9 カラ・ハン続き――ナギは少女を連絡役として族長に連絡をとった
「おい? 本当に本物か?」
そう言って彼は大股でつかつかとティファンに近寄った。
ティファンは小柄ではないのだが、それでもこの族長からしてみると、近寄ると上からのぞき込む、という体勢になってしまう。驚いてティファンは目を大きく開く。
「何ですか! いきなり戻ってきたと思えば? ティファンが恐がってます!」
「お、シャファ」
彼は妻の声にようやく視線を外す。ティファンは緊張が切れてその場に座り込んだ。やれやれ、といいたげにシャファはそんなティファンを助け起こす。
「お帰りなさい。別に変わったことは… ああありました。カン・ティファンが帰ってきたのですよ」
「そう、それだ」
彼は帽子を取ると、中に押し込んでいた髪を振る。黒く固くおさまりの悪い髪はようやく自由になれたとばかりにあちこちに広がった。
「なあティファン、お前何やらかしたんだ?」
「え?」
「俺は区役所に呼ばれたのは、お前の死亡通知を受け取るためだったんだぞ」
「死亡通知!」
シャファは目を丸くする。そして自分の傍らの少女と夫の顔を交互に見る。
「はい、そうだと思ってました。でもあたし生きてます。殺される訳にはいきませんから」
「それでこそカラ・ハンの民だ。…まあ何かあるとは思ったがな。お前が自殺したなんて言われたから」
「自殺!」
それを聞くとティファンはけたけたと笑い出した。
「誰がそんな冗談を! そんな訳ある訳ないでしょうに!」
「確かにそうだ」
にやり、とやや大きめの口を歪めて彼は不敵に笑った。
「よっぽど我々のことを知らない連中が作り上げたんだろう、と俺も思っていたがな。カラ・ハンの我々は自ら死ぬことなど言語同断。決して許されない。だからおかしいとは思っていたが…やはりそうか。…だがティファン、よく逃げられたな。その服はどうした?」
「そ、そうなんです、そのことで!」
「カドゥン、ティファンは直接あなたに伝えないとならないことがあるというのだ。私にすら教えない。よほど大切なことなのだろう。聞いてやってくれませんか」
「よし。中で」
*
一般的に、カラ・ハンの住居というのはシンプルである。それは建物という意味でもあり、内装や暮らし方、という意味でもある。
先ほどから家だ家だと言ってはいるが、普通の木造石造りの家を思い浮かべてもらっては困る。組立式の移動式住居という奴である。大きくて丈夫なテント、とでも言うべきだろうか。大きな丸い床板を用意し、その周りを網状に組んだ張りのある木でぐるりと円状に囲み、そこに雨も染み込まぬ厚手の布を幾重にも巻く。最後に扇を開くようにして、丸い屋根を取り付ける。
ひどく簡単なようだが、これが案外丈夫なのである。もちろん一つ一つの組合せが簡単なようでいて、実は非常に微妙なバランスを持っていることも確かなのだが、彼らはそれを経験と勘でもって突き止める。
現在彼らが居るのは、冬季居住区であるから、多少は石造りの家もある。だが、基本的に彼らは移動の民であり、遊牧の民である。華月現在は、まだ冬季居住区に住む期間だが、あと少しすればまた草原に戻る。その日を待ち焦がれていることは言うまでもない。馬に乗り、羊を追い、日の出とともに目覚め、日の入りとともに休む生活。長い長い夕暮れ。彼らは待ち焦がれている。用意を始める家もそろそろ出始めている。
ディ・カドゥン・マーイェもまたその一人である。いくら族長とはいえ、…いや族長であるからこそそうなのか。草原に出る日を待ち望んでいた。
「さてティファン、話してもらおうか」
カドゥンは座り込むと、長い足と手を組んだ。
家事一般をこの家でする初老の女性が、茶を運んでくる。乳茶である。だが言っておくがこれは学都の習慣のそれではない。ここで日中何度となく呑まれるのは、塩味の茶である。
