第406話 二日/夕方/人情を知った蒼き瞳の彼女
赤と蒼。
血の色と、空の色。
怒りの色と、恐怖の色。
激しさの色と、静けさの色。
「――こいつはね、叛逆さ」
重力から解き放たれ、蒼い髪を揺蕩うように波打たせ、美沙子は告げる。
彼女の瞳もまた蒼く透き通り、それは傷を持たないサファイアのようでもある。
「アンタがこの部屋を赤い死で満たそうってんなら、アタシはそいつを蒼い脈動で上書きしてやるさ。マレーネ・ヴィルシャ。アンタの独り舞台は、ここまでだよ」
『何を言っているのです。あなた如きが、あなたのような汚らわしい女が……!』
マレーネが、鋼の歯をこすり合わせて不快な音を響かせる。
だが美沙子は、蒼玉の瞳に敵の姿を映し、顔に浮かべた不敵な笑みを崩さない。
「来なよ、マレーネ」
アキラとシンラを背に、最前に立つ美沙子が足を広げる。
下げた両腕を腰の前に重ね、バレーボールのレシーバーのような格好になる。
「『曙天裟々銘器』」
告げたるは、美佐子自身の異能態の名。
次の瞬間、重ねた両手に蒼い光が集まって、それは一丁の拳銃を形成した。
「こっちじゃ、こいつが一番使いやすいね」
記憶の中にある器物を再現するのが、今の彼女の異面体『裟々銘器』。
それを基とする己の異能態が発揮する能力を、美沙子はすでに深く認識している。
彼女にとって、それは待ち望んだと言ってもいい能力だからだ。
一丁の拳銃を両手に掴んで、彼女は、マレーネを見上げる。
マレーネ。
マレーネ・ヴィルシャ。
異世界におけるシンラの妻。帝国の最初の皇后であり、テンラという男の母親。
その気性は用心深く計算高いが、同時に激しく苛烈な部分が強い。
シンラが『用心深く苛烈』と評したことを美沙子は知らない。
しかし、今の時点で彼女がマレーネに抱いている印象も、概ね同じであった。
「ねぇ、茅野さん」
もはや自分を相容れない敵としか見ていないマレーネへ、美沙子は呼びかける。
かつて王原と共にこの家で『自分』の味方であってくれた、茅野希美に向かって。
「『あたし』はこの家を出る前、アンタに随分とお世話になったのを覚えてるよ。欣司はいつも忙しくて『あたし』のことなんて気にしちゃいなかったし、美喜子は自分より上の相手に言われなきゃ何もしないような人間だったからねぇ」
『それが、何だと……?』
ギギギと鋼の歯をこすり続けているマレーネが、美沙子へと問いを投げ返す。
声に宿るのは、重油のようにドロリとした重たい粘着質の負念。殺意。悪感情。
「茅野さんにとって、『あたし』はどんな人間だったんだい?」
それは、ただ一度だけの純粋な気持ちでの質問だった。
表も裏もない。これまでの『美沙子』が辿った人生に基づいた、美沙子の質問。
『…………』
マレーネの耳障りな金属の歯軋りが、唐突に止む。
そこからは、しばしの無言。
彼女と美沙子は互いに赤光の瞳を蒼玉の瞳を向かい合わせ、相手に向き合う。
『美沙子お嬢さん』
紡ぎ出された声は、マレーネのものではなかった。
それは『美沙子』が過去に日常的に聞いていた、親しみ深い茅野希美の声。
『あなたは小さい頃から本当に美喜子奥様によく似ておられましたね。顔も、声も、そして何より性格が似ておられました。美智子お嬢様も同じような性格ではありましたが、より卑屈なのは美智子お嬢様で、より惰弱だったの美沙子お嬢様でした』
「ええ、そうですね。『あたし』は確かに弱かったですよ、何よりも、ね……」
美沙子の中にある『美沙子』の記憶は、それこそ、常に何かに流され続けていた。
