閑話:黒森の少年の門出
私がまだ10歳にもならないころ、兄上はこの家を出奔してしまった。
「お前に全部任せてしまうことになる。すまないな」
そう言い残して。
後から知ったことだったが、叔父上は兄上を謀殺し、この家を乗っ取るつもりだったのだという。
ずっと憧れていた“高潔な剣士”という幻想がもろくも崩れ去り、幼い私はいったい誰を怨んだらよいのか、兄上が出ていかなければこんなことにならなかったのではないか、そうやってずいぶんと長い間鬱々と考えていた。
だが、兄上のおかげでこの家が酷いことにならずに済んだと考えなさいと母上に諭され、どうにか感情のおさまりをつけたのだった。
そうして長く音沙汰のなかった兄上から届いた手紙には、騎士になりたいという兄上の息子……フォルをよろしく頼むと書いてあった。約束の日に屋敷を訪れた少年は兄上によく似た面差しで、けれど、その色は兄上ではなく、あの兄上の帰還の際に屋敷を訪れた風変りな魔法使いの色だった。
ふたりにまっすぐ育てられたのだと伺える目の光の強さは、きっとその気性も兄上と似ているのだろうと感じられ、まったくもって兄上の子らしい。
緊張のためか幾分か顔を紅潮させ、それでも騎士への憧れと希望を大いに語る彼の姿に、思わず笑みが零れる。
年老いた家令や女中頭は、「まるでアロイス坊ちゃんの子供のころを見ているようです」と目を潤ませる。
兄上は昔からこの家の者たちに好かれていたから、兄上がいなくなって皆寂しいと感じていたのだろう。誰もその出奔の理由について、この少年に向かってあれこれとつまらないことを言うものなどはなく、ただ、兄上に似た少年を見ては昔この家にいたころのことを思いだし、懐かしむように兄上のことを語っていた。
皆、少年の訪いを好意的に受け止めているようだった。
「それで、兄上……アロイスは元気でやっているのか?」
「はい。とう……父上は、ハラルト叔父上のこともいろいろと話してくれました」
「そうか」
緊張のあまり、言葉までがたどたどしくなっている少年に、「もう少し力を抜きなさい」と声をかける。
彼は息を吐き、少し頼りなげに「はい……」と返事をする。
「ちちうえ、おきゃくさまにあいさつをなさいって、ははうえが」
コンコンとノックの音がして、扉の向こうからそう声がかかった。
入りなさいと返すと、かちゃりと扉を開けて、まだよちよち歩きの妹の手を引いた幼い息子が部屋へと入ってくる。
「フォル、紹介しよう。お前の従弟妹、テオドールとゲルトルーデだ。テオ、トルーデと一緒にこちらへおいで。フォルにきちんと挨拶なさい」
「はい、ちちうえ」
状況のよくわかっていないようすのトルーデに、ちゃんといっしょにあるくんだと声をかけ、テオは精一杯姿勢を正して私の傍らへと進んだ。
「はじめまして、テオドール・マンスフェルダーです。こちらはいもうとのゲルトルーデです、いご、おみしりおきを、いとこどの」
「フォルです。こちらこそ、以後よろしく」
右手を差し出し握手を交わすふたりに、「仲良くするのだぞ」と言った。
「ところで、フォル」
「はい、何でしょうか、叔父上」
「アロイス兄上のことだ、たぶんお前に“家名は捨てた”とか言っているのだろうが、騎士となるものが家名なしというわけにはいかない。以降、マンスフェルダーを名乗りなさい」
「……はい!」
「あとで、私から兄上に手紙を出しておこう。父上は、べつに兄上を勘当したわけではないのだよ。兄上が気をまわしすぎて家名を名乗らなかっただけなのだ」
くつくつと笑いながらそう付け足すと、フォルは呆気に取られた顔になる。
「それと、王都へは馬車を出すので、それで宿舎へ向かうように」
「で、ですが……」
「自分の足で歩いて騎士学校に入学する者などいないよ、フォル。このくらいはさせなさい」
「は、はい」
「それまでは、この家に滞在して、家の……家族の話を聞かせてほしい。兄上は全然知らせをくれなかったからね、屋敷のものは皆、今日、お前が来るのを楽しみにしていたんだ」
「……はい!」
明るい顔でそう答える少年の姿に、また笑みが零れた。