朝早く、固茶を削って、非常に濃い茶のエキスを煮出す。それに羊や馬の乳を暖めて入れて、軽く塩味をつけて、軽い食事として呑むのである。まあ言ってみれば茶味のミルクスープというところだろうか。
ティファンの前にも、その茶が入った大きな厚手のジョッキが置かれる。ぶ厚いそれは、鮮やかな青と赤を基調の色として、やや大味とも言えなくはないような模様が描かれている。どちらかというと、濃い色であるジョッキは、白い馬乳酒や、薄い白茶色の茶を入れるとよく映える。
この地にはこういった陶器を専門で作る者も居る。これは「女の仕事」と呼ばれてはいるが、結局は男が半分を占めている。
天井には明かり取りの窓が開いているから、中に入っても暗くはない。丸く編まれた、やはり鮮やかな彩りの大きなラグマットの上に三人は座り込んだ。
「はい。族長カドゥン、まずあたしは、これを確かめなくてはなりません。ナギマエナ… イラ・ナギと言う名に覚えはありますか」
「ある」
彼は低い、だがはっきりした声で即答した。
「ずいぶん懐かしい名だ。また会えるものなら会いたいと思っていたし、会えるだろうと思ってもいた」
「それではお話します」
ティファンは姿勢を正した。
「あたしはその彼女に助けられました」
「助けられた」
「はい。あたしは殺されかけたんです。いえ、そちらの方は、自分で何とかしました。それはいいのです。返り討ちにしました。ですが、そこから逃げ出す際に」
「手助けしてくれたということか」
「はい」
ティファンはうなづく。
「もう少し詳しく言ってみろ」
イラ・ナギという名は、カドゥンにとって、一つの転機となった少女の名だった。最も、その時点で彼女は、生きてる時間だけ見れば「少女」などでは決してなかったのだが…
十二年前、彼はカラ・ハンの地に流れてきた綺麗な少女に恋した。同じ辺境の地でも、見かけはかなり違う。金と銀の間のさらさらした長い髪、金色の目。すんなりした長身はさほど起伏はなかったが、それは彼女の美しさを損なうものではなかった。
結構きちんとアプローチしていた、と彼は思う。だがそう思っていたのは彼だけで、当の彼女はそれに大して気付いていなかったふしがある。
まあそれも当然で、当時彼女は、ひどく疲れ果てていたのである。もちろん彼女はその理由は言わなかったが、その疲れ方にも彼は惹かれたのかもしれない。何せ周りは皆実に健康そのものである。
そしてその彼女が実は今上の皇后だ、ということを知った時にはさすがにすぐには信じられなかった。称号がある訳ではない。身体がそれを証明するのだ。証明したのは、初代と三代の皇后だった。
にわかには存在を信じられない来訪者だったが、彼女達は彼に次代の族長たれと告げていった。
ナギのことは好きだった。何に対しても無気力になりかけていた彼女を守ってやりたいと思っていた。しかしその無気力な彼女は、無造作に切られた髪と一緒にカラ・ハンの地に捨てられたらしい。
都市間列車に乗り込む彼女には無気力は既に消え失せていた。
彼女が消えた後、カドゥンはしばらく自分の中の何かが欠けたような気がしていた。無論それを気取られるようなへまはしない。昼間は忙しく、無くしたものを数えるような余裕はない。
だが夜になると。
割れた鏡であったり、残された服は否応なしに記憶をよみがえらせる。そしてとりあえず彼はそれらを箱に詰めた。そして、そのすき間を埋めるように日々の役目に精を出していた。忘れようとした訳ではない。忘れられる類のものではないことを彼は知っていた。
忘れられなくともいい。
だからせめて、次に会った時に、彼女に対して自分を誇れるような人間になろうと思ったのだ。
