11 妄想と助言
「お風呂とお食事、どちらを先にしたいですか?」
リモコンでじょじょに部屋を明るくすると、まるで新婚の新妻みたいな感じで陽咲が訊いてくる。
まだ高校生だし未成年なので結婚なんて全然考えたことないけど、初めてそれっぽい生活が頭に浮かんだ。俺はまだ結婚できる歳じゃないけど陽咲は16歳。女性は結婚できる歳だ。
ウェディングドレスも似合いそうだけど陽咲は黒髪だしおしとやかだし色白だし、和装も似合うかもしれない。
って、あれ? 高校1年ってことは知ってるけど陽咲って誕生日迎えてるんだっけ? 俺達は知り合ってそんなに長くないし暦はまだ5月。4月か5月生まれじゃないと16歳にはなれない。じゃあまだ陽咲は15歳?
しまった。彼氏役を名乗っておいて彼女の誕生日を知らないなんてまずくないか? 陽咲はそんなの気にしないだろうけど……。
一度気付いてしまうと気にせずにはいられなかった。
「紡君…?」
しまった! 1人で考え込んでしまったせいで陽咲が心配そうな顔になる。
「もしかして体調が良くないのでは……」
「ううん、ちょっと考え事してただけ。先に風呂借りてもいい?」
「はい、もちろんです!」
陽咲は嬉しそうに部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。
「ご案内しますね。こちらへどうぞ」
スイートルームな部屋を出ると広々とした廊下に出た。フローリングは姿が映るほどピカピカに磨かれていて、木製の手すりにもホコリひとつない。家政婦さん達の徹底ぶりが見えた。
手すりや廊下の隅に、内装と同色の緩衝材がこれでもかというほど施されている。これも家政婦さん達の功績なんだろうか。
「これが例の緩衝材? 思ったよりたくさんやってあるね」
そう口にすると陽咲は恥ずかしそうに顔を赤くした。
「うう……。そうなんです。私が失神する回数と緩衝材の数は比例しているんです。そろそろ数を減らしたいとは思うのですが……」
「減らしてケガ負うより今のままがいいと思うよ」
「優しいですね、紡君は」
陽咲は縮こまった。
浴室までは少し距離があったけど話していたらすぐだった。木製の引き戸を開けると温泉施設張りの広い脱衣所、その奥にはすりガラス越しに浴室が見えた。この家は外から見た以上に広いと見た。
一人で入るのがもったいない。っていうか、ロッカーがめっちゃたくさんある。何人の来客を想定してるんだ!? 男湯と書いてあったし、反対側に女湯もあるってことだよな。
「ホントに入っていいの? ここどっかの旅館とつながってたりしないよね?」
「ええ。ここは紛れもなく我が家です。でも申し訳ありません。残念ながらお湯は温泉ではないのです。この家を建てる前、祖父が業者さんに地盤調査をしてもらったのですが湯脈は見つからなかったそうで……」
「ううん、それは謝らないで!? むしろなんかこっちがごめんっ。スケール違いすぎて戸惑ってる」
なるほど。陽咲のおじいさんのこだわりを極めた結果こういうことに。脱衣所にはほのかにヒノキの匂いが漂っている。
「おじいさん、温泉好きなの?」
「はい。母も私も祖父の影響で温泉が大好きなんです」
温泉好きは分かるがそこでサクッと地脈を調べるとか、富裕層の思考は凡人たる俺の思考を超越してる。
「温泉好きとはいえこんなに大きな風呂、よく作ったね」
「完全に祖父の趣味です。でも今はそれがとても役に立っているみたいです。父や母の仕事関係者や友人がよく泊まりに来られますから。……私も」
そこで陽咲は目を伏せ言葉を濁した。
その先に続くセリフが想像できた。私も友達を招きたい。今はなぜか陽咲の思ってることが読めた。心の声を聞いたわけではないのに。
彼女の瞳の奥には親愛の情が浮かんでいた。きっと河南さんのことを思い出しているんだろう。昔は河南さんと一緒にこの家の女湯でまったりしてたのかもしれない。
「楽しみだな」
あえて明るく言った。
「友達んち泊まるのすごい久しぶり」
「とも、だち……」
陽咲は噛みしめるように友達という単語を口にし、目をウルウルさせ、感動からなのか肩を小刻みに震わせた。
「夢がひとつ叶いました。友達とお泊まり会をするのが長年の夢だったんです」
「よかったね。夢が叶って」
「はい!」
