガはしていませんか?」
「まあビックリはしたけど水がクッションになってくれたから大したことないよ。それより蜂は? 刺されてない?」
「紡君のことしか見てなくて蜂には気付きませんでした。私は何ともないから大丈夫ですよ」
「そう、ならいいけど」
蜂め。散々騒がせておいて自分だけ悠々とどこかに行ってしまったのか。池落ち損じゃないか。でも陽咲が無事ならいっか。
「もしかして蜂から助けてくれたんですか? それでこんなことに……」
「そんな気の毒そうな顔しないで。陽咲が無事ならそれでいいから」
「紡君……」
陽咲は目をウルウルさせ頬を赤くした。そんな目で見られたらこっちはドキドキしてしまう。
「ごめんなさい。さっき紡君が私の肩に触れた時、救助の一環とは思わず動揺してしまいました。そうと知っていたら的確な対応ができたのにっ……。やはりリアルイベントはアプリと違い予測できない出来事が起こるんですね」
「説明してる間もなかったしね。仕方ないよ。これもリアルイベントの醍醐味って思えば」
「でも、その姿では風邪をひいてしまいます」
ぐっしょり全身濡れてしまった。たしかこういう場合に備え管理事務所に着替えが用意してあると入場口に書かれていた。そのことを思い出し陽咲を促した。
「管理事務所行こ」
「シャワーはあるのですか?」
「さすがにそれはなかったと思う。着替えさえできれば平気だよ」
「いいえ。それではいけません。結音君とチエさんには本当に申し訳ないのですが、私達は今から離脱しましょう」
「離脱!? どうしてっ」
「家の人を呼びます。いいですね?」
「ちょっ、え!?」
有無を言わさぬ表情で陽咲はスマホを手にした。止める間もなく彼女は家に電話をかける。こんな陽咲は初めてだ。いつもは必ず俺の意思も尊重してくれるのに、今は人が変わったように強引そのもの。
1分もかからず自宅の家政婦を呼びつけ陽咲はスマホをしまった。その瞬間寒気がして俺は大きなクシャミを出した。好きな子の前でするのは恥ずかしいほど大きな音で。
「ごめん」
謝ると、陽咲は首を横に振り自分の着ている長袖のスポーツウェアを俺の肩に羽織らせた。さらにリュックからフェイスタオルを取り出し俺に手渡してきた。
「これを使って下さい。すぐに迎えが来てくれます」
「ありがとう」
たかが水に落ちたくらいでおおげさだなと思ったけど、陽咲の親切を無下にはできなかった。生地は薄いけど陽咲のかけてくれたスポーツウェアは保温効果があり温かかった。おかげで陽咲は薄手のロングTシャツ一枚の姿になってしまっている。ジロジロ見たつもりはないけど、なにげなくやった視線が彼女の胸のラインをたどってしまう。着痩せするタイプなのか薄着になると豊かな膨らみ。
改めて陽咲に異性を感じてドキッとした。って、こんな時に何考えてんだろ。彼女は好意でそんな姿になってしまったというのに。
陽咲らしいパステルカラーのタオルで濡れた顔や首筋を拭いた。その瞬間、甘い匂いがした。香水でも柔軟剤でもない。これは陽咲自身の肌の匂い? 思考が働きリビドーを刺激される。
陽咲に俺のような能力がなくて本当に良かった。読まれてたらドン引きされてる。
「あの、紡君」
「え……?」
話しかけられて声がうわずる。陽咲はゴソゴソとリュックをあさり、中から出した物を両手で渡してきた。
「こんな時に渡すのもどうかと思うんですけどタイミングがなくて今になってしまいました。受け取って下さい」
手作りクッキーだった。ラッピングまでされている。中を開けるとケーキ屋顔負けのクッキーがたくさん入っていた。
「わざわざ作ってくれたの?」
「感謝の気持ちです。ヒロト君と話せたのは紡君のおかげですから」
「そんなの気にしなくていいのに。俺がしたくてしたことだし」
「それでもです。ヒロト君とちゃんと話ができて本当に嬉しかったんです」
見た人全てを虜にするような笑顔で陽咲は笑った。純粋な彼女の心を前に、俺も清い気持ちで満たされていく。
「俺も嬉しいよ。陽咲が喜んでくれるなら。これ、食べてもいい?」
「どうぞ。少しは体が温まるかと思います」
彼女はあえて今を狙ってクッキーをくれたんだ。濡れた俺を気遣って。優しいな、本当に。さっきまで変なことを考えてた自分を殴りたくなる。
「おいしい!」
「本当ですか? お口に合って嬉しいです。味見はしているのですがこういうのはやはり好みがありますから」
押しつけがましくない気の遣い方が心地いい。
