第404話 二日/夕方/執着に染まる赤き怪物:前
マレーネ・ヴィルシャという女について、俺は多くを知らない。
シンラが建てた帝国の皇后で第一皇子を産んだ母親、ということは知っているが。
恋愛結婚ではなく、政略結婚。
当時、大陸でも三強と謳われた大国の王族の娘が、マレーネだった。
結婚式には俺とミフユも呼ばれたが、顔はややきつい感じの美人だったな。
俺のところにはあんまり来なかったから、どうにも印象が薄い。
ただ、第一皇子を産んだってのは、シンラにとっては高ポイントだったはずだ。
帝国には後宮が存在した。
全ては、帝国を継ぐに相応しい世継ぎを産むために。
第二皇子カイルは第一皇子テンラとは腹違いで、後宮の夫人が母親だそうだ。
結局、シンラの代に生まれた男子はこの二人だけで、あとは女子だったという。
シンラの子供って何人だっけ、九人? 十人?
確か、そのくらいだったと思う。
皇族って大変だねーと、十五人産んだミフユと言い合ってたのを覚えてる。
血筋からいえば俺も皇族になるんだろーがそれは『知らんわ』を貫いてました。
だってさ、シンラはとっくに巣立ってたしね。
シンラの話はシンラの話で、俺とミフユは深入りする気はなかったよ。
だから、シンラのカミさんであるはずのマレーネについてはよく知らん。
でも、シンラが送ってきた手紙に、こんなことが書いてあったのは記憶してる。
『マレーネは育ちがよく、勉学に努め、教養に富み、礼法も弁えておりまする。されど、そうして作り上げた皇后の殻に収まりきらぬ、苛烈な気性を宿してもおります。しかしながら用心深い性格の持ち主でもあり、滅多に本心を語りませぬ』
当時のシンラは『皇帝』という役割を果たすことだけに注力する人間だった。
確か『役割の奴隷』だっけか。それだったんだよな。
だから、カミさんがいても、後宮があっても、そこに向ける感情は義務感だけ。
愛情や慈悲もあるのだろうが、それもまたまず頭に『皇帝としての』がつく。
民のため、国のため、自分自身をも道具にできる『皇帝』というシステム。
それが、異世界において『天にして地』と呼ばれたシンラ・バーンズ一世だった。
そのシンラから『苛烈な気性を宿しながらも用心深い』と評された女。
マレーネ・ヴィルシャという女は、つまりそういう女らしい。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――テンラのことを、覚えている!?
「ウソだろ、オイ! 確かに俺は、あいつの記憶を抹消したぞッ!」
力を伴った赤い風が吹き荒れる部屋の中で、俺は大きく声を荒げていた。
テンラ・バーンズ。
俺の孫にして、キリオを陥れた『キリオ』の正体だった男。
こいつは、因縁を持つキリオへの仕返しにバーンズ家全体を巻き込んだ。
それで俺の逆鱗に触れて、忘却の炎『呪崩業火』によって焼き尽くされた。
テンラのことを覚えている人間は、極々少ない。
覚えているのは俺とミフユと、シンラの三人だけのはず。
それが証拠に、お袋はテンラと聞いてもピンと来ていない。
タマキも、カリンもジンギも、テンラという名前を知らなそうな顔をしている。
「ええ、ええ、そうですよ。私もあの子のことは忘れました!」
赤い風を巻き起こしながら、マレーネが嬌笑を響かせる。
「だから私はあの子のことを、《《一から知り直したのです》》!」
「な、に……!?」
マレーネの口から出た答えは、俺の理解を越えていた。
「アキラ・バーンズ、あなたはテンラの記憶を抹消した。けれど記録は残した。私の手元には、あの子との会話の記録や、異世界での日々を綴った日記があるのです!」
「そんなものから、記憶を再構成したってのか!」
そんなことができる、のか……?
あまりに突拍子もない話に、俺は愕然となってしまう。
通話の記録とマレーネは言った。
つまり、この女は日本でもテンラと接触があったワケだ。
だから『Em』で使われていた防護用の古代遺物を所有していた。
逆にそれが茅野がマレーネ・ヴィルシャであるコトの決め手となったのだが。
この防護用の古代遺物は『黄泉読鏡』の機能も遮断するらしいのだ。
お袋が美喜子と茅野を『黄泉読鏡』で確認したのは、それが事実か確認するため。
茅野に反応がなく、なおかつ赤い影が出現した際に茅野が気絶したら、王手だ。
状況証拠の積み重ねではあるが、茅野希美が『出戻り』なのがほぼ確定する。
そして、今――、
「もう、顔も覚えていません。声も、雰囲気も、身長も、好きなものも、嫌いなものも、あの子の願いも、苦しみも、私は何も覚えていません。日本でもこちらでも、残っている記録は文字ばかりで、写真の一枚もなかったのです。――けれども!」
赤い風が圧量を増す。それはマレーネの激情そのもの。
強靭で、莫大で、重厚な、こいつの母親としての情念が形を帯びたものだ。
「私にはいたのです。確かにいたのです! 私が産み、私が育て、私が愛した、私の子供が確かにいたのです! 父親に見放され、祖父に抹消された、哀れな子が!」
「ぐぬ……ッ」
シンラが呻く。
こいつも感じだのだろう、マレーネの放つ、狂気的な感情の迸りを。
「ああ、テンラ! 可哀相なテンラ! 第一皇子に生まれたあなたは確かに選ばれた者だったのに! そのあなたが辿った末路は決してあってはならないもの! 叔父に討たれ、父に捨てられ、祖父に消された私のテンラ! 私の、たった一人の息子!」
天に向かって訴えるようにして、マレーネが両腕を上にかざす。
その双眸からははらはらと涙が流れ、その顔は悲痛に、そして切なく歪んでいる。
だが!