明るくなった陽咲を見て、ここへ来られてよかったと思った。もちろん池に落ちたのは不本意だったけど、あのアスレチックを選んで正解だった。
「もちろん両親の気持ちは痛いほど理解していますが。こんな風なので、私には美綾以外の友達って少なくて……」
彼女を思う両親の苦肉の策。それは分かるが、友達付き合いが校内限定となっては誰かと仲良くなったとしても友情の深めようがないだろう。陽咲はそれが寂しいんだ。
「なので、結音君やチエさんがああやって接してくれたことが本当に嬉しくて」
「陽咲……」
笑いながら陽咲は涙を流した。綺麗な雫だ。
「あっ、すみませんっ、これは違うんです、目が雨漏りしたみたいで」
「その例えは初めて聞いた」
ツッコミながら俺は指先で陽咲の涙を拭った。最初はささやかだった涙は、拭えば拭うほど溢れてくる。嬉し涙の中に混ざった色んな感情。
「すごい雨漏り。土砂降りだね」
「はいっ。紡君の指先が傘になってくれてますっ」
「傘にも大穴開いてるけどね」
「いえっ、そんなことはっ。こんな状態で言っても説得力がないかもしれませんが、今すごく楽しいです」
「俺も」
目を合わせ、俺達はどちらかともなく笑った。
初めて見た陽咲の泣き顔。いつも笑ってる彼女がなぜいつも笑顔でいるのか分かった気がした。きっとたくさんのものを我慢して飲み込んで、それでも健気にやってる。
ますます彼女のことが好きになった。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいました。重ね重ねすみません」
「気にしないで。こういうのも彼氏の務めだから」
ハンカチなんて気の利いたものを持ってないので指先しか使えなかったけど、泣きやんだ陽咲の頭をなでてあげるくらいのアフターケアは俺にもできた。
「紡君の手、ホッとします。こんなのツムグにもしてもらったことないから緊張しますけど」
「役目を奪ってツムグに悪いことしたね」
「いっ、いえ。紡君の行為は善意によるものだと理解していますから大丈夫ですっ」
思い切り泣いてスッキリしたのか、陽咲はいつも以上に晴れ晴れした顔をした。
「紡君は私の心を照らす太陽のようです」
「偶然。俺にとっても陽咲は太陽だよ」
すごい。また同じことを考えてた。こういう偶然は何度も重なると運命に感じてしまう。今の俺、完全に乙女な思考だ。
「太陽が二つあったら世界はどうなるんでしょうか」
「暑くなりすぎて海の水が無くなるかもね」
「それは大変ですね。世の中から海水浴という概念がなくなってしまいますっ」
「たしかに。日焼け止めが大量に売れるかもね。……ハックシュ!!」
我慢出来ずに飛び出したクシャミで冗談めかした会話は終了となった。
「お風呂で温まってくださいね。風邪をひくといけませんからまた後ほどお話しましょう」
「だね。ありがたく入らせてもらうよ」
「楽しみに待っています」
深々と頭を下げ陽咲は俺を見送った。同じ家の中にいるというのに名残惜しい気持ちになりつつも、早く彼女との会話を再開したくて浴室の引き戸を閉めた。陽咲の気配はまだ扉の向こうにある。
なんかいいな、こういうの。
さっきの想像の続きをしてしまう。妻の陽咲が俺の風呂終わりを待つ姿。それもたまらなく可愛い。って、勝手に何を考えてんだ。ま、想像だけなら誰にも迷惑かけないしいっか。
やけに楽天的な気持ちで服を脱ぎ、浴室へ向かった。温熱タイルを使用しているようで、素足で触れた浴室の床はじんわり暖かい。
軽くシャワーを浴びてから湯船に浸かろうと思ったが、色んな風呂があってどれに入るか迷った。スーパー銭湯の大浴場を豪華にしたみたいな感じ。泡の出てる風呂もあれば濁り湯もある。材質はヒノキ。家の風呂と違って泳げそうだ。水中歩行用の風呂や、扉を開けた向こうには露天風呂もある。
迷いに迷って、露天風呂に入ることにした。軽くシャワーで体を流し、外への扉を開けた。足を滑らせないよう石畳の床を踏みしめるようにゆっくり歩く。湯気の白さと星空がいいコントラストを生み出している。綺麗だ。風情を感じる。学校が近くにあるなんて信じられない。
外気に触れられるから湯に浸かっても暑くなり過ぎず適度に気持ちいい。冷えた体がじんわりと温まっていく。池の水に濡れベタついていた肌から汚れがおちていくのも分かった。