「これからは偏見なしに男性を見てみようと思います。もちろんそう簡単なことではないかもしれませんが……」
焦った。もちろん陽咲が男への悪いイメージを崩し始めたのは素直に喜ばしいことだけど、それは同時に俺以外の男とも親しくなる可能性が高まるってことだ。
「とはいえ、まだ気持ちの上でしか変化できていないんです。だって女子校ですから」
ホッとした。今日は気持ちが忙しい。
「それもそうだね。学校で関わる男って教師くらい?」
「そうですね。他の生徒には他校との交流を活発にしている人もいますが私にはそういう繋がりもありませんし……」
「今は男友達とかほしいって思う?」
「いえ、そこまでは。さすがにツムグに悪いですし。知り合いの男性と話して自分の見識を広めたいという方が正しいかもしれません。今までは偏った物の見方しかしてきませんでしたから」
「そっか。そう思うの偉いよ」
ひとまず安心した。今すぐ男友達を作りたいってことではないみたいだし、陽咲の心はツムグにある。
ヒロト君とのことは俺の想像以上に陽咲を成長させたのかもしれない。少し前まではリードしてたのに瞬時に追い抜かれ置いてけぼりにされている。少し寂しかった。
クッキーはたくさんあったのに話しているうちに完食してしまった。小腹が満たせたおかげで水に濡れた体も少し紛れる。
施設内には監視カメラでもあるのか、俺が池に落ちたことを察知した管理事務所の人々がやってきて、アスレチックとは別の緊急通路を解放してくれた。そこから俺と陽咲はすんなりアスレチックを出て入場口までやってきた。
陽咲の呼んでくれた迎えを待つ間、結音に電話して先に帰ると告げた。最初はブーブー言っていたが事情を話すと分かってくれ、また誘うと言われた。水没したのにスマホは壊れてなかった。防水が役に立った。
「ありがとう、これ。洗って返すね」
「いえ、気にしないでください」
すでに拭いた所に何度もタオルをあて、陽咲の様子を伺う。迎えを呼ぶと言った時の勢いは消え、普段通り穏やかな彼女だった。
「ごめんね。せっかくのダブルデートだったのにこんなことになって。陽咲楽しみにしてたのに」
「いいえ。二人で楽しめないと意味ありませんから。それにこうしているのも楽しいです。って、池に落ちてしまった紡君にこんなことを言うのは失礼かもしれませんがっ」
陽咲はアタフタした。そこへちょうど迎えが来た。高級車に乗る中年女性の姿を見てすぐに陽咲の関係者だと分かった。
家政婦さんと呼ぶのは違和感なバリバリのキャリアウーマンって感じのその女性は、運転席から颯爽と降りて来ると敏腕マネージャーのような機敏さで後部座席のドアを開けた。
「お嬢様、時永様、お待たせ致しました。どうぞお乗り下さい」
「わざわざすみません。ありがとうございます」
恐縮しながら俺は陽咲と共に後部座席に乗った。濡れたままシートに座るのは気が引けたのでせめて何か敷こうと思い陽咲に借りたタオルを広げたら気にせず座るよう家政婦さんに言われたのでそうした。
さすがにここまでされるのは悪いと思い迎えを待つ間電車で帰ることも考えたが、ずぶ濡れの格好で駅のホームに入るのも考えものだと思い陽咲の好意に甘えることにした。
車内には薄く暖房がかかっていた。外気で冷たくなっていた体がじんわり温かくなっていく。最初は本当に大したことなかったのに、時間が経つほど体は冷えた。
座席の座り心地の良さからして俺の知ってる車とは違う。高級車はそれなりのスペックをもって高級なんだなとしみじみ感じた。移動中の車内でウトウトしてくる。
「もう大丈夫ですからね、紡君」
「ありがとう」
寒さから解き放たれた安心感か、筋肉痛にアスレチック疲労が重なったせいか、そこへ慈愛に満ちた陽咲の眼差しが向けられ俺は眠ってしまった。陽咲の家へはすぐ着くと分かっていたのに。
んん……? あたたかい。全身が柔らかい綿に包まれているみたいだ。それに何だろ、優しい匂いがする。
目が覚めうっすらまぶたを開けると辺りは薄暗かった。
あれ? アスレチックは?
そうだ。陽咲んちの家政婦さんが運転する車の中で眠ってしまったんだった!
勢いよく上体を起こして驚いた。どこかのホテルのスイートルームばりに豪華な室内。目が覚める前に感じてたベッドの心地よさに納得する。あの流れからして陽咲の家に連れてこられたと考えるのが普通だけど、想像以上の内装にただ目を見開くばかりだった。本当にここは一般住宅なのか?
