Three:濡れたバス停と本
回想を終えた頃には既に涙は渇いていた。僕は体を上げて、施設に籠っていても仕方がないと考え外に出ることを決意する。地上にあるロビーに繋がる階段を一段、また一段と上がり続ける。もう、この階段を上ることはないかもしれない。階段を上り切った僕は、ロビーが思いの外荒らされていなかったことに驚く。ここはあくまで身体検査や顔認証が行われるだけなので、荒らす必要もなかったのだろう。僕はたった今上がってきた階段を見下ろした。この下で100年カプセルと思い出が作られたと考えるとまた涙が出そうになったが、流石に泣くことにも疲れて出なかった。そして僕は、知らず知らずのうちに研究施設に蝉川博士がいないか探していることに気づく。
扉を開けると光が僅かな隙間から僕の目に直進してきて、扉を開けるのを中断する。だがそれも束の間であり、今度こそ僕は扉を完全に開ける。身体を外に出す。
僕は思わず「うわあ...」と声に出していた。それは悲観するための言葉ではなく、感動と驚愕のための言葉だった。
外に出れば果てしなき空が広がっていた。人類滅亡後には似つかぬほどの青空だった。荒廃した東京は雨上がりの雫で輝いていた。青空を映す鏡の水溜り。遠くに見える入道雲。容赦なく照りつける太陽。僕にもたらしたのは絶望ではなく感動であった。暫く感動に浸っていたが、僕の感動は一転して驚愕へと変貌した。遠くに濡れているバス停に座っている小さな人影を見つけた。
なんで、いるんだ?
誰か生き残ったのか?あの核戦争を?気づけば僕は歩き始めていた。だんだん一秒でも早く知りたいようになり、僕は遂には走っていた。人影は少女であった。頭に被っている麦わら帽子と白いワンピースは今が夏であることを強調させた。身長はどうやら低いようで、中学一年だか二年だか、下手したら中学生ではないのかもしれない。僕は少女のすぐそこまで近づく。それでも少女はこちらに気づかない。
僕は「やあ」と声を掛けた。椅子に座っていた少女は声にかなり驚いたようで、呆然とした顔で僕を凝視した。しかし、少女は表情をすぐに変えて微笑みを浮かべた。
「あなた、名前は?」
そういえば、名前を名乗っていなかった。
「僕は鴨志田大和。君は?」
「私は出雲想歌。これからよろしくね」
少女──出雲想歌は手を差し出してきた。僕はされるがままに握手をする。一本一本の指がすぐに壊れそうなほどに細かく、手がひんやりと冷たかった。
沈黙が流れる。なぜ想歌がここにいるのか尋ねるべきか。少し悩んでいると、心の内なる自分に「尋ねなさい」と言われた気がした。僕は思い切る。
「ねえ、君はなんで」
「私は27歳よ」
言葉が被った。
僕は「...え?」と絶対にしてはいけないはずの反応をしてしまった。
「『え』って何よ!反応が失礼ね!」
「いやすみません、実は中学生ぐらいなのかもしれないと思っていまして...」
僕は正直に謝る。蝉川博士はかつてのアメリカ大統領であるリンカーンの濡れた本に関するエピソードが好きだった。近所の人から借りていた本が雨漏りによってずぶ濡れになり、持ち主に正直に謝り、持ち主のもとで三日間働いた話だ。持ち主はその誠意な行動に感心し、リンカーンは濡れた本を貰ったという。この話を蝉川博士は事あるごとに持ち出していた。それが僕の体に染み込み、こうして正直に謝るようになった。しかし、気軽に声かけてしまったのが今になって恥ずかしくなってくる。
「まあ、正直に謝ったんだし許すよ。にしてもなんで敬語なの?」
「当たり前じゃないですか、僕は25歳ですよ?」
今度は想歌──ではなく出雲さんが「え...?」と言う出番だった。確かに名前は名乗っても年齢は言っていなかった。
「『え』って何よ、失礼ね、とか言えば良いですか?」
僕はまた怒られることを覚悟していたのだが、意外にもふふっ、と笑った。
「なら私より二個下ってことよね?そうか25歳なのか...」
ええそうなんですよ僕から見たら先輩ですね、と言おうとしたところで僕は「あ」と気がついた。
「出雲さんすいません、僕が間違ってました。正しくは26歳です。今日が誕生日なんですよ」
「え、そうなの!?今日が誕生日なんだ!...ところで今日って何日?」
どうやら出雲さんは日付を知らないらしい。僕は「8月3日ですよ」と答える。
「へえ、8月3日なんだ...まあいいや」
出雲さんは嬉しいのか嫌なのか、よくわからない微妙な表情を浮かべた。そのとき出雲さんは突然、僕の腕を掴み、「なら誕生日パーティをしなきゃね!」と叫んだと思えば水溜りをバシャバシャと踏みながら走り出した。
「え、パーティって何ですか!?」
僕の腕を掴みながら群青世界の中を駆ける出雲さんはこう言うのだ。
「今から一緒に行くよ!果てしない冒険にね!」