よく考えてみたら陽咲の家に入るのは初めてだ。家の前までならしょっちゅう来てるけど、家の中まではさすがに。そこまでの仲じゃないし。
彼氏役をしてるんだから成り行きで家に行くこともあるだろうと思わなくはなかったけど、こうも早く来ることになるなんて想像してなかった。
河南さんの件で陽咲の親は外部の客に過敏になった。緊急事態だったとはいえ、よく俺なんかを家に入れてくれたものだと今さらながら思う。話を聞いてると、陽咲の親はよく知らない男と陽咲を二人きりにするのを断固阻止するようなイメージだ。
ゆっくりしすぎて陽咲を待たせるのも悪い。早めに風呂を出た。
「陽咲…! ずっとそこにいたの!?」
脱衣所を抜け廊下に出ると、陽咲は俺を見送った廊下の隅で体操座りをしていた。着替えもまだでスポーツウェアのままだ。心なしか心細げな顔をしてたけど、俺の顔を見るなり彼女は安堵の息を漏らした。
「早かったですね。体は休まりましたか?」
「うん、それはもう充分に! これでもかってくらい贅沢な気持ちになれたよ。ありがとう。でも陽咲は? 風呂入らなかったの?」
「私は後で入るので大丈夫ですよ。お腹は空いてますか?」
そうするのが当然というように陽咲は微笑した。風呂に入って少しお腹が空いたけどさっき陽咲のクッキーを食べたから今すぐ何か食べたいってわけでもない。
「至れり尽くせりだね。でもまだ我慢できるし陽咲も風呂入ってきたら? 今日疲れたでしょ」
てっきり自分の部屋とかで待ってるものだと思ってた。この家の廊下にも空調があり快適な温度を保っている。なので寒くはないけど、こんなところで待ってたら疲れそうだし、家政婦さん達に何か言われたりしなかったんだろうか。
「それに、一人で待ってるなんて思わなかった」
「出てきた時、知らない場所に一人にされるのは心細いかと思いまして」
陽咲なりに気遣ってくれたんだな。
「幽霊や魔法使いに遭遇したりといった特異現象は初めて来る場所で体験するとよくいいますし……」
「気遣いの方向性がなんか違う…! たしかにここへは初めて来るけどその手の心配はしてなかったよっ」
「そうなんですか!? 両親との旅行や法事で遠方へ泊まる時、私はとてもこわいんです。もちろん多少の好奇心は湧きますけどっ」
「旅行や法事の目的が別の何かになってる…!?」
そういえば俺の能力に対しても陽咲は肯定的だ。幽霊や魔法使いなんてのが本当にいたら、彼女は喜んで接触したがるのかもしれない。
「まあ、何はともあれ心配ありがとね。そういえばさっきの部屋って陽咲の部屋じゃないんだっけ」
「はい。お客様用のお部屋です」
やっぱりそうなんだ。庶民の俺には豪華すぎて最初はビックリしたけど、ゆっくりくつろげるいい部屋だった。でも、せっかくだからここまで来たら陽咲の部屋にも入ってみたくなる。
「ご飯の前に、私の部屋も少し覗いてみますか?」
ドキッとした。心を読まれたのかと思った。冷や汗が出る。
「いいの?」
「紡君になら……。全てを見せた仲ですし」
陽咲は意味ありげな顔でそんなことを言った。普通だったら次の展開を期待する甘いワンシーンなんだろうけど、陽咲のセリフにそういう意味はカケラもないと俺は理解してる。
「もしかしてだけど……」
ゴクリと唾を飲み、恐る恐る陽咲の目を見返した。
「はい。そのもしかして、なんです」
浴室から歩いてすぐエレベーターで上の階へ上がった。陽咲の部屋は二階の突き当たり。南向きの角部屋だった。この家には階段もあるらしいが失神常習者の陽咲は階段の使用を禁止され、エレベーターの使用を義務づけられているらしい。
スイートルームな客室や大浴場。一般住宅のエレベーター。陽咲の家でこれ以上驚く物なんてないと思ってたのに、彼女の部屋へ案内された時その認識は間違っていたと悟った。
「っ……!」
やっぱり! 真っ先にそう思った。想像できるようで全くできてなかった。俺は甘かった。
全てを見せた俺には部屋も見せられる。ーー陽咲の言葉の意味は理解していたが、理解がまだまだ浅かった。ここへ来て陽咲のオタク性を再確認させられた。
「美綾には撤去を言い渡されたのですが、どうしてもこれだけは守りたくて。私の城なんです!」
