第四十三話 片桐の腕
人を抱く腕には、言い訳が残る。
紙なら燃やせる。
帳面なら綴じ直せる。
衣ならほどいて縫い替えられる。
だが、人の身体を抱いた腕だけは、厄介だ。
幼い子が泣いていた重み。
夜着越しに伝わる体温。
廊下を渡る時、腕の中で小さく身じろぎした気配。
そういうものは、誰かに問い詰められるまで、本人も忘れたふりをしていられる。
だが、忘れたふりが長ければ長いほど、いざ思い出した時、腕の奥から重みが戻ってくる。
翌朝、片桐は奉行所へ呼び出された。
呼び出しの文面は簡潔だった。
榊原家の古き書付に関する追加の尋問。
それ以上は書かない。
余計なことを書けば、片桐はまた“家のため”に先回りする。
あの男は、紙の上の言葉が一つ増えるだけで、その裏へ三つ四つの理屈を組み立てるような男だった。
片桐が現れたのは、辰の刻を少し過ぎた頃だった。
昨日より顔色が悪い。
だが身なりは乱れていない。
袴の折り目も、髪の結い方も、すべていつも通りに整えている。
こういうところに、長年家の中を支えてきた者の意地が出る。
忠相は、すぐには口を開かなかった。
片桐を座らせ、茶も出させず、ただしばらく黙って見ていた。
問いを急がない。
相手が先に何を守ろうとするかを見るためである。
片桐は視線を下げたまま、静かに言った。
「本日は、どのような件にございましょう」
「夜のことだ」
忠相がそう言うと、片桐の指が膝の上でわずかに動いた。
「夜、でございますか」
「直次郎を奥へ運んだ夜だ」
片桐の顔は大きくは変わらなかった。
だが、息が一拍止まった。
源之丞が隣でその変化を見逃さず、低く言う。
「覚えがあるようですな」
片桐は静かに頭を下げた。
「古いことにございます」
「古いから聞かぬとは言っておらぬ」
忠相は机の上に一枚の紙を置いた。
新七の残した紙である。
――直次郎様は、泣いておられました。
片桐は、その一行を見た。
読んだ瞬間、今度はさすがに顔に出た。
目尻がわずかに引きつり、唇が薄く閉じる。
家を守るための理屈ならいくらでも並べられる男が、その一行にはすぐに返す言葉を見つけられなかった。
「誰の筆かは、まだ定めぬ」
忠相は言った。
「だが、この文に書かれていることは、真か」
片桐はしばらく黙った。
黙り方にも種類がある。
知らぬ者の黙り。
言いたくない者の黙り。
そして、言えば自分の中にある何かが崩れることを知っている者の黙り。
今の片桐は、三つ目だった。
「真にございます」
やがて、片桐は答えた。
源之丞の眉がわずかに動く。
忠相は続けた。
「直次郎は、なぜ泣いていた」
「幼いお子にございます。夜半に起こされ、慣れぬ場所へ運ばれれば、泣かれるのは自然でございましょう」
「誰が運んだ」
片桐は目を伏せた。
「私にございます」
「お前の腕でか」
「はい」
部屋に沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、忠相は片桐の膝の上の手を見た。
老い始めた手だ。
だが、まだ骨太で、細かな実務を長く扱ってきた男の手である。
その手が、幼い直次郎を抱いて夜の廊下を渡った。
「その時、直次郎は何と言った」
忠相が問うと、片桐は初めて明らかに困惑した顔になった。
「何と、とは」
「泣いていたのだろう。何か言ったか。母を呼んだか。帰りたいと言ったか。誰の名を呼んだ」
片桐はすぐには答えなかった。
やがて、絞るように言う。
「……“寒い”と」
その一言に、場の空気がまた重くなった。
「寒い、か」
「はい」
「夜だからか」
「そう思いました。
ですが、今思えば、夜着一枚で起こされ、慣れぬ腕に抱かれた不安もあったのでしょう」
「お前は、何と答えた」
片桐の喉が動いた。