そしてやがて族長に選ばれた。その時やっと、自分をずっと見ていた別の瞳に気付いた。
ファイ・シャファ・イェンは、カドゥンの横で戦いたいのだ、と言った。
そして彼はシャファを横に置くことにした。それは正解だった、と彼は思い、そして今でも思っている。
「よほど悪い状態になっているようだな?」
「はい。東海華市内でも、第二、三男子中等学校の方でイダ・ハンやカンジュル・ハンの学生が捕らえられています。…実際に動きが不穏な者ももちろん居ますが、特に理由がある訳でもない者も最近は理由を付けられて逮捕されることが」
「カラ・ハンから行った者は… バルクム・クシュがいたな」
「彼は行方不明です。逮捕はされていないと思われます。私の元に手紙が来ました… そのせいで私も逮捕されそうになったのですが」
「と言うと?」
シャファがそこで初めて口をはさむ。
「寮舎に来る手紙は検閲されます。寮舎全体に盗聴装置が据えられています。私を逃がしてくれた友人が教えてくれました。一般には知られていないようです。私も言われるまで気がつきませんでした」
何故かティファンの顔はやや赤くなる。
「…そうか」
「イラ・ナギマエナは族長を知っていると言ってました」
「ああ。名前はやや変わっているが、昔の知り合いだ。それにしてもお前も返り討ちとはたくましい」
「ありがとうございます」
ティファンはやや頬を染めて微笑んだ。この地において、自己防衛はほとんど義務のようになっている。すなわち、自分を殺そうとしたものは、殺しても全くもって構わない、と言う論理である。その論理は、何よりもまず生き残ること、という気風から出ている。
カラ・ハンは、現在大陸を二分する大国「帝国」と「連合」をはさむ砂漠に近い草原の部族である。もともとは騎馬民族であり、戦乱の時代には活躍した者も多い。現在は、夏には放牧、それ以外の季節には居住地に住むのが普通となっている。
現在でも、馬は彼らの生活において大きな比重を占めている。子供達は小さな頃から馬と親しみ、やや大きくなれば、それなりに身体に合った馬から始めて、乗馬の訓練をする。ただし適性もあるので、どうしても合わない者への無理強いはない。そういう者にはそういう者の仕事があるのだ。
とは言え、カラ・ハンはもともと勇猛で知られる部族である。馬に乗れるに越した事はない。弓を使えるに越したことはない。剣を使えるに越した事はない。
そして何よりも彼らにとって大切なのは、生き残ることだった。
それは全ての道義に先行するのだ。
「早朝でした。私を窓から突き落とそうとしましたから、逆に返り打ちにしました。…ですからおそらく、向こうもそれを私の遺体ということにしたのだと思われます」
満足そうにティファンは言う。そして満足げに族長もうなづく。
「彼女は元気そうだったか?」
「はい」
「そうか」
シャファはそれを聞いてやはり静かに微笑んだ。
「手紙を預かってきました。族長に直接渡すように、と」
「手紙」
カドゥンの目がやや細められた。
*
ティファンは正直言って、そのあたりの様子を詳しく話すのはややためらわれたのだ。
あの朝は、薬の臭いで目が覚めた。
つんとする薬の臭い。冷たい布が自分の鼻と口を覆っていた。慌てて手を伸ばし、侵入者の手首を掴み、一気に起きあがった。
割合相手には力がなかった。だがやや薬を吸い込んでしまったらしく、おまけに寝起きだったので、やや意識ももうろうとしていた。新鮮な空気が吸いたかった。
ティファンはまだ薄暗い廊下に出た。北向きの窓がずらりと並ぶ廊下は、夜明け前の微かな光で満ちていた。
だが相手は音もさせず扉を開け、廊下にまで彼女を追ってきた。心当たりは、無くは無かった。だがその話を聞いたのは、つい前日である。前日、同郷のよしみで、時々話をする、バルクム・クシュと話した際初めて「辺境学生狩り」のことを聞いた。