等身大のツムグ人形や等身大ツムグパネルが堂々と置かれてる。ここまでは想像してた。何の情報もなくこの部屋へ連れて来られたらビックリないし引いたかもしれないが、陽咲の部屋だという前提ならむしろ有ることが自然とすら思う物ばかり。にしても、
「こ、これは……!」
小物や家具のレイアウト。一般的な女子の部屋ではない。
俺の部屋がいくつ分だ? 一、二、三部屋、いや、もっと広い。出入り口の扉を中心に、陽咲の部屋は六角形の形をしていて、それぞれの部屋が薄い仕切りで区切られていた。特殊な部屋の構造を利用し、ツムグが出てくるアプリ(えっと、たしか『恋に迷いしプリンセス』だっけ)の世界観を完全再現した室内となっていた。ツムグがよく行くカフェ、彼が大学で使う研究室や自室、それぞれをきっちり分けてレイアウトしてある。
呆けた顔で部屋を見渡す俺を見て、陽咲は一生懸命語った。
「ここまでするつもりはなかったんです。はじめは彼と同じ物がほしいと思い、最も実用性のある学習机を特注品として注文しました。それで満足できると思っていたんですが、ひとつやり出すと徹底的に追求したくなってしまって」
「追求のレベルが違う! 部屋の構造と広さを最大限利用してる…!」
「はい。四六時中ツムグを取り巻く要素で満たされていたかったんです。ここは私の安らぎの地。聖域なんです……!」
力説する陽咲。さすがだ。お金持ちはやることが違う…!
アニメ系イベント会場だと言われても疑わないレベルの仕様。前にミキが持ってたアプリ雑誌を少し見た。そこでちょこっと紹介されてたツムグの部屋と今目の前に広がるそれは、多少色味が違う物もあるけどほぼ現物。
これは美綾も撤去申請するわけだ。話す陽咲の目はキラキラと輝いている。
「やはり、やり過ぎなんでしょうか。美綾にはそろそろ卒業するよう助言されたのですが、決心がつかなくて」
「それ助言じゃなくてもはや命令かもしれないけど。本当に好きなんだね、ツムグ」
「はい。母からも、掃除が大変だろうから家政婦さんのためにもそろそろ普通の部屋にしなさいと言われるのですがなかなか……」
たしかに、特注品ばかりの部屋に入って物を壊さず掃除するのは大変そうだ。さっき迎えに来てくれた運転席の家政婦さんの顔を思い出した。でも、陽咲の趣味を否定する気にはやっぱりなれない。これも惚れた弱みかもしれない。
カフェスペースに行き、テーブルの上に置かれたカップを手に取った。
「すごいねこれ。本当にコーヒー飲めそう」
「もちろん飲めますよ。淹れましょうか?」
丸テーブルに椅子が二つ。一席だけの店内には本物のカフェ同様にカウンターとレジがあり、奥にはコーヒーメーカーやコールドドリンクを作る機械まで置いてある。
「じゃあ、席にかけてお待ち下さい」
部屋の一角。かろうじてツムグコーナーではないシンプルなスペースに三本のポールハンガーとクローゼットがあった。そこにしまってあったエプロンを手にし、陽咲はカウンターの奥に走った。ポールハンガーとクローゼットだけが陽咲の日常生活を感じさせる唯一だった。通学カバンや制服、今日背中にかけていたリュックなどは全てそこへ掛けてある。
陽咲に言われた通りテーブル席に着き、コーヒーを待った。すぐに香ばしい香りが広がった。陽咲は二人分のコーヒーを淹れ、それを両手に持ってきた。
「どうぞ。あ、隣に掛けてもいいですか?」
「もちろん」
コーヒーをテーブルに置き、砂糖とミルクの入ったガラス製の綺麗な容器を持ってくると陽咲は俺のすぐ隣に椅子を寄せてきて座った。その仕草は一部始終優雅な雰囲気だった。
せっかく淹れてくれたのに申し訳ないがブラックコーヒーをおいしいと思える味覚は持ち合わせてないので、一言断ってから砂糖とミルクを入れた。陽咲もブラックは苦手らしく、俺に続いて砂糖とミルクをたくさん入れた。
「おいしい!」
「本当ですか!? よかったです」
ホッとしたように陽咲は俺の顔を見つめる。
「ツムグの来店を想像して何度もコーヒーを淹れる練習をしたんです。コンビニスイーツだけでなく、ツムグはコーヒーの味にもこだわりを持っていますから」
「そこまでしてたんだ。通りで。陽咲って好きな人には尽くすタイプなんだ」
