第四十二話 夜の続きを返す者
夜の記憶は、昼の記憶よりも曖昧だ。
光が少ないからではない。
夜に起きたことは、たいてい大人たちが昼へ持ち出さないからだ。
夜のうちに誰かが呼ばれ、夜のうちに衣が替えられ、夜のうちに泣き声が押し殺される。
そして朝になると、家は何事もなかったような顔をする。
障子は開けられ、膳は運ばれ、昨日までと同じ名が呼ばれる。
ただし、その名で呼ばれる子だけが、どこかで夜の続きを抱えたままになる。
神田川の古い船着き場で見つかった紙を、忠相はすぐには直之へ見せなかった。
奉行所へ戻る道すがら、源之丞が一度だけ尋ねた。
「若君へ、今夜のうちに」
「見せる」
忠相は答えた。
「ただし、人払いをしてからだ」
「佐吉は」
「呼ぶ」
源之丞がわずかに眉を動かした。
「佐吉も、ですか」
「この紙は、直之だけのものではない」
「しかし」
「佐吉が拾った紙片の続きだ。あやつを外せば、また誰かが勝手に紙を読んで、当人を置き去りにすることになる」
源之丞は少し考え、やがて頷いた。
「承知しました」
奉行所の奥の一室に、直之と佐吉が呼ばれたのは、日がすっかり沈んだあとだった。
直之は静かだった。
静かすぎると言ってもいい。
もう何かが来るとわかっている顔で、最初から怯えることも、平静を装いきることも諦めているように見えた。
佐吉は逆に、少し落ち着かない。
さっきから膝の上で指を組んだり解いたりしている。
自分がここにいる理由はわかっている。
だが、直之の前でこの紙が開かれることの重さまでは、まだ測りきれていないのだろう。
忠相は、油紙の包みを畳の上に置いた。
「神田川の船着き場に置かれていた」
それだけ言って、包みを開く。
中の紙を広げると、直之の視線がすぐに吸い寄せられた。
――これは、まだ全部ではありません。
――若様に、夜の続きを返してください。
――直次郎様は、泣いておられました。
直之は、動かなかった。
ただ、顔からすっと血の気が引いていくのがわかった。
大声を出すわけでも、手を震わせるわけでもない。
しかし、その静かさがかえってひどく痛ましい。
佐吉が息を詰めた。
「……これ」
言いかけて、言葉を飲み込む。
直之は長い沈黙のあと、紙から目を離さないまま言った。
「泣いていた、のですね」
誰に向けた問いでもなかった。
ただ、紙に書かれた言葉を自分の中へ一度落とすための声だった。
「そのように書かれている」
忠相は答えた。
「私は、覚えていません」
「うむ」
「ですが」
直之は少しだけ眉を寄せた。
「夢なら、見たことがあります」
佐吉が直之を見る。
源之丞も口を挟まなかった。
「どんな夢だ」
忠相が静かに問う。
「夜の廊下です」
直之はゆっくりと言葉を探した。
「子どものころから、何度か同じ夢を見ました。
夜の廊下を、誰かに抱えられている。
灯りが少なくて、天井ばかり見えている。
自分は泣いている。
けれど、なぜ泣いているのかはわからない」
「その夢を、誰かに話したか」
「いいえ」
「なぜ」
直之は、少しだけ苦く笑った。
「話せば、また家中の空気が止まる気がしたからです」
その答えに、佐吉が小さく息を吐いた。
「……それ、わかります」
直之が佐吉を見る。
佐吉は少し迷ってから続けた。
「近江屋でも、聞いちゃいけないことって、ありました。誰もそう言わないんです。でも、聞こうとすると、空気が止まる。だからそのうち、こっちが聞かなくなる」
直之はしばらく佐吉を見ていた。
それから、静かに頷いた。
「そうです。
聞いてはいけないと教えられたのではない。
聞かぬ方がよいと、空気の方が先に教えてくる」
その言葉は、二人の間にだけ通じるもののようだった。
忠相は紙を畳まず、そのまま置いた。
「この紙を書いた者は、新七という若い男らしい」
「新七」
直之が繰り返す。
「帳面屋崩れだ。返せぬ紙の倉に関わっていたが、燃やす側に回りきれなかったらしい」
「その人は、私を知っているのですか」
「おそらく直接は知らぬ。
だが、お前の名がどう扱われたかを記した紙を読んだ」
直之は目を伏せた。
「私を知らない者が、私の夜を知っている」
その一言は、部屋の中へ重く落ちた。
知らない者が、自分の一番深い夜を紙で知っている。
それは、若君としての面目がどうという話ではない。
一人の人間として、ぞっとすることだ。
「許せませんか」
佐吉がぽつりと言った。
直之は少しだけ顔を上げた。
「何をですか」
「知らないやつが、自分のこと知ってるみたいに書くの」
直之は考え込んだ。
「……許せない、というより、寒いです」
「寒い」
「ええ。
自分でも触れたことのない場所を、他人が先に紙で触っているようで」
佐吉は頷いた。
「俺も、帳面で自分の名前を見た時、そんな感じでした」
「怒りではなく?」
「怒りもありました。でも最初は、寒かったです」
直之はその言葉を静かに受け取った。
二人はまだ親しいわけではない。
だが、互いの痛みが似ているところと似ていないところを、少しずつ手探りし始めている。
忠相は源之丞へ目を向けた。