それがいきなり自分に襲いかかってくるとは。この甘ったれた少女の園の中で、勘が鈍りかけていた自分にティファンは気付いた。
相手は武器を持っていた。ナイフだ、と気付くのに時間は要らなかった。まだ弱い光を刃はぎらりと反射する。柔らかい靴をはいているのか、それとも裸足なのか、足音がしない。
と、すっと相手が動いた。ティファンは身をかわす。だがやや反応が遅れたのか、左の腕に微かに痛みが走った。まずい、と思った。
確かに薬がやや効いているのだ。いまいち自分の思うように身体が動かない。
相手が何かは判らないが、着ているのは寝間着だった。そして振り向くと、再びふわりと袖が揺れる。ティファンは今度は見逃さなかった。相手右腕向かって蹴り上げる。
こん、と軽い音が耳に届いた。上手くナイフは落ちたのだ。
だがどうやら、それが向こうの狙い目だったらしい。相手はその瞬間、ナイフを捨てたのだ。
しまった。
ティファンは足を振り上げた不安定さを付かれた。さほど大きくはない身体がふっと動いて、両手を彼女に突き出した。ティファンはバランスを失って背中から倒れそうになった。
だが倒れなかった。腰がまともに何かにぶつかった。
窓のせり出し!倒れかけた身体。二つに分けた長い長い三つ編みが鞭のようにうねる。そして視線は窓越しの明るくなりかけた空に飛んでいた。
ぐい、と身体を押されるのが判る。何て力!ぶつかった腰がずい、と押されて後ろへ進んでいくのが判る。
窓は大きく、高かった。せり出しはちょっとした休憩場になるくらい低いのに、窓自体は天井まで延々続く高さである。下の部分の窓は、転落の危険があったので、開けられることはなかった。開けられるのは風を入れるための上の窓だけだった。
だがその下の窓にティファンは自分が押しつけられているのが判る。しかも片手で。何でこんな力が、というくらい、身体は動かない。ではもう片方は何処に? ティファンは視線を動かす。片方の手は、鍵を開けようとしていた。
…落とすつもりだ!
ティファンは一瞬さっと寒気が走るのを感じた。頭に一瞬にして血が上った。
これはまずい。
彼女にとって、他人に殺されることは、自殺の次に困ることだった。
生命は天から与えられたものだから、自然のままにその寿命を全うする以外の方法で死ぬことは許されないことだった。カラ・ハンの者は優れた戦士が多いが、むげに戦争を引き起こさないのは、その信仰に近いもののためである。彼らは信仰と名にはしていない。言い伝えだのきまりだの、曖昧な言葉にその信念を置き換えている。だが名はともかく、それがカラ・ハンの者の生き方の中心になっていることは事実だった。
したがって、カラ・ハンの少女であるティファンもここでむざむざ殺される訳にはいなかった。死ぬならめいっぱい年老いてから草原の空の下。こんな街中で、中等学校生のままで死ぬのはごめんだった。
…そうだ。
ティファンは片手が留守になった相手の襟首を掴んだ。まだいまいち身体が本調子ではない。だが、だんだん明るくなってきた。それがティファンを勇気づける。
相手の身体がびくんと動いた。だが相手に次の行動を取らせる前に、ティファンは相手の身体を膝で持ち上げた。相手の足がぶらぶらと宙を舞うのが判る。すねを蹴ろうとしているのが判る。だがそこで止める訳にはいかない。
ぐ、と掴んだ襟を引き寄せた。う、と相手の声が洩れた。ティファンは首をすくめた。
そして勢いよく足を振り上げた。…相手の身体を乗せたまま。
彼女はこの技には自信があった。組み合っても、幼なじみのエカムすらその時には飛ばされるのだ。