「はい。尽くすものがなくなるほど尽くし切りたいです! と、もちろんそれも大きいですが、『恋に迷いしプリンセス』の主人公はカフェでバイトする高校生なんですよ」
そこへ客として来た大学生のツムグと親しくなり恋に落ちていく。そういうストーリーだと、陽咲は頬を赤らめ話した。
「私の現実世界ではバイトを禁止されていますから、せめて家の中でツムグとの思い出を追体験したかったんです」
「料理もそうだし、さっきもらったクッキーやこのコーヒーもホントうまい。陽咲は徹底的に極めるタイプだね。職人気質というか」
「そうかもしれません。一度好きになるととことん突き詰めたくなるんです。そういうところは母譲りかもしれませんね」
「デザイナーをしてるんだっけ。急に来させてもらったし、後でお礼言えるといいんだけど。ご飯の時とか」
夕食にはきっと家族の人達も同席するだろうという前提で俺は話をした。陽咲は寂しそうに笑う。
「それなら私から伝えておきますよ。今日は二人とも仕事で留守ですから」
「え、そうなの? でもさっき俺が来ること了解してくれたって……」
「電話で話したんです。母は新店舗のスタイリストさんとの打ち合わせで遠方にいます。父は外科医をしているのですが今夜は大事なオペがあるらしく帰宅は無理だと言っていました」
「そっか……。それなら仕方ないし、また今度会えた時に挨拶するよ」
外科医とデザイナー。どっちも忙しそうだ。親のことを話す陽咲はいたって穏やかで、親の不在を不満に思ってるようには全然見えないけど、だからこそ俺の入浴が終わるのを待っていた時の心細げな表情がより印象的に残る。
門限を決められ、自由な外出も事前の許可を得なきゃならなくて、友達付き合いが極めて少ない。陽咲にとって親は心のよりどころなんだ。普段会えない分、休みがあれば一緒に旅行にも行く仲の良い家族。家政婦さんとは必要最低限のことしか話さないみたいだし、こんな広い家に一人きりで本当は寂しいのかもしれない。
「陽咲……」
何を言ったらいいんだろう。
もう寂しい思いはさせない。
俺がいるから。
一人じゃないよ。
ずっとそばにいる。
彼氏役として言うべき言葉はスラスラ思い浮かぶけど、これを口にしたら心地いい今の関係が壊れてしまうんじゃないかって不安になった。
何も望まずただ彼女のそばにいたい。それだけでいい。決定的なことを言ってこの関係を崩すようなことはしたくない。
リアルな恋人のフリをするためにそれらしいセリフを言わないといけない。先日彼女にそう提案したのは俺だった。大胆なことを言っておいて今日はこれだ。恋は病ってよく言うけどまさしくそれだ。時にこうして臆病になる。
無言でコーヒーカップに口をつけた俺を見て、陽咲は嬉しそうに言った。
「今、とても楽しいです」
「……え?」
「カフェに来たツムグを想像しながらコーヒーを淹れる練習をしていたのも本当なんですが、実はもうひとつ目的がありました」
「目的?」
「こうして友達とお話しながらコーヒーを飲むことです」
〝それだけ〟のために、彼女は一人この部屋でコーヒーを淹れ続けてたのか。たったそれだけ。俺にとっては当たり前のことも、彼女にとっては実現不可能に近いことだったんだ。
「陽咲の友達だと、この家には美綾しか入れないんだったね」
分かりきったことを尋ねることで、切なくなる気持ちをごまかそうとした。
「そうなんです。学校には他の友達もいるんですが、家に来るとなると両親がいい顔をしないので……」
そういうの、しんどそうだ。幸い陽咲の友達はそれで陽咲を敬遠することはなく、学校内で親しくしてくれるそうだ。
「私も彼女達に誘ってもらえるんです。でもやはり、美綾の家以外には行ったらいけないと両親が言うので従うほかなくて。誘いを断るのは大変心苦しいのですが……。仕方ないですよね」
河南さんのことがあったので、自分は親に従うのが当然だと、陽咲は思っていた。
俺も親に世話になってる身だから偉そうなこと言えないけど、陽咲の親はもっと陽咲を自由にしてあげたらいいのにと思う。人んちのルールに口出せる立場ではないんだけど。
事情とは裏腹に陽咲は明るく微笑んでいた。
「またこうして友達と家で話せる時間が訪れるなんて思いませんでした。今、とっても楽しいです」
そっか。家の都合は変えられないけど、今はたしかに陽咲を楽しませてる。それでいいのかもしれない。