家では家族や、欣司に、家の外では小夜子や美智子に。
『知っていましたよ、あなたが私と王原さんを頼りにしていることは。それは悪い気はしませんでした。私から見ても、お嬢さんは年の離れた妹のようなものでしたし』
マレーネが語る声には、昔を懐かしむような響きがあった。
穏やかに、しかししっかりと抑揚がついた物言いで、彼女は語り続ける。
『ええ、そうですね。美沙子お嬢さん。私にとってあなたは年の離れた妹のような存在でしたよ。何かあって、私に相談した異様な空気を醸し出しても、結局は何も言ってこない。こちらから促さないと、自分の言いたいことの一つも言えない』
鋼の髑髏が、あごをカタカタと鳴らす。
マレーネが笑っている。だが肉のない顔では、どういう笑い方かわかりにくい。
美沙子はとっくに、予想が出きてはいるけれど。
『とても、とても――、とても、《《鬱陶しい存在》》でしたとも』
「鬱陶しい、と来たかい」
『当たり前ではないですか。何か言いたいときにもこっちがアクションを起こすのを待ち続けるような相手が、鬱陶しくないワケがないでしょう? いつもこちらの顔色を窺って、結局は何も言わずにひたすら待ち続けるだけの受け身な小娘に、私はいちいち相手をして差し上げていたのですよ。感謝してほしいところです』
懐かしむような調子は、もう消えてしまっていた。
垂れ流されるのは、茅野希美から金鐘崎美沙子に対する、積年の恨み言。
王原兼続は欣司の側に立ちはしたが、美沙子のことを本気で心配してくれた。
そこに裏はない。彼は本当の意味で『美沙子』の父親代わりだった。
だが、一方で茅野希美の本音はこれだ。
母親代わりを務めてくれた彼女だが、その奥にあった本心は――、
『年の離れた妹なんて、他人も同然なのに血の繋がりがあるから切るに切れないでしょう? だから鬱陶しいんですよね。あなたはそれと同じです。美沙子お嬢様』
「――そうかい」
茅野希美は偽りなき本心を曝け出し、金鐘崎美沙子はそれを受け入れる。
この瞬間、長きに渡る彼女と彼女の関係に、永久の断絶という名の決着がついた。
『今やあなたは私からテンラを奪った元凶に成り下がったのですよ、金鐘崎美沙子。私のテンラに比べれば、あなたには価値らしい価値もない。その程度のモノです』
「だろうね。そのくらいは知ってたさ。だから――」
それまでずっと下ろしていた銃口を、美沙子がゆっくりと上げていく。
「終わりさ」
美沙子が、マレーネの頭部へと銃口を突きつける。
「アンタとアタシだけじゃない。アンタとシンラさんとのことも、アンタとアキラとのことも、アンタとテンラって人とのことも、終わりにしようじゃないか」
『金鐘崎美沙子……ッ』
これまでで、最も大きな鋼鉄の歯軋り。それはギヂリと、聞く者の耳を鋭く苛む。
『あなた如き矮小な存在が、テンラのことを語るなァ――――ッ!』
黒ずんだ頭蓋の眼窩の奥より、死を招く赤い輝きが迸る。
あらゆる生命の魂を奪い去るそれは、異能態の中でも屈指の殺傷力を誇る力。
「むなしいモンさね、マレーネ・ヴィルシャ」
だが、それを見返す蒼玉の瞳には、絶対的な自負が漲っていた。
負けぬ。劣らぬ。優りて、勝る。美沙子が、トリガーにかけた指に力を込める。
「アンタは、自分がやってるコトの意味すら理解してなかったんだね」
かざした銃口より、蒼い発火炎が瞬いた。
だが銃声はなく、場に響き渡ったのはどこまでも甲高い、硝子が砕ける音。
沈黙。
静寂。
間隙。
間隙。
長い間隙。
どこまでも間隙。
そして、何も起こらない。
『――――え?』