ティファンは次の事態を素早く予想して、目を閉じた。聞いたことのないような音がして… 次の瞬間、風が一気に吹き込んできた。
ティファンはゆっくりと身体を起こした。
目を閉じて、ぱらぱらと降りかかるガラスの破片を彼女は払う。髪にそれが絡まる。取ろうとして手に小さな傷がつく。
「…痛」
何とかしないと、と考えた時だった。ゆっくりと目を開けたティファンは、心臓が飛び出すかと思った。
そこには、見物客が居たのである。
「な、ナギ…」
「こっち!」
だがその見物客の反応は、予想とは全く違っていた。
ナギはさっと落ちていたナイフを拾うと、ティファンの手を引いた。そしてそのまま、彼女をひっぱると、音もさせずに自分の部屋へ入った。
「…見たの?」
し、とナギは唇に手を当て、顔を横に振った。階段を上る音、廊下を走る音が聞こえる。窓が割れた音に、舎監達が駆けつけてくるのだ。
ナギは近くの紙に書き付ける。
『髪を切って』
え、とティファンは目を広げた。うなづきも首ふりもない。ナギは構わずに彼女の三つ編みの先を掴んだ。そして先ほどの相手が持っていたナイフで、それをいきなり切った。
「何を…!」
ぱっと口を塞ぐ。そしてナギはもう片方の手で切った髪を彼女の目の前にかざす。ガラスの破片が絡みついていた。
考えてみれば、その時ナギは素手だった。だがティファンはその白い手に傷を見たような記憶はない。
髪を机の上に乗せると、ナギは続けて何やら書く。
『盗聴機が働いているかもしれない』
盗聴機のことは初耳だったので、ティファンは驚いて友人の顔を見た。
『髪を切って、短くしたら一度すすいで。でないと頭をけがする。服をあげるから、逃げなさい』
『何処へ?』
慌ててティファンも別のペンを取る。
『あなたの故郷へ。服と靴と帽子はあげる。当座の資金も。そのかわり頼みがあるの』
何の頼みだというのだろう。だがその時にはそれが悪い頼みとは考えもできなかった。
『何?』
『カラ・ハンへ手紙を届けて』
手紙? この友人が自分の故郷に知り合いがいるなど聞いたことがない。ティファンはややいぶかしげにナギを見上げる。ナギはティファンよりやや背が高い。。
『誰?』
『ディ・カドゥン・マーイェという人に』
族長を知っているの? ティファンは驚き、一瞬ためらったが、やがてうなづいた。
『判った。族長を知っているの?』
ナギはふっと微笑った。珍しい。
ティファンはナギのそんな表情を見たことがなかった。イラ・ナギマエナと言えば、学校でも有名なクール・ビューティ、かつ変わり者だった。笑顔が滅多になく、それも向けるのはその相棒くらいだ、という認識がティファンはあった。
『とても』
でもこの人ならあるのかも、と後で考えてみればおかしいのだが、奇妙にティファンには確信があった。それにそうであってもなくとも、ここは彼女のいうことを聞いておいた方がいい、とティファンのしばらく眠っていた危機対処能力は告げていた。
そして両者は目を合わせてうなづきあった。
後は無声劇さながらに静かに、かつすばやく実行された。
ティファンはややためらったが、自分の髪を切り落とした。カラ・ハンでは長く伸ばした髪を二つに分けて編むのが通例である。その編み目の美しさが問われる場合が多い。だから多少のためらいはあった。ナギはおそらくそれを知っていたのだろう。先に片方のお下げを切り落としてしまえば、もうあれこれいうことはできない。
ナギは彼女の髪をざっと切り揃えてから、洗面台で一度髪を洗わせた。残っていたガラスの破片が手を傷つけてはならないので、掃除用の防水手袋をはめて。
ナギは時々眠っている相棒の様子を確かめていたようだった。健康な少女は決して起こされるまで目覚めない。それこそキスでもすればすぐに目を開けるだろうが。