「俺もだよ。楽しい」
陽咲の家のことを考えて心配してしまう時間も含めて、今ここにいることがとても楽しい。コーヒーなんて特別好きでもなかったけど不思議とおいしく感じるし、通常モードだったらドン引きするだろうアプリな内装も受け入れられている。
見返りを求めてそうしたわけじゃないけど、池に落ちた見返りとしては大きすぎるご褒美だと思った。蜂から守ったことで、俺は特別に陽咲の親の警戒心を崩すことができた。
だったらこれからもここへ来たい。陽咲と楽しむために。
かといって、恋愛感情ばっかで押しかけるのも気がひける。俺はあくまで彼氏役だ。そこはわきまえてる。
中間テストのことを口実にしよう。
「ここって勉強はできるの?」
「もちろんです。一見趣味に走っているように見えるかもしれませんが実用性も兼ね備えているんですよ」
誇らしげに陽咲は胸を張った。そういう意味での実用性もあったのか。意外だ。
「陽咲が都合いい時、ここで勉強教えてよ」
陽咲の通う白女はお嬢様校というだけでなく偏差値が高いことでも有名で、卒業後は有名な国立大や私立大へ進む生徒も多いと聞く。ウチの高校もそこそこ学力は高い方だが進学校ほどでもない。陽咲の学校のテストを受けたら俺は満点なんか絶対取れないだろう。
「はい! それはもちろんです。喜んで!」
勢い込んでオーケーを出した直後、陽咲は顔を真っ赤にした。
「また何か妄想してる?」
「いっ、いえっ。男女が密室で勉強をするというのはもはやアプリのシナリオや少女マンガ界では出尽くしたシチュエーションでして、それはつまり恋愛フラグとも言える大きなイベントなんですよ。男性が女性の部屋に入る、それはすなわち恋人への第一ステップ! ツムグにも勉強を教えてもらいましたが、まさか実生活でも体験できることになるとは思わなくて少々気持ちが興奮してきました…!」
「その感じ、少々ではないよね!?」
陽咲は息継ぎもせず一気にしゃべり、その後ぜえぜえと呼吸を乱していた。なんかやばそう。そんな興奮させるようなこと言ったか!?
「そんな胸の熱くなるリアルイベントに私の心身は耐えられるんでしょうか…!?」
自問自答している。
「二人きりがまずいなら美綾や結音達も呼んで皆でやろうよ。俺はそれでもいいし」
「いえ、まずくはありません大丈夫です。むしろ喜ばしい体験ですっ」
彼氏と部屋で勉強をする。どこにでもあるそのシチュエーションはまさに陽咲の夢だったらしい。勉強してないだけで今も部屋に男と二人きりなんだけど、そこは数に入ってないみたいだ。
「紡君と二人の勉強会も魅力的ですが、美綾や結音君達を呼ぶのも楽しそうですね! ああ、迷います。どれも素敵な選択なのでっ」
「選択って。完全アプリ脳な人が言うセリフだね」
「ああっ、ついクセで」
「はははっ。いいんじゃない。陽咲らしくて」
「恐縮です。……ああ、いいですね」
とても楽しい想像をしてるんだろう。ウットリした顔で思いにふけってる。
「これから何度でもそういう機会はあるよ。俺と二人になれることも、結音や美綾を呼べることも」
「そうですよね! 考えてもみませんでした」
安心したように息をつき、陽咲はほっこり笑った。そうか。陽咲にとってはこうして俺を招いたことも数少ない貴重な経験のひとつで、そういう機会はそうそう訪れないと思ってしまっているんだ。
彼女の生活を考えるとそう思い込んでしまうのも仕方ない。今まで我慢してきた分、楽しいことをいっぱいさせてあげられるといいな。
「皆さんがくつろげいで勉学に励めるようケーキを焼きたいと思います。紡君はどんなケーキが食べたいですか? 皆さんの好みも知りたいです。あっ、でも、この部屋を見たら結音君やチエさんは驚いてしまいますよね。旧知の仲である美綾ですら怪訝な顔をしていましたから……。ケーキ以前の問題でしたっ」
今後のプランを考え、陽咲は赤くなったり青くなったりしてる。
「だったら他の部屋は? 何もここじゃなくても。勉強さえできればいいし」
「その手がありましたね! 紡君、さすがです」
皆を呼ぶ場合、陽咲は他の部屋を使うことに決めた。少人数での勉強に適した和室があるそうだ。チエちゃんはどうか知らないが、結音はそういうことに引くヤツではないだろうけど。中学の頃は二次元アイドルにハマってたし。