「……すぐに暖かくなります、と」
「若君様、とは呼ばなかったのか」
片桐の目が、ほんの一瞬だけ忠相を見た。
それからまた伏せる。
「呼びました」
「いつ」
「奥へ入る前に」
「なぜ」
「そこから先は、そうお呼びせねばなりませぬでした」
忠相は静かに息を吐いた。
そこだ。
廊下の途中に見えない線が引かれていたのだ。
離れを出るまでは直次郎。
奥へ入る前から若君。
たった一つの呼び方が、その子の人生を切り替えた。
「泣いていた子に、呼び名を替えたわけだな」
忠相が言うと、片桐は目を閉じた。
「……はい」
「その時、子は泣き止んだか」
「いいえ」
「では」
「なお泣かれました」
忠相はしばらく片桐を見ていた。
家を守る理屈はわかる。
わかるからこそ、余計に腹の底が重くなる。
あの夜、榊原家の者たちは、死にかけた嫡子の前で、次の朝の家の形を整えようとしていた。
それを誰も完全な悪意とは呼べない。
だが、泣いていた子に“若君様”と呼び名をかぶせた事実だけは消えない。
「片桐」
「はい」
「お前は、その夜、家を守ったつもりだったな」
「はい」
「今もそう思うか」
片桐は答えに詰まった。
これまでなら、間違いなく「はい」と言っただろう。
だが、今はすぐに言えない。
それがこの男の中で起きている変化だった。
「……家は守りました」
「子は」
忠相が短く問う。
「直次郎は守ったか」
片桐は唇を引き結んだ。
「食うに困らぬ身にはいたしました。
榊原家の若君として、誰より大切に育てられました」
「それは答えではない」
源之丞が低く言った。
片桐は、源之丞へは反論しなかった。
忠相の方を見て、静かに答える。
「……守れませなんだ」
その声は、驚くほど小さかった。
「何を」
「直次郎様が、直次郎様であった時間を」
部屋が静まった。
片桐は続けた。
「私は、家を守ることばかりを見ておりました。
奥方様も、旦那様も、家中も、皆が崩れぬように。
嫡子様が亡くなられれば、家は裂ける。
縁組も、知行も、家臣の身の振りも、すべてが揺れる。
だから、朝までに形を整えねばならなかった」
「その形のために、幼い子を運んだ」
「はい」
「泣いていても」
「はい」
片桐の声は震えていなかった。
だが、それは強さではなく、長年震えぬように固めてきたものが、今さら震え方を知らないだけだった。
忠相は紙を畳んだ。
「お前一人の判断か」
片桐は黙った。
「前にも問うたな。
その夜の命令は、お前一人のものではないと」
「……はい」
「誰だ」
片桐はしばらく目を閉じていた。
やがて、はっきりと言う。
「奥方様にございます」
「本来の嫡子の母だな」
「はい」
「その母が、別の子を若君として立てることを命じたのか」
「命じた、というより……」
「言葉を濁すな」
片桐は苦い顔をした。
「お認めになりました」
「どういう状況で」
「嫡子様はすでに助かりませぬと、医者が申しました。
奥方様は、御髪も乱れ、御顔色もなく、しばらく何もお聞きになれぬようでございました。
その時、旦那様は床に伏しておられ、家中をまとめられる者がおりませなんだ」
「それでお前が」
「私が筋を申し上げました」
「筋?」
「直次郎様を奥へ移し、嫡子様の衣を改め、翌朝より若君として扱うほかない、と」
源之丞が低く息を吐いた。
片桐は続ける。
「奥方様は最初、お怒りになりました。
あの子はあの子、我が子ではない、と。
けれど……」
「けれど?」
「最後に、こうおっしゃいました。
“ならば、せめて泣かせたままにするな”と」
忠相の目が細くなった。
「泣かせたままにするな」
「はい」
「それは、直次郎を守る言葉か。
それとも、若君にするための言葉か」
片桐は答えられなかった。
おそらく奥方自身にもわからなかったのだろう。