輝きは放たれたはずだった。
魂を奪い去って死を呼び込む、一視必殺の赤い輝きが、確かに。
『どうして、死んでいないのですか?』
「アタシが能力を使ったからに決まってるだろ。それ以外に何があるってんだい」
必然の疑問に、当然の返答。
マレーネはそれ以上は言葉を重ねず、再びその眼窩より赤い輝きが発せられる。
だが、美沙子は動かない。銃口も下ろして、笑っているのみ。
『どうしました? 抗わないのですか? 叛逆は? まさか、今ので全てを出し尽くしたとでもいうのですか? たった一度で全力を吐き出したとでも?』
「終わってンだよ、もう」
『ええ、そうですね。その通りです。あなたはこれで、終わり!』
今度こそ、死のまなざしが美沙子を捉えた。
マレーネの発した赤い閃光が、相対する彼女の身へと浴びせられた。確実に。
確実に。確実、に……、
「……で?」
『な、何故……!?』
美沙子は生きていた。
マレーネが放つ死の眼光を浴びたはずなのに、魂を失ってなどいない。
「どうしたんだい、マレーネ。アタシは生きてるよ、この通りに」
両腕を緩やかに広げる美沙子は、全くの無傷だった。
限りなく絶対に近い絶大を実現する異能態の攻撃をまともに喰らって、無傷?
「もちろん、そんなはずないさね」
美沙子がマレーネへ強気に笑って見せる。
そして、それを見ていたアキラは、笑い出さずにはいられなかった。
「冗談だろ、お袋。何だそりゃ、マジかよ……ッ」
「父上? 美沙子さんの使った能力に、心当たりがおありですか?」
シンラは理解できていなかった。
美沙子が見せた異能態の力が、一体、どういったものなのか。
それを、アキラは戦慄に顔色を青く変えながら、たった一言で説明する。
「……《《アンチ異能態》》」
「アンチ……?」
「お袋は、《《マレーネが持つ異能態の能力をこの世界から亡却させたんだ》》」
同質の能力を持ったアキラだからこそ理解できた、美沙子の異能態の本領。
それこそが『亡却の弾丸』。
相手の特異能力をこの世界より抹消する『不殺の殺』を実現する能力であった。
『なぁ、あ、ぁ……ッ』
「ま、アタシの一撃を相手に当てなきゃいけないって制約はあるけどねぇ」
絶句するマレーネを前に、美沙子は軽く苦笑する。
銃声の代わりに響いた硝子が砕ける音は、マレーネの能力が壊れる音でもあった。
今のマレーネには、誰も殺すことはできない。
彼女が誇っていた強大な殺傷能力は、美沙子の一発によって撃ち砕かれた。
「殺さずにして殺す、何という能力……」
これには、シンラも感嘆せざるを得ない。
『そ、そんな。それでは、私は、私の力は……ッ』
「もちろん、消えたさ」
声を震わすマレーネへ、美沙子は当然のように告げる。
そして、周りに倒れていたタマキやカリン、ヤジロ達がゆっくりと身を起こす。
「今までアンタが使った分も含めて、全部、まっさらにね」
亡却するとは、そういうこと。
現在より過去にさかのぼり、ソレが使われた事実が抹消される。
ただし、効果範囲が狭いからか、事実は消えども記憶までは消えないようだ。
アキラの『亡却業火』に比べると、小回りが利く、器用な能力だった。
「今のアンタは誰も殺せない、怖い見た目で人を威嚇するしかできない小物さね」
『ぐ、ぅぅ、こ、金鐘崎、美沙子……ッ、金鐘崎美沙子ォォォォ……!』
ギヂギヂと耳障りな歯軋りを無遠慮に鳴らして、マレーネは美沙子を見下ろす。
『ぁ、あ、あなたなどに……! 私が、敗れたとッ!? 私の力が及ばなかったというのですか? 私の、母親としての愛情が、テンラへの想いがッ!?』