「あ、結音から電話だ」
ポケットの中のスマホが振動してる。
「ちょっと出てもいい?」
「どうぞ。私からもよろしくお伝え下さい」
「うん、分かったよ。はい」
『紡、大丈夫か? もう家?』
「ううん。陽咲んちにいる」
『マジか! もう夜だぞ? 何ー? もしかしてお前らまさか……』
ニヤけた声で結音は好き勝手に妄想を働かせている。ゲスなヤツだ。
「そんなんじゃないって。用はそれだけ?」
『用ってほどじゃないけど、あの後どうなったか気になってさ〜。チエも心配してたし』
「そっちはもう解散したの?」
『ああ。さっきな』
チエちゃんとはもうバイバイして今は一人らしい。
「あのさ、今度陽咲んちで勉強やらない? チエちゃんも誘って」
『えー! 勉強はないだろー。なんで女子と一緒にそんな真面目なことしなきゃならんの。つかチエは勉強苦手だし無理だぜ多分』
「……そう言われると思ったよ」
残念。結音とチエちゃんは勉強イベントの参加者候補から外れてしまった。
結音はそう言うと分かってたはずなのに、陽咲と話してる間はそういったことが頭から抜けてて、ただ計画するのを楽しんでた。楽天的な陽咲のそばにいることで俺も似てきたのかもしれない。
『ホントにお前達何もないの?』
「言っただろ。色々事情があるの」
『それは分かってるけどさー。別行動になった時チエとも話してたんだけど、紡と陽咲ちゃんって何か似てるよなぁって』
「どこが」
『んー。分かんねえけど、雰囲気とか?』
「そう?」
俺にはよく分からない。陽咲の方が俺なんかより断然キラキラして見える。
『高嶺の花要素満載の陽咲ちゃんとイケメンだけど平凡な紡はあり得ない妙なカップリングだなーと最初は思ったけどさ』
「サクッと痛いとこ突くなー」
『そりゃ、横から取られた俺としちゃ面白くないだろ〜』
「ああ。そうだったな」
そういえば結音は陽咲にナンパした過去がある。おかげで俺は陽咲と知り合うことができた。惨敗した結音からすれば俺はまさしく棚からぼた餅状態だったわけだ。
「なんかごめん」
『ウソだって。冗談だよ。ま、そんなわけでさ』
「どんなわけだよ」
俺達の会話が気になるのか、陽咲は空になったコーヒーカップを両手で包むように持ち、上目遣いでこっちを見ている。無意識の仕草なんだろうけどそれが可愛くてキュンとした。
俺は陽咲に片手でゴメンのポーズをした。
「そろそろ切るよ」
『あー、待て待て。もうちょっと』
「?」
『陽咲ちゃんってあんなに笑う子だったんだな。意外だったよ』
「いつもそんな感じだよ」
『俺が声かけた時なんて鉄壁のガードで完全拒否だったじゃん。高嶺の花を越えて雲の上の人って感じがしたよ。同じ人間なのにこの世の人じゃないような錯覚さえした!』
「神か何かみたいな言い方だな」
『神か。そう言っても過言じゃないかもな。紡はそういうの無関心だから知らないだろうけど、陽咲ちゃんって白女一モテるって有名な一方、男の前では決して笑わないクールビューティーとしても名高いんだよ。だから、誰が彼女を口説き落とすか賭けてる男も多いって話』
「何だそれ。バカバカしい」
少し不機嫌になった俺の声に反応して、陽咲は不思議そうに首を傾げていた。結音から電話がきた瞬間受話音量を最小にしたので結音の声は陽咲には聞こえてないだろうけど、今のはあまり聞かれたくない話だ。
『まあ聞けよ。そこへ陽咲ちゃんの彼氏を名乗るお前が現れた。そいつら大慌てでさ。これはチエから聞いたんだけど、一応用心した方がいいぞ』
「何を」
『他校には陽咲ちゃん親衛隊なるものも存在する。もちろん非公式だけどな。そいつら、陽咲ちゃんを奪ったお前に何するか分かんねえ』
「本気かそれ」
『そりゃそーよ。陽咲ちゃんは高嶺の花で、その魅力ゆえ惹きつけられる男も多かったし誰のものにもならないことでその価値を高めてきた。そこへ本命彼氏の登場だぞ? 誰が何をしてもおかしくない』
陽咲はそんなこと夢にも思ってないだろう。親衛隊なんて俺も今初めて聞いた。陽咲くらい可愛ければある意味当たり前のことかもしれないけど、結音の気がかりが本当なら物騒な話だ。
「大丈夫だよ。策はある」