死にゆく我が子のそばで、別の子に若君の顔をさせることを認めた女。
その言葉が慈悲だったのか、逃避だったのか、家を守る諦めだったのか。
きれいに分けられるはずがない。
「奥方に会う」
忠相は言った。
片桐は顔を上げた。
「お身体が……」
「動けぬなら、こちらが出向く」
「ですが」
「まだ隠すつもりか」
片桐は言葉を失った。
「直之は、もう泣いていた直次郎のことを知った。
お前の腕のことも知る。
次は、その夜を認めた奥方の口を聞かねばならぬ」
片桐は深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
取り調べが終わり、片桐が下がったあと、源之丞がぽつりと言った。
「悪人、とだけ言えれば楽ですな」
「うむ」
忠相は答えた。
「だが、そうではない」
「片桐は家を守った。
けれど、直次郎を削った」
「そうだ」
「奥方も、おそらく」
「同じだろうな」
泣かせたままにするな。
その言葉は、慈しみのようにも聞こえる。
だが、泣いていた理由を取り除く言葉ではない。
泣いている子へ、別の名を着せて、泣き止ませようとする言葉でもある。
その夜、忠相は直之へ片桐の供述を伝えた。
直之は静かに聞いていた。
片桐が抱いたこと。
寒いと言ったこと。
奥へ入る前に“若君様”と呼ばれたこと。
奥方が「泣かせたままにするな」と言ったこと。
すべてを聞き終えると、直之は長い間、何も言わなかった。
佐吉も同じ部屋にいた。
彼は口を挟まず、ただ直之の横顔を見ている。
やがて、直之が言った。
「私は、寒いと言ったのですね」
「片桐はそう申した」
「妙です」
「何がだ」
「その言葉だけは、少しだけわかる気がします」
直之は自分の両手を見た。
「夜の廊下も、誰の腕だったかも、はっきりとは思い出せません。
でも、寒い、という感じだけは……どこかに残っている」
佐吉が小さく言った。
「匂いとか、音とか、そういうのだけ残ること、あります」
直之は頷いた。
「そうですね」
それから直之は、少しだけ苦く笑った。
「若君にされる夜に、私は立派なことなど何一つ言っていない。
ただ寒くて、泣いていた」
「それでよい」
忠相は言った。
直之が顔を上げる。
「よいのですか」
「幼い子が夜に起こされ、慣れぬ腕に抱かれ、寒いと言って泣く。
それを恥じる必要はない」
直之は、何かをこらえるように目を伏せた。
「私はずっと、若君として足りなかったのかと思っていました」
「違う」
「そうですね」
直之は小さく息を吐いた。
「私は、若君になるには幼すぎただけだ」
その言葉は、部屋の中へ静かに落ちた。
佐吉が、少しだけ目を伏せる。
彼もまた、自分の名を動かされた時、幼すぎた。
何も選べなかった子どもに、あとから大人の理屈だけが積まれていく。
その残酷さを、二人は別の形で知っていた。
「奥方様に、会うのですか」
直之が問う。
「会う」
「私も」
「今はまだ待て」
忠相が言うと、直之は少しだけ唇を結んだ。
「また待つのですね」
「そうだ」
「待つのは、本当に難しい」
佐吉が横からぼそりと言った。
「それ、さっきも言ってました」
直之は一瞬きょとんとし、それからほんのわずかに笑った。
「何度も言いたくなるほど、難しいのです」
「まあ、それはわかります」
短いやり取りだった。
だが、そこに人の息があった。
忠相は二人を見て、静かに思った。
泣いていた直次郎。
火の夜の佐之助。
どちらも、子どものまま大人の理屈に巻き込まれた。
だが今、二人は少しずつ、自分の言葉でその夜を読み直し始めている。
次は、奥方だ。
あの夜、死にゆく我が子のそばで、別の子を若君として認めた女。
その沈黙を聞かなければ、この夜はまだ終わらない。