《《この女は》》、《《今現在も何も覚えていない》》!
欠けた記憶は戻っていない。
マレーナの中にテンラの記憶は残っていない。空っぽだ。空っぽのはずなのだ。
それなのにこいつは、あまりある想像力で記憶の穴埋めをしやがった。
顔も定かではない想像上のテンラへ、母親として尋常ならざる愛情を寄せている。
「母は強しってのは知ってるけどよォ!」
こういう強さは、ちょっとゴメンこうむりてぇんだがなぁ、俺は!
「マレーネよ……」
「はい、我が『君』、シンラ陛下」
シンラに名を呼ばれ、マレーネはあっさりを涙を引っこめて薄く笑う。
「おまえは、余を――」
「私はあなたを愛しておりましたよ、陛下。あなたはそうではありませんでしたが」
「…………」
異世界での妻に愛を告げられて、心を抉られたシンラが眉間にしわを寄せる。
シンラはきっと、マレーネを愛していた。――皇帝という『役割』の一環として。
だが人は、その愛情のことを『義務感』と呼ぶ。
人として抱く感情ではなく、皇帝として必要だから形作っただけの、アイジョウ。
「異世界でのあなたは、まさに理想的な皇帝。理想的な征服者でした。その姿は雄々しくて、大きくて、まるで私と同じ人間とは思えませんでしたわ、陛下」
赤い風がさらに速度を高める中で、マレーネは笑ったまま目を細める。
「あなたの妻であれたことは、私にとっても名誉なことでした。けれども、あなたが私を娶ったのは、それが皇帝の『義務』だから。それでも私は、あなたを愛しておりました。例えそれが報われることのない、一方通行の感情に過ぎなかったとしても。私は愛しておりました。あなたを、シンラ・バーンズを、愛しておりました!」
マレーネが笑みを深める。だが、その瞳はクワッと見開かれる。
「――だから、憎い」
再び、その瞳から涙が流れる。それは赤い赤い、血の涙だ。
「あなたが憎い。『役割』を捨ててただの人間に成り下がったあなたが。金鐘崎美沙子なんていう女を選んだあなたが。テンラを見捨てたあなたが、憎い、憎い……!」
「ならば、余だけを狙えば済む話ではないか!」
「そんなわけには参りません。私はあなたを愛していますが、テンラのことはもっと愛しているのです。私はあの子の仇を討たねばなりません。この『力』で!」
赤い風はいよいよ嵐となって部屋の中を荒れ狂う。
渦を巻くそれは、間違いなく異能態の証。この女は『真念』に至ってやがる。
「私の『真念』は――、『執着』」
強烈な圧で俺達の動きを妨げていた赤い風が、止む。
その刹那、タマキが『神威雷童』を発動させ、畳を蹴った。
「でぇりゃあァァァァァァァァァァ――――ッ!」
常人には認識すらできない『縮地』からの、一撃必殺の『真打』。
防御不能、当たれば必勝。マレーネには知覚もできないはずだが――、
「タマキ・バーンズ」
変質を終えたマレーネの瞳が、赤く、輝いた。
「最初の犠牲は、あなたでいいのですね」
「ぁ――」
殴りかかったタマキが、マレーネに到達する直前で急に減速し、倒れ込む。
「あ、姉御ッ! タマキの姉御よ!?」
カリンが慌てて駆け寄って、タマキを揺り起こそうとする。
だが、その手でタマキの身に触れるなり、カリンは顔を驚愕に染めてのけぞった。
「姉御が、姉御が死んでおる……ッ」
「そう、か……」
驚きもないまま、だが奥歯を噛みしめ、俺は低く唸った。
ほんの一瞬だけ間に合わなかった。タマキは、マレーネの能力の餌食となった。
己の異面体と一体化したマレーネの姿は、黒いローブを纏った死神そのもの。
その身は鋼の光沢をもった人骨と化し、頭も黒ずんだ鉄のしゃれこうべ。
ぽっかり空いた眼窩の奥には、激しいばかりの赤光が爛々と輝きを発している。
「異能態――、『閻宮朱流狩衣』」
執着に染まり切った赤き怪物が、自らの名を俺達へと告げた。