前だったら多少の恐怖を覚えただろうけど、今の俺は少しだけ空手ができる。美綾師範は今後も短期で教えると言ってくれた。だったらもっと強くなれる。
『策って何だよ』
「もういいよこの話は」
俺の口調の変化に何かを察したのか陽咲が心配そうに見つめてくるので、早く話を切り上げたかった。
『冷てぇな。心配してんのに』
「分かってる。ありがと」
『陽咲ちゃんの顔久々に見たけどやっぱ可愛いなー。そこらへんのアイドルより全然レベル高いわ。チエのことも好きだけどやっぱ陽咲ちゃんは別格だ。そんな子と家に二人きりでいてホントに何もないの?』
「ない。あったら逆にこわいって」
結音はツムグのことを知らないからそうやって勘ぐるのも無理はない。とはいえ今日はちょっとしつこい。実はまだ陽咲に未練があるんじゃないだろうか。こっちも疑いたくなってくる。……口にはしないけど。
『そういえば陽咲ちゃんには好きな人がいるんだったっけー?』
ナンパした時のことを思い出し、結音は言った。
『あの時はそうなんだって納得したけど、いや、納得はできなかったけど。今思えば、あれは俺を振るための口実だったんじゃないかって思うわ』
「それはないって」
それは本当だ。陽咲はツムグ以外に興味がない。でも結音がそう考えるのも当然といえば当然か。自分を振った直後その友達と仲良くしてたらな……。
しかし、ここまで深く突っ込んでくる結音も珍しい。俺が彼氏のフリをしてるのは陽咲のナンパよけのためだって説明したのに。
「前も言ったけど、俺達はワケありなの。お前や周りが言うような感じじゃないからホント」
『分かってるよ。でもさ、今日紡と陽咲ちゃんを見てたら、それだけじゃないものを感じたっていうか。付き合うのも時間の問題っていうか。そんな感じに見えたんだよ』
美綾にも同じようなことを言われたな。フリだけだって言ってるのに、どいつもこいつも。
「そんなことならまた学校で話せばいいだろ? 陽咲のこと待たせてるしもう切るよ。陽咲んちに迷惑かけたしあんま長居もできないから」
時間を気にするフリをしてサッサと電話を切ろうとした。陽咲は決してそんな素振りを見せないけど、一緒にいる相手がいつまでも電話で話し込んでたらつまらないに決まってる。
『分かったよ。また学校でな。あ、一番言いたかったこと、最後に一個だけ』
「何?」
『陽咲ちゃんの好きな人、今は紡なんじゃない?』
「は!?」
『じゃーな! またどうなったか報告しろよ』
「またって。一度も報告した覚えはない」
こっちの反応なんか無視で結音は電話を切った。置き土産ならぬ置き爆弾みたいな最後の発言は何だったんだ。
「どうしました? もしかしてケンカですか?」
陽咲が気遣わしげに訊いてくる。自分のことを話題にされていたなんて思ってないんだろうな。
「大丈夫。結音とはいつもこんな感じだから」
得意のポーカーフェイスで答えつつ、内心とても動揺していた。
陽咲が俺を好き?
まさかな。そんなのないない。
……でも、本当にそうか?
美綾にそれっぽいことを言われても聞き流せたのに結音の言葉はサラリとかわせなかった。というのも、結音とはそこそこ長い付き合いだし、アイツは人の恋愛事になると妙に鋭い時がある。自分の恋愛には鈍さ全開のクセに。って、誰でもそうなのかも。人のことって自分のことより客観視しやすいし。
『私は悪女になってしまったのでしょうか……。最近自分が自分でなくなっていくような気がするんです』
アスレチックパークで陽咲が言っていた言葉が反射的に脳裏によみがえり、ハッとした。
あれはツムグの影響で出た言葉なんだと思ってたけど、もしそうじゃなかったら? うぬぼれが過ぎるかもしれないけど、あの場合、俺との関係で陽咲の気持ちが揺れ動いてると受け止めてもなんら不思議はない会話の流れだった気もする。
それに、よくよく考えたら今日の陽咲はいつもと違った。寂しさを主張したり、俺のウソが分かって態度を変えたり。それって少なからず特別な感情があるからじゃないの? だって、どうでもいいヤツにはそこまで反応しない。
結音が言ったのはそういうことーー?
「紡君。……紡君?」
「…………」
呼ばれているのにも気付かず、結音の指摘についてしばし考え込んでしまった。
嬉しいのと予想外の展開に出くわした戸惑いとで、胸の音は激しく高鳴っていた。