そしてクローゼットを開けると、ナギはざっと見渡していた。どれなら大丈夫なのか、考えているようだった。
ふと一着が目に止まった。それは最近送られたものだと聞いていたものである。シラの新しい服と一緒に来たそれは、ナギの好みを全く無視した色づかいで、しかも副帝都の最新モードだった。
ナギはその一着を引きずり出し、自分の寝台に放り出した。
もともとそのデザインは、さほどサイズを気にするものではない。そして普通よりは短めのスカートであり、上着である。ナギよりはやや小さいティファンが着れば「普通」程度に見えるだろう。
これを着て、とナギは髪を拭く彼女にそれを差しだした。上着だけ身につけて胸のところを掴み、余るわ、と言いたげにティファンは手を前後させる。そのくらい大丈夫、とナギは手をひらひらとさせる。
そしてまだ時々水が滴る頭を見ると、ちょっと目をつぶって、と耳元でささやき、ナギは一気に髪をタオルでかき回した。
タオルを外した時爆発したような髪を、ナギはさっとブラシでとく。それでもまだ濡れてはいるがまあ仕方がない。
目を開けたティファンは鏡の中の自分にやや驚く。雑誌でみた最新モードだ。そしてナギはクロッシェ帽を片手に、また耳元で囁く。
「しばらくここで隠れていて。…そう、午前の授業が始まって少しした頃がいいな。…そうしたらここを出て。あくまで堂々と… 荷物はいらない。資金と手紙…とあとは小さなバッグだけでいい…」
「ナギ?」
ティファンは鼓動が早くなる自分に気付いていた。この友人のこういう面を見るのは初めてだった、ということに加え、耳元で聞こえる声が妙に心地よい。これはナギが相手の力を抜く時に昔覚えた手段の一つなんだが、もちろんそんなことは健全なカラ・ハンの少女が知る訳がない。
「判った?」
「…」
「判ったね?」
そしてナギはティファンにそのままくちづけた。
一瞬もがいたが、やがてティファンの目付きがとろんと力をなくす。もちろんこれも、ナギにとっては、かつての友達アージェンの教えてくれたキスであり、単に技術の一つに過ぎないのだが、そんなことティファンは知らない。
このカラ・ハンの少女は、どういう具合なのか、上級生の来襲も、同級生の悪癖も、無縁で過ごしていたのだ。
身体を離してもぼうっとしているティファンをとりあえず椅子に座らせ、ナギはさらさら、と手紙を書いた。
そして今度ははっきりと言葉を出した。ヴォリュームは落としていたが、非常に強い口調で。
「行きなさい」
ティファンはぼんやりとうなづいた。
ナギはシラが起きてくる頃にはクローゼットの中に彼女を隠した。ティファンは二時間くらいその中で息を殺していた。
ナギが授業から帰ってくる時には既に彼女はいなかった。
*
ナギからの手紙を読むカドゥンの前で、一度にそれだけのことが頭によみがえる。どちらかと言えば、返り討ちのことよりも、友人にされたあの濃厚なキスの方がティファンにとっては大きな衝撃だったらしい。どうしてもその部分だけが異様に鮮明だった。
東海華を逃げ出した時にはさほどでもなかった。行かなくちゃ、と何かに急かされるように列車に乗り込んだ。
その記憶が一気に極彩色で迫ってきたのは、列車の座席を確保して、安心した直後からだった。
ひどく身体中がむずむずした。それは初めて感じるものだった。嫌という訳ではないが、…何となくティファンは珍しい自分に軽く苛立ちを覚えた。
「…来るそうだ」
「あの方が。こちらへですか?」
シャファは夫に訊ねる。カドゥンは大きくうなづいた。
「…どうやらひと働きしなくてはならないようだ」
……まあ、こんな風にナギが出かけるまでにあれこれあった、とか、男爵を殺す依頼だとか、断片的にあった訳です。
つなげるには当時の自分には技量が無く、今の自分には熱意が無い、と(笑)。