さらに驚くことがあった。ベッドから抜け出そうとしたら足元に重みを感じたのでふと見ると、陽咲がベッドの角に突っ伏し眠っていたのだ。
「陽咲……?」
片時も離れずそばについててくれたのだろうか。陽咲は車に乗った時の格好のままだった。
「陽咲、起きて。って今までウッカリ寝てたヤツが言うのも何だけど」
聞こえないだろう一人ボケツッコミを口にしてすぐ、陽咲はゆっくり目を開けた。
「おはようございます」
「時間的にもう『おそよう』だね」
「ふふっ。そうですね」
カーテンは閉められていたけど遮光性ではない。夜の気配と街灯の光が透けて見えた。
「体調は大丈夫ですか?」
「うん。寝たらスッキリした。ごめんね。あんなちょっとの移動時間に寝ちゃって……」
「かまいませんよ。疲れた時は本能のまま眠るのが一番体にいいですから」
「本能って」
いたって真面目な陽咲にクスクス笑いが込み上げる。
俺のことは家政婦さんが二人がかりで運んでくれたのだと陽咲は言った。運転してくれた人以外にも家政婦さんいたんだな。帰り際に謝ってお礼を言わないと。
帰ろうとベッドを降りようとした時、陽咲が言った。
「両親と家政婦さん達には事情を話してありますからゆっくりしてくださいね。紡君は蜂の襲撃から身を呈して守ってくれた命の恩人だと説明したら、皆とても喜んでくれました」
「襲撃って言うとめっちゃ数多そうに感じるね。でも、助けるどころかかえって迷惑かけて悪いことしたかも。早めに帰るよ」
「そんなことはありません! お風呂と食事の用意もしてあります。服装は池に落ちた時のままです。気持ち悪くありませんか? 遠慮せずにどうか心ゆくまでおくつろぎください」
ホント、ホテル並みのサービスの良さだ。必死に引き止めてくる陽咲を見て、強引だったさっきの彼女を思い出した。
「ありがとう。そこまで必死になる陽咲って今日初めて見た。ツムグの話する時の熱とはまた別の方向性というか」
「……昔のことを思い出してしまって」
陽咲は困ったように笑った。その目には悲しみも浮かんでいるように見える。
「母はとても仕事熱心な人で、それゆえ自分の体調をかえりみず仕事に没頭してしまうんです。それゆえ肺炎で命を落としかけたことがあるんです」
小学校に入学して間もない頃、予報外れの大雨が降った。陽咲の母親は傘を持って学校まで陽咲を迎えに行った。
普段なら家政婦に迎えさせるところだが、その頃は陽咲とまともに会話する時間がないほど仕事に追われていた。家で仕事をしていても娘と顔を合わせることはない。それを気にして、自ら傘を持って外へ出た。
「久しぶりに母と話せた帰り道は本当に楽しくて嬉しくて、傘を差していても濡れてしまうほどの激しい雨でしたがそれすら面白いことに感じました。おかげで母は風邪をひきました。仕事のためとはいえ、体調が悪いのを大事になるまで隠されていたことは悲しかったんです……」
だから俺が池に落ちた時も風邪をひかないかひどく心配したんだ。そうだよな。小学生の子供が母親を亡くすかもしれない危機に面したら、その感情は簡単に忘れられない。
『紡君、さっきより顔色が良くなった。本当によかった……』
陽咲の心の声は安堵に満ちていた。そこまで想われて、片思いでも俺は幸せだ。そして、ぎゅっとつかまれるように胸が痛くなる。
普段から感情表現に飾り気がない陽咲のことを分かった気でいたけど、俺はまだまだ理解できてなかった。
知らなかったとはいえ、俺は陽咲の心配具合をおおげさだと思ってしまった。陽咲は俺の体をそこまで心配してくれた。自分の母親と同じくらい。いたたまれなくなる。
「水に濡れた紡君を見た時、母のことを思い出して……。せっかく結音君とチエさんが計画してくれたのに台無しにしてすみませんでした」
「俺は絶対死なないから」
陽咲をまっすぐ見た。
「風呂も入らせてもらうしご飯もごちそうになる。だから笑ってよ」
陽咲には笑顔が似合う。その名前の通り、柔らかい陽射しが咲くような優しい女の子。
彼女が笑ってくれるなら何でもしたい。
「ダブルデートはやり直せるよ。何度でも」
「紡君…!」
陽咲はやっと笑ってくれた。心地よさを与えてくれる笑顔で。その顔が見たくて俺はここにいる。そう思った。