第5話 マゾ、気味の悪い希望と思われる
それは、町いちばんの大市へ向かった日のことだった。あの時のことが、妙に頭から離れない。
いちばん引っかかっているのは、イタロウを見た瞬間、左腕の紋章がはっきりと脈打ったことだ。気のせいではない。あれは確かに、あいつに反応していた。
あんな反応は初めてだった。
魔族に向ける警戒とも違う。もっと曖昧で、正体のつかめないざわつきだった。奇妙で、不気味で、なのに目をそらしきれない。そんな説明のつかない感覚が、ずっと胸の奥に残っている。
だからこそ、その直後に見た銀髪の少女――シャロンの顔も忘れられなかった。
イタロウを見つめるあいつは、ほんのかすかに苦笑していた。
普段のシャロンは、歳のわりに妙に冷めていて、何もかも最初から見切っているような目をしている。子供らしくない、あの諦めきったような目を見るたびに、こいつも俺と同じで、何か訳ありなのだろうとは薄々感じていた。
そんなあいつが、あの時だけは少し違った。
黙って成り行きを見つめるその瞳に、一瞬だけ尊敬にも似た光が宿ったのだ。
だがそれも束の間、すぐに気色の悪いものを見つけたような苦い表情へと沈んだ。
本能では距離を取りたがっている。なのに理性は、そこから目を逸らすことを許さない。
嫌悪と警戒を滲ませながら、それでもなお縋るしかないと悟ってしまった――そんな顔だった。
……あの得体の知れなさに、目を逸らせなかったのは、たぶん俺も同じだった。
その夜、俺は眠れなかった。
目を閉じれば、焼け落ちた王都が浮かぶ。崩れた塔。裂けた城壁。火と血と灰の臭い。俺の国は魔族に滅ぼされた。王都は焼かれ、城は落ち、守るべきものは何ひとつ残らなかった。
俺は逃がされた。王家に連なる血だけでも残すために。
左腕に刻まれた灰色の紋章は、その証だ。誇りだと教えられたこともあったが、今の俺には呪いにしか思えない。
各地を転々とし、難民に紛れ、荷台に押し込まれ、ようやく流れ着いたのがこの孤児院だ。
俺の中に残っていたのは、ただ一つ。
早くここを出て、冒険者になり、力をつけ、いつか国を滅ぼした魔族どもを一匹残らず殺し尽くす!
それだけのはずだった。
それ以外のことに心を乱される余地など、もう俺にはないと思っていた。
……なのに、その夜も頭から離れなかったのは、昼間のイタロウの顔だった。どうして、あいつのことがこんなにも引っかかるのか自分でも理解できなかった。無視できなかった。
ミーナ先生が転び、熱いスープがあいつにぶちまけられた瞬間、イタロウはたしかに痛みに顔を歪めた。そこまでは普通だ。だが、その次が妙だった。
泣きそうな顔のまま固まり、唇を引き結び、肩を震わせていた。まるで痛みそのものより、痛みに対する自分の異常な反応を抑え込んでいるようだった。
あの顔が、妙に頭に残った。
眠れないまま裏庭へ出て、俺は左腕の袖をめくった。灰の紋章が、じわりと熱を持つ。昨日もそうだった。イタロウを見ている時だけ、妙に反応する。
魔族の気配とは全く違う別物。だが一般的なものではない。
それはもっと曖昧で、名づけようのない何かだった。奇妙で不可解で、心の底をざわつかせる不吉さを帯びている。なのに、その不気味さの奥には、かすかな期待のようなものまで潜んでいた。理解できないまま惹きつけられる、説明不能のざわめきだった。
偶然かもしれない。気のせいかもしれない。だが、一度ならともかく、こう何度も続くと無視はできなかった。
灰の紋章は、イタロウを見ている時だけ妙に反応する。しかも、あいつ自身もただ鈍くさいだけのガキには見えなかった。
熱いスープを浴びた時も、指を強く打った時も、ただ痛がっているようには見えなかった。痛みそのものより、その直後に自分の内側で起きる何かを必死で押さえ込んでいるように見えた。
もしあいつが、本人にも扱いきれない厄介な加護か呪いを抱えているのだとしたら――放っておくのは危うい。
それに、あの危なっかしさも妙に引っかかった。
弱い。鈍くさい。今にも泣き出しそうだ。なのに、肝心なところで妙に粘る。崩れそうな顔のまま、最後の一線だけはどうにか踏みとどまっている。そのしぶとさが、少しだけ昔を思い出させた。城が落ちる直前まで、傷だらけで立ち続けていた護衛たちのことを。
似てもいない。
強さも覚悟も、あいつにはまだない。
……それでも、目を離しちゃいけない気がした。
「……なんなんだ、あいつは」
警戒するべきなのかもしれない。見張っておくべきなのかもしれない。少なくとも、ただの間抜けなガキだと判断するには、妙に引っかかりすぎていた。
翌日、またイタロウがやらかした。
物置の前で薪を運んでいた時だ。どう見ても抱えすぎなのに、本人だけは行けると思っていたらしい。案の定ぐらりと崩れ、薪の束がずれ、指先を木箱の角へ思いきりぶつけた。
ごつっ、と嫌な音がした。
「ッッ……!!」
イタロウの目に、一気に涙がにじむ。普通なら泣く。だが、こいつはその場で固まったまま、別の意味で大変な顔をしていた。
*
――ふざけんな!!
イタロウの脳内で、警鐘が鳴り響いた。
痛い。普通に痛い。めちゃくちゃ痛い。木箱の角、何? 敵か? もっと丸く作れよ!
だが問題はそこじゃない。
この痛み、やばい。
神様にもらった――いや、違う。押し付けられた最悪スキル、《被虐嗜好》が反応する。
苦痛を、妙な高揚感や多幸感に誤変換する厄介なスキル。
いらん。そんなもん本当にいらん。
もっとこう、剣が上手くなるとか、魔法が使えるとか、まともなやつをくれ。
前世で見ていたラノベでも、こんなくその役にも立たない呪いみたいなスキルの主人公、見たことないって!
今ここで反応したら終わる。みんなの前でマゾってアレな顔になったら終わる。人として終わる。
耐えろ俺。これはただの痛み。痛いだけ。以上。解散。なのに頭の奥がじわっと熱くなって、変な高揚がせり上がってくる。気持ちよすぎて、もう身を委ねてしまいそうだ。マジでなんなんだこの変態スキルは!
やめろ。顔、ゆるむな。口元、上がるな。今ここでマゾったら社会的に死ぬ。嫌だ、こんな死に方、あまりに嫌すぎる。俺、持ちこたえろ。自分に負けるな。
「ぬ、ぬぉぉぉ……っ」
変な声が漏れた。が、ギリギリ持ちこたえた。とはいえ、最悪の気分だった。あまりに心臓に悪い。
*
俺は思わず足を止めた。
イタロウは指を押さえたまま、小刻みに足踏みしていた。泣くのをこらえているようでもあり、笑いを噛み殺しているようでもあり、自分でも何が起きているのかわからず混乱しているようでもある……あるのだが、なんと言えばいいか……。
年下にこんなことを言うのも失礼かもしれないが、とにかく気味が悪い。本当に申し訳ないが、気持ち悪い。なぜ、こんな感情が湧くんだ? いや、それよりも。
「お、おい、大丈夫か?」
「う、うん……ちょっと、いたかっただけ。でもだいじょうぶ。うへへ、ぜんぜんだいじょうぶ」
大丈夫なわけがないだろ。俺ですら普通に涙がこぼれるレベルだぞ?
あとなんだ、うへへって。一瞬、顔がイカれてたような……いや、さすがに気のせいか。
顔は真っ赤、目は涙目、声は震えている。なのに倒れない。泣き崩れもしない。必死に何かを押さえ込みながら、その場に立ち続けている。ただ痛みに強いわけじゃない。痛みのあとに来る何かと戦っているように見えた。
「へいき……へいき……っ。いや、へいきじゃない。でも見た目だけでもへいきでいけ、俺……っ」
小声で何かと交渉している。まるで内なる自分と話でもしているように見える。意味がわからない。だが、その意味のわからなさを無視できなかった。ただの泣き虫なら、普通の反応だからそこまで気にしない。
だが、こいつは違う。危なっかしいのに、妙なところで踏みとどまる。壊れそうな顔をしながら、壊れまいとしている。もしこれが紋章の反応と関係しているなら。もしこいつの中に、人とも魔族とも違う何かがあるなら。放置はできない。
それに正直に言えば――見ていないと不安だった。
こいつは放っておくと、そのうち自分の異常さを隠しきれず、もっと大きな騒ぎを起こす気がした。厄介事は嫌いだ。だが、厄介事の芽を見逃して後で爆発されるのは、もっと嫌だった。
その時、また左腕の奥の紋章がじわりと熱を持った。
「……っ」
布の下で、灰の紋章が脈打つ。
昨日もそうだった。今日もだ。やはりイタロウを見ている時だけ、感じたことのない反応を見せる。この紋章は、イタロウの何に反応しているんだ?
そこへシャロンが通りかかった。
イタロウを一目見て、あいつはまた笑っていた。凄まじい苦笑いだ。あいつが表情を変えるのは、本当に珍しい。
その時、俺とシャロンの視線がぶつかる。俺にもうっすら笑いかけ、すれ違いざまに一言。
「安心してください」
そう呟いて去っていった。
――やはりお前も何かに気づいてるのか。イタロウの特異性に。明らかに普通じゃない何かを。ただの勘だが、大物の器だとか、そういう格好いい意味ではたぶんない。もっとこう、放っておくとろくでもない方向に転がる類のものだ。
灰の紋章は確かに反応している。ただ、それが悪い反応には思えない。
まだわからない。けれど、確信に近い直感だけはあった。こいつは、いずれ俺の復讐に関わる。いや、関わってしまう。
そんな気がする。だから――もう少しだけ、見てみよう。
紋章の反応を確かめるためだ。それに、あいつはなんだか見ていないと本当に危ない気がする。危ないの方向性は違う気もするが……まあ、なんにせよ注視することに変わりはない。
そう自分に言い聞かせながら、俺は指を押さえてぷるぷる震えているイタロウから目をそらせなかった。
胸の奥で、灰のように冷えきった復讐心の隅にだけ、小さく、ひどく気味の悪い希望が灯っていたことに、この時の俺はまだ気づいていなかった。