「そいつさ」
鋼の骨身をわななかせるマレーネへ、美沙子が一言、指摘する。
「アンタ、一体これまで何に『執着』してたんだい?」
『何に? ……何にッ!? 決まっているでしょう、テンラですとも。あなた達に不当に消された、哀れな私の息子テンラの仇を、私はッ! そのために!』
平静さを失って、マレーネが猛り荒ぶる。
だが、美沙子は至って冷静に、彼女に向かって言葉を浴びせた。
「顔も覚えてない相手なのにかい?」
『そんなことは関係ないッ! 私はあの子の仇を討つ! 私が、この私が……ッ!』
マレーネが、眼球のない目から血涙をダラダラ流す。
その主張は今までもずっと繰り返されたものではあるが、ここで美沙子が返す。
「きっと、そのテンラって人は喜んでくれてるんだろうねぇ。アンタの中じゃ」
『ええ、ええッ、そうですとも! テンラは私の自慢の息子です。私が愛し、慈しんだ、最高の一人息子なのです! あの子さえいてくれたら、私は……!』
「ああ、違うよ、アタシが言ってるのは『そっちのテンラ』じゃないさ」
『え……?』
気のない様子で軽く手を振って水を差す美沙子に、マレーネがいぶかしむ。
「そいつは、アンタを嫌って遠ざけてた現実のテンラの方だろ? アタシが言ってるのは、子供に嫌われたアンタが妄想の中に作り上げた『テンラ人形』の方さ」
『テンラ、人、形……ッ』
その辛辣過ぎる表現に、マレーネはまたしても言葉を失った。
美沙子はここで小さく舌を打った。その顔つきは、非常に不愉快そうである。
「欠けた記憶を想像で補ったといえばカッコもつくけどね、身も蓋もない言い方をすりゃ、単に妄想に耽ってただけなんだよ、アンタは。母親ごっこはさぞかし楽しかっただろうけどねぇ、でもそいつは、さすがに現実の方のテンラをバカにしすぎさね」
『わ、私が、バカにしていた? テンラを、私が? 母親の、私が……!?』
震えのあまり、マレーネの鉄のあごが噛み合わなくなってガチガチと鳴る。
見上げる美沙子が「ハハンッ」と笑い飛ばし、直後にその目つきが鋭さを増す。
「コドモ、ナメてんのかよ、アンタ」
紡がれたのは、かつてシンラが聞いたものと同じ、男前な啖呵。
「今までのアンタの行動のどこに、テンラって人への愛情があったんだい? アンタは結局『妄想の中に組み上げたテンラ人形に『執着』してただけ』じゃないかい。アタシへの憎悪だって『オンナとして負けたことへの腹いせ』でしかないだろ?」
『違う、私は、わ、たし、は……ッ』
ビシリと、マレーネの鋼鉄の頭蓋に亀裂が入る。
それは瞬く間に数を増やし、内側から彼女の魂とも呼ぶべき赤い光が溢れてくる。
「マレーネ・ヴィルシャ」
拳銃を右手に構え直して、美沙子がその銃口をマレーネに突きつける。
「アンタが『執着』してたのはテンラって人じゃない。アンタは『母親であること』に『執着』してただけで、息子は誰でもよかったんだ。つまり――」
そして彼女はトリガーに指をかけて、
「全部、アンタの独りよがりさね」
蒼い発火炎と共に撃ち放たれた『亡却の弾丸』が、マレーネの眉間に突き刺さる。
その一発は、彼女の中にあった残る力の全てを、この世界から亡却した。
『ぁ、ああ、ぁぁあああああああああああああああああああああああああァあッ!』
世界を切り裂く絶叫と共に、死を招く鋼の人骨は、粉々に砕け散った。
「よかったじゃないか、怪物から人に戻れたよ、アンタ」
異能態が解除され失神したマレーネに、美沙子は楽しくなさげに呟いたのだった。