「お冴を呼べ」
源之丞は頷いた。
榊原家からお冴が来たのは、夜もかなり更けてからだった。
年を取った女中にはつらい時刻だろう。
だが、呼ばれた理由を聞いたのか、足取りは思いのほかしっかりしていた。
部屋へ入ったお冴は、直之の顔を見た瞬間、何かを悟ったように目を伏せた。
「お冴」
直之が先に声をかけた。
「はい」
「私は、泣いていたのですか」
お冴の顔が、目に見えて歪んだ。
それだけで答えになっていた。
だが直之は逃がさなかった。
「言ってください」
お冴は、深く頭を下げたまま、しばらく声を出せなかった。
やがて、掠れた声で言う。
「……泣いておいででした」
直之の肩が、ほんの少し落ちた。
「そうですか」
「夜半でございました。
奥は騒がしく、嫡子様のお部屋には医者と奥方様が詰めておられました。
直次郎様は離れにおられましたが、片桐様が……」
そこでお冴は口を閉ざした。
忠相が静かに促す。
「続けろ」
「片桐様が、直次郎様をお抱きになり、奥へ」
直之は目を閉じた。
「私は、泣いていた」
「はい」
「なぜ」
お冴は首を横に振った。
「幼いお子に、理由など……。
夜中に起こされ、知らぬ大人の腕に抱かれ、灯りの少ない廊下を運ばれたのです。
泣かぬ方が、不思議でございます」
それは、おそらく一番正直な答えだった。
家のため。
若君のため。
家督のため。
そんな理屈よりずっと前に、子どもは夜に起こされれば泣く。
その当たり前のことを、家を守る大人たちは見ないことにした。
直之は、しばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「その夜から、私は若君になったのですか」
お冴は答えられない。
忠相が代わりに言った。
「少なくとも、その夜が継ぎ目の一つだったのだろう」
「継ぎ目」
「うむ。
人は一晩で別人にはならぬ。
だが、周りが呼び方を変え、衣を変え、部屋を変え、扱いを変える。
その始まりの夜だ」
直之は目を開けた。
「私は、泣いていた子を忘れて若君になったのですね」
「忘れたのではない」
忠相は言った。
「忘れさせられた。
だが、身体のどこかには残った」
佐吉が、ぽつりと言った。
「だから夢になったんじゃないですか」
直之は佐吉を見る。
「夢に」
「俺も、火の夜のこと、全部は覚えてないです。
でも、匂いとか、音とか、変なとこだけ残ってて。
あとから聞いた話と合わさって、やっと“あれはそういうことだったのか”ってなる」
直之は、ゆっくり頷いた。
「そうかもしれません」
お冴は涙をこらえるように唇を結んでいた。
長く隠してきた夜が、いま本人の前でようやく形を持ち始めている。
それは彼女にとっても、苦しいことなのだろう。
忠相は問うた。
「お冴。その夜、衣は替えたか」
「はい」
「誰が」
「お雪と、私と、もう一人の女中で」
「片桐は」
「衣を運びました」
「どの衣だ」
お冴は、一度直之を見た。
直之は小さく頷く。
「申せ」
「嫡子様のために誂えられていた小袖を、直次郎様に合うよう、急ぎ直したものです」
部屋がまた静まった。
佐吉は顔をしかめた。
直之は動かない。
だが、その動かなさが、ひどく深いところへ刺さっていることを示していた。
「私のものではなかった」
「……はい」
「それでも、私が着た」
「はい」
「泣きながら」
お冴は答えられなかった。
直之は、そこで初めて少しだけ笑った。
笑いと言っていいのかわからない、乾いた表情だった。
「若君にするには、ずいぶん乱暴な夜ですね」
「そうだな」
忠相は答えた。
「ですが」
直之は紙へ目を落とした。
「それでも、私はその夜から生きてきた」
「そうだ」
「なら、泣いていた直次郎を知っても、直之として生きた時間まで消えるわけではない」
その言葉は、誰かに言われたものではない。
直之自身が、ようやく自分の中から取り出した言葉だった。
忠相は頷いた。
「その通りだ」
佐吉も、小さく頷いた。
「それ、たぶん大事です」
直之は佐吉を見る。
「佐吉殿も、そう思いますか」
「はい。俺も、佐之助って名があったからって、佐吉でいた時間が全部消えるわけじゃないって、最近やっと思えるようになってきたので」
直之は静かに息を吐いた。
「では、私も少しずつでしょうね」
「たぶん」
佐吉は少しだけ肩をすくめた。
「いきなりは無理です」
「それを聞いて、少し安心しました」
直之がそう言うと、佐吉は照れたように視線を逸らした。
お冴はその二人を見て、また深く頭を下げた。
今度の礼は、若君に対するものだけではなかった。
泣いていた直次郎を、ようやく人として扱い始めた者たちへの礼にも見えた。
忠相は最後に言った。
「お冴」
「はい」
「その夜、直次郎を抱いたのは片桐だな」
「はい」
「では次は、片桐に聞く」
お冴の肩が小さく震えた。
「片桐様は……」
「逃がさぬ」
忠相は静かに言った。
「紙だけではない。
泣いていた子を抱いた腕にも、聞かねばならぬことがある」
夜はまだ深い。
だが、直之の長い夜は、ようやく少しだけ続きが読まれた